高潔か愚者か

 戦後の混乱期に闇米を拒否して餓死した方の話は、当時も今も、高潔か愚かかの問いを投げかけてきます。
 亀尾英四郎氏よりも、判事の山口良忠氏のほうが私には印象に残っています。闇米を取り扱っていた者を裁く側の者であったことから闇米を拒み通し、家族にもそれを強いて、結果として死に至った裁判官です。

 泥中の蓮でありたいと志すには、蓮を咲かすだけの基礎体力がないと無理なわけで、それが食料であるのなら、食べる方を優先するのがやはり正解のように想います。何も人を殺して奪うわけじゃあるまいし。

 わたしは自分が俗人であることを自覚しているのでこの回答になりますが、それでもなおも職業倫理や本人の信条において闇米を拒否し続けた方は、いわば殉教者のような強い精神の持ち主なのでしょう。彼らが咲かせたかったのは精神の花であって、それは彼らの死をもって泥中に立派に咲いたともいえます。

 家族を道連れにするところはまったくいただけませんが、これは現代人の感覚であって、戦前の家長は絶対者でした。

 高潔でありたいと願った長男のふるまいによって犠牲者が生まれてしまった時、はじめて長男は狂信者のように突き進んできたおのれの過ちに気づきます。飢えを選ぶのならば彼だけが飢えるべきだったのです。
 特攻によって散るべき命を「泥中の蓮になること」におきかえた長男の一途な想いこみはさらなる悲劇しか招きませんでしたが、どれほど世の中が乱れても心の底に気高さをもって生きようとする人々がいなければ、その後に蓮の花が咲くこともありません。

 長男は愚かだったのかもしれません。しかし遺された家族にわずかな種を残していきました。今は泥中でもそれはいつか芽吹くのです。
 それが本作の続編にあたる長篇で分かるようになっています。

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