第2話「岐路に立つ」



 電車が来た。俺を東京へと運ぶ電車だ。これに乗ってしまえば、田舎とはもうおさらばだ。冬の冷気はただをこねる子どものように世界を包み込み、一向に過ぎようとしない。


 最後くらいサイダーがうまい季節で別れを言いたかったよ……。


「安里、離してくれ」

「嫌だ……離さない」


 見送りにきた安里は、俺のジャンパーの裾を掴んで離さない。瞳に涙をたんまり浮かべながら、俺が電車に乗るのを邪魔してくる。安里には今まで散々振り回されてきたが、ここまで融通の聞かない彼女は初めて見たかもしれない。


「電車行っちまうよ」

「だって……まだ10個集めれてないよ……」


 そしていつものようにサイダーのことを話題に上げてくる。結局あれから当たりの王冠を10個集め切ることなく、俺は今日を迎えてしまった。


 俺はこの電車に乗って東京へ行く。一人暮らしを始めて、東京の大学へ通うのだ。元々安里とは同じ大学に通うつもりだった。

 しかし、安里と共に目指していた地元の大学に、俺は合格できなかった。辛うじて滑り止めで受けていた第二志望の東京の大学に合格し、俺の一人暮らしが決まった。


 それはすなわち、安里との別れを示すものだった。


「あとは安里が集めてくれ」

「ダメ……務武君と一緒じゃないと……意味がないの……」


 冬の冷気のように駄々をこねる安里。ジャンパーの裾をちぎれてしまいそうなほど力強く握っている。その小さな手の甲に、堪えきれずに溢れた大粒の涙が落ちていく。どれだけ冷えても、凍らない悲しみが溢れ出ていく。


「ほら……最後にしようぜ、乾杯」

「うん……」


 俺は安里の肩にかけられたトートバッグから、送別の時に飲もうと約束していたサイダーを取り出す。俺が瓶を持つように促すと、安里は涙を拭いて受け取る。

 とても何かを口にできる心境ではないのはわかっている。それでも俺達の別れにはこれが必要だ。安里も辛さを噛み締めて瓶の王冠を開ける。


 パキッ


「俺達の永遠の友情を祝しまして」

「……」

「せーの!」

『乾杯』


 カツンッ

 二つの瓶が寂しく音を奏でる。これが最後の乾杯か、名残惜しいな……。


 ゴクッ ゴクッ


「ぷはぁ~! 冷てぇ~♪」


 安里に気を遣って、大げさにリアクションをする。寒い日に飲むサイダーは、まだどこか慣れないところがある。それでも、せっかくの送別の時だ。俺達の時間には、やっぱりこいつがいなくちゃなぁ。


 チリリリリリリ……


「やべっ、もう出る! それじゃあな!」


 発車のベルが駅に鳴り響く。俺は軽く手を降って安里に別れを告げる。そしてきびすを返して電車の中へと走っていく。


 ガシッ

 またもや俺はジャンパーの裾を掴まれ、引っ張られる。安里はここにきてまだ俺との別れを惜しんでいる。


「安里……」

「ねぇ、務武君……」


 彼女は絞り出すように口を開いた。




「私! 実は……!」








 窓がどこまでも続く雪景色を映し出す。俺はそれを窓にもたれかかりながら呆然と見つめる。さっき開けたサイダーはまだ半分も残っている。


「……」


 今の俺の手のひらの中には、さっき開けた瓶の王冠が握り締められている。しかし、今の俺はそれが当たりの王冠かどうかを確かめる心境ではなかった。彼女の言葉が頭に響くのだ。


「安里……」


 俺は彼女とかけがえのない約束をした。











 それからの東京での生活は、瞬く間に過ぎていった。まるで早送りしているビデオを見ているように、時間は忙しなく進んでいった。俺はその流れに翻弄されるがまま、一日一日をもがくように生きた。

 そして大学の授業や一人暮らしにも慣れ、アルバイトも見つけた。繁華街の一角に立つ100円ショップで働くことになった。


 それから約半年の月日が流れ、ようやく生活が安定し始めた頃、俺はあの人に出会った。


「みんな、ただいま」

「十和子先輩! 久しぶりです!」

「お帰りなさい! やっと帰ってきたんですね!」


 いつものようにバイトに来ると、知らない女性が一緒に出勤してきた。周りのバイト仲間は彼女のところへ駆け寄る。


「あっ、井原は知らないよな。この人は小栗十和子さん。お前がここに来る少し前にオーストラリアに留学に行ってたんだ」

「はじめまして、小栗十和子です」

「ど、どうも……井原務武です……」


 俺は十和子さんと不慣れな握手を交わした。なんて温かい手をしているのだろう。手足が細くスラッとした体格で、黒髪ショートのクールな女性だった。

 彼女は大学三年生で、ここのバイトの最年長者でもあった。バイト仲間の反応から見るに、だいぶ慕われているようだ。


「よろしくね♪」

「はい、よろしくお願いします……」


 彼女の笑顔は、誰かに似ていた。






「お疲れ様でした~」


 閉店作業を全て終え、十和子さんを含めた俺達バイト組は裏口から店を出た。外は街灯が既にいくつか消えていて、街は今にも眠りにつこうとしていた。それぞれ駅へ向かう者、自分の家まで歩いて行く者に別れた。


「ねぇ務武君」

「は、はい」


 急に十和子さんが話しかけてきた。下の名前で呼んできたことに驚きだ。顎をなで回されたような緊張感が走る。


「家どっちの方向?」

「大久保駅の近くです」

「途中までは一緒みたいだね」


 そう言って、十和子さんは俺に着いてきた。歳近の異性と夜道を歩くなんていついらいだろう。いや、以前に経験したことなんてあっただろうか。ここ一年のあまりにも忙しない日々のおかげで、記憶があやふやになっている。


「街灯がまだ点いてるとはいえ……暗いね」

「そうですね」

「暗闇から何か出てきそう」

「怖いこと言わないでくださいよ」


 この人はよく喋る。ペースを合わせて俺も他愛ない返事で茶を濁すが、なぜか内心彼女との会話を楽しんでいる自分がいるような気がする。


「十和子さんはオーストラリアに行ってたんですよね」

「そうだよ。凄かったなぁ……オペラハウス、ハーバーブリッジ、ウルル、ブルー・マウンテンズ、グレートバリアリーフ♪」


 そこから十和子さんは頼んでもいないのにオーストラリアでの思い出を語り始めた。ただ黙って歩くのもつまらないため、別れるまで彼女の話に耳を傾けた。

 しかし、驚いたことに彼女の話はとても興味深く、海外に特に興味があるわけでもないのに聞き入ってしまった。


「それでね~、そのパン屋のおばちゃん話が長いの。なかなか帰してくれなくてね……」

「ははっ、それは災難でしたね」

「でも、何だかんだいい人だったわ。最終日には菓子パンおまけしてくれたの」

「よかったじゃないですか! あ、俺こっちです」


 十和子さんの話に夢中になっていると、いつの間にか家の近くの路地まで来ていた。彼女はここから別方向らしい。名残惜しい気持ちが、俺の足をその場に留まらせる。俺はその気持ちも振りほどき、無理やり家の方向へ足を傾ける。


「十和子さん、また明日……」

「務武君!」


 十和子さんの声で再び足を止められる。彼女はトートバッグからスマフォを取り出す。


「よかったらさ……連絡先交換しない?」

「……いいですよ」




 二つ返事で承諾してしまった。ただの黒い文字で書かれた「小栗十和子」という名前が、連絡先リストで圧倒的存在感を放っている。俺のスマフォに初めて母さん以外の異性の連絡先が追加された。

 そもそも俺に異性の知り合いなんて全くいない。それでも友達はできたため、幸せな日々は送ることができている。そこへ新たに十和子さんという気になる異性が加わった。


 気になる……?


「……」


 自分で自分の気持ちがわからない。彼女の隣にいると、俺は心を温かく満たされた気分になる。彼女と一緒にいることで、俺の心に何らかの働きが生じている。


「何なんだ……」


 原因のつかめないもどかしさに戸惑いながらも、俺は家に帰って風呂に入り、そのまま就寝についた。それでも十和子さんのことを考えると眠れなくなった。






「おはよう、務武君」

「おはようございます」


 気兼ねなく声を掛け合うまでに仲良くなった俺達。昨日の夜少し話をしただけだが、十和子さんの方はどんどん距離を積めてくる。


「ねぇ、これ見て」

「おぉ……コアラ……」

「触ったんだよ♪ 写真撮るのに25ドルも取られたけど、いい思い出になったよ~」

「そういや、オーストラリアってコアラ抱っこするの法律で禁止されてるんでしたっけ」


 朝からいきなり話題を持ちかける十和子さん。すごいな、きっとこうやって他のバイトの子とも距離を縮めていったのだろう。


「十和子先輩、務武と何かあったんすか?」

「昨日一緒に帰ったんだ~♪」

「なっ……務武! マジかよ!?」

「抜け駆けしやがったな!」


 バイト仲間が一斉に俺を睨み付けてくる。え……何? 十和子さんってここのアイドル的存在だったの!? なら最初からそうと言っといてくれよ!


「まぁまぁ、みんな落ち着いて。そんなんじゃないから」

「そ、そうっすか……」


 十和子さんがなだめると、みんな落ち着いて開店準備へと向かっていった。そんなはっきり言われるとへこむな……。


「務武君、行こう」

「はい……」


 でも、十和子さんは確かに魅力的だ。優しいし、明るいし、一緒にいて楽しい。誰もが狙いたくなる気持ちもわかる。こんなに心を奪われるような女性に会ったのは初めてかもしれない。十和子さんの大きな背中を眺めながら思った。




 あれ? 俺……何か大切なことを忘れているような……。






「お疲れ様でした~」

「お疲れ様で~す」


 十和子さんと会ってから一ヶ月ほどが経った。もう12月だ。いつものように彼女と暗い夜道を歩いて家に帰る。この時に最近面白いことはあったかとか、好きなもの嫌いなものとか、他愛のない会話をする決まりになっていた。

 最初は彼女の話を聞くだけだった俺も、だんだん自分のことを話すようになった。


「さて、今日は何を話します?」

「うーん、そうだなぁ~」


 やけに落ち着いた調子で話す十和子さん。いつもならアイツみたいに決壊したダムのごとく話しまくるのに。




 アイツ……?


「恋のお話とか!」

「恋バナですか!?」


 突拍子のない話題が出てきて、俺は思わず冷や汗をかく。恋バナとはすなわち、自分が恋心に近い想いを抱いている人のことについて話すことだ。


「務武君は好きな人っている?」

「えっ……お、俺は……」


 好きな人なんてとっさに思い浮かばないですよ! ここで「十和子さんです」とでも言えば、彼女はどんな反応を示すだろうか。正直異性として見て魅力的に思えるのは確かなんだ。


 いや待て、そんなこと言ったって彼女を困らせるだけだろう。それに自分で言うのも恥ずかしいぞ。


「あっ、自販機だ。ジュースでも買いません?」

「こら、話題を反らそうとしない! 買うけどね」


 バレた。とにかく恋バナは俺にはハードル高過ぎですってば。十和子さんは自販機の前に立ち、小銭を投入する。


 ガコンッ


「そういう十和子さんは好きな人いるんですか?」


 飲み物を選びながら、横目で十和子さんに尋ねる。必殺「そういうあなたはどうなんですか」返しだ。


 ガコンッ


 しかし、缶コーヒーをすする十和子さんは、大人の余裕を見せつけて答えた。


「……いるよ」

「マジですか!?」


 彼女が堂々と胸を張って言ったことに驚き、危うく取り出した飲み物を落としてしまいそうになる。それと同時に、心がモヤモヤする。この気持ちの正体を、俺は何となく想像できる。


 その好きな人が俺であるようにという願いと、俺でなかったらどうしようという不安が混ざったものだ。どちらにせよ、俺はやっぱり内心彼女に恋心を抱いているのは明白らしい。


「いるんですね。驚きです」

「務武君……」


 彼女は真面目なトーンで俺に尋ねる。






「なんでこんな寒い日にサイダーなんて飲むの?」




「え?」


 俺は手に握られた飲み物を確かめる。ペットボトルに入った微炭酸のサイダーだった。正直俺はテキトーにボタンを押していた。つまり、これは無意識に俺が選んだものだ。


「なんで俺……」


 “なんで”というのは、なぜ俺はこんな寒い真冬の日に寒い炭酸飲料を外で飲もうとおもったのか……ということではない。サイダーを見つめていると、何だか懐かしいような、寂しいような、切ない気持ちが込み上げてくる。自分の心がわからないのだ。


 俺はいつも正体のわからない感情に揺さぶられてきた。彼女への恋心とは違う……何か別の……まるで鎖で繋がれて引っ張られるような感覚に。これは一体……。


「面白いね……務武君」

「え?」


 いつの間にか缶コーヒーを飲み干し、缶のゴミ箱に捨てていた十和子さん。その表情は俺と似て、どこか寂しそうだった。


「うん、ほんと面白い」

「十和子さん?」


 十和子さんはゆっくりと近づいてきて、ペットボトルを持った俺の手を握る。その手は温かい。だが、決して缶コーヒーによって温められたものではない。


 そして彼女は口を開いた。






「私ね、務武君のことが好き」

「……え?」

「務武君、私と付き合ってください」




 この時、俺の目の前に二つの道ができた。彼女の手を取るか、それとも彼女への気持ちとはまた違う出どころのわからない感情を追うか、その二択だ。


 このまま彼女の気持ちに答え、彼女と共に人生を歩んでいくか。または、誰への思いかもわからない感情に揺さぶられながら生きる人生を選ぶか。どちらの道の地図も、俺は持っている。


 俺は……どうすれば……。


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