泥中の蓮(でいちゅうのはす)

大田康湖

第1話 再会

 1945年10月8日、東京。そのとある下町の一角に、復員兵らしい一人の青年がたたずんでいた。その視線の先は、黒い塊を指していた。

「やっぱり、駄目だったのか……」

 聞き取れるか聞き取れない位の声で青年はつぶやくと、黒い塊に歩み寄った。それは、焼け落ちた家の残骸だった。彼は煤けた土台石に腰を下ろすと、そのまま凍り付いてしまったかのように、動かなくなった……。

 それからどれ位たっただろう。こちらへ近付いてくる声に青年は我に返った。そして、声のする方にふりむいた。

 それは二人の少年だった。一人は十四歳位。もう一人は二歳ほど年下に見える。年下の方の少年が、年上の方の少年に向かってしきりにしゃべりかけていた。

「兄さん、今日はついてたね。だってあんな穴場めったにないよ。あーあ、働いたらハラへっちゃった」

「うん……」

 兄の方は生はんかな返事しかしない。ふと彼は、少年の目が自分を見つめているの に気付いた。すると兄が、弟のシャツを引っぱった。

「なあに、兄さん」

 弟が兄の顔を見つめると、兄は弟の耳に口をよせて二言三言つぶやいた。

「えっ! そんな!」

 弟はひどくびっくりしたような顔をしたが、兄があわてて人さし指を唇に当てた。

 そんな兄弟のしぐさを見ているうちに青年は、なんともいえない気持ちになってきた。心の中でそっとつぶやく。

(もしかしたら、あの二人は俺の弟達かもしれない。でもそうだとしたら、妹や母さんはどこにいるんだ。それに、俺だって三年も家族の顔を見てないんだ。ただの通りすがりかもしれない……)

 青年が考えこんでいるうちに、二人の少年は彼の近くにやってきた。兄の方がおそる おそる声をかける。

「あの、そこどいてくれませんか」

 青年は顔を上げた。その目は、少年の着ていた上着の胸に吸い寄せられた。縫いつけてある名札には、"横澤勇二郎よこざわゆうじろう”と書かれている。次の瞬間、彼はわななきながら叫んだ。

「勇二郎! 勇二郎なんだな!」

 兄弟は一瞬あっけにとられていたが、やがて勇二郎が叫んだ。

「やっぱり、兄さんだったんだね! よかった!」

 弟も歓声をあげると、青年に抱きついてきた。

よう兄さん、お帰りなさい!」

 その時だ。焼け落ちた家の裏手から、声が聞えてきた。

「ちょっと、二人ともどうしたの?」

 そしてその声と共に、一人の少女が出て来た。年のころは十八歳位だろうか。彼女も青年の姿を見ると、あわててかけ寄って来た。

「兄さんじゃない! 一体、いつ帰って来たの?」

「ついさっきだよ。それにしても良かった。最初にここを見た時には、やはりみんな空襲でやられちまったんだと思ってあきらめてたよ。それより、母さんに挨拶してこなきゃな。どこにいるんだい」

 その言葉を聞くと、少女の顔が暗くなった。青年はあわてて言った。

「おい、かつら、もしかして……」

「その、もしかしてなの」

 かつらは、そう言うとうつ向いた。


 家の裏手に四人は立っている。その前には防空壕の入口があった。

「今はこの中で暮らしているの。ちょっと狭いけどがまんしてね」

 かつらが先に立って中に入った。木箱の上で小さなろうそくがチロチロと燃えている。 目が慣れるまでしばらくの時間がかかった。その間にかつらが、淡々と話しかける。

「お母さんは落ちてきた焼夷弾に当たって、大やけどしたの。『羊太郎ようたろうが帰ってくるま では、せめて生きていたい』って言ってたんだけど……」

 やっと闇に馴れてきた羊太郎の目に、二つの位牌が飛び込んできた。かつらがそれを見てとったらしく説明する。

「右がお母さんよ」

 羊太郎は静かに位牌の乗せてある木箱の前に進み出て手を合わせた。そして、心の中でそっとつぶやいた。

(お父さま、お母さま、死にぞこないの長男羊太郎は、ただ今戻ってまいりました)


 -死にぞこない-羊太郎の言葉は、その経緯を知れば、なるほどと思われることであろう。彼は、特攻部隊-つまり、神風特別攻撃隊の一員だったのである。しかも彼は八月十六日に出撃するはずだった。

 ところが八月十五日、戦争は終わった。羊太郎は、心の中を冷たい風が吹き抜けていくのを感じた。しかも、戦死する覚悟は、もうすっかり彼の心の中に根づいてしまっていた。

 最後の面会日に、羊太郎の所には誰も来なかった。最後の家族からの便りは、父が戦死した知らせだった。東京の空襲のすさまじさを聞かされて来た羊太郎は思った。

(きっと、みんな空襲でやられちまったんだ。だから、みんなそらで俺が来るのを待ってるんだ)

 この思いは、羊太郎の死へのあこがれをますます強くした。

(みんなからは英霊と呼ばれ、一刻も早く家族のもとへ行ける。一番上等じゃないか)

 だが、彼は思いを遂げることが出来なかった。傷ついた心のまま、羊太郎は(家族がまだ生きているかもしれない)という一縷いちるの望みを抱いて、東京に戻ってきた。ところが、家のあった場所は焼け野原の一部になっていた。絶望した羊太郎の姿を見つけたのが勇二郎と、弟の康史郎こうしろうだったという訳だ。


 缶詰の魚を息もつかずに食べている弟達を見ながら、羊太郎は言った。

「どうやら、これが一番のおみやげだったらしいな」

「ええ」

 かつらが相槌を打った。

「何しろ、配給が乏しくて。それ、ヤミ市で買ってきたんでしょ」

「いや、軍隊でもらったんだ。それよりヤミ市って何だ?」

「あら、駅の所にかたまってなかった?」

「ああ、あいつらの事か。いったいどこから持ってきたのかと思うくらい、何でも積んであったな」

 羊太郎の顔がゆがんだ。

「そうなの。その上値段も高くて。でも仕方ないから、最近弟達が、焼け跡でクズ鉄拾をしてくるようになったもので、そのお金でお米なんかを買ってるの」

「そうか」

 羊太郎はさきの二人の会話を理解することができた。と同時に、なんともいえない気持になった。彼はしばらく考えていたが、やがてこう言った。

「いいか、明日からは俺が働く。だから、勇二郎も康史郎も働かなくていい。それに、もうヤミ市には出入りするな。あんなやつらにうまい汁を吸わせる必要はない」

 この時、かつらは羊太郎の寝場所の事で、勇二郎と康史郎は缶詰の中身の事で頭が一杯だったので、この兄の言葉が後でどういう意味を持つようになるかなど、思ってもみなかった。

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