第2話 発覚

 それからしばらくの時が過ぎたある日、かつらは壊れかけた買い物かごを抱えてヤミ市の中を歩いていた。

 彼女自身、羊太郎の言葉を無視するつもりはなかった。だが実際問題として、配給だけではやっていけないのである。そこでかつらは隙をみては、必要最小限の物資を買いに行くのであった。それに、かつらは最近夜になると、目が見えなくなることがあった。俗に言う、トリ目とかいうものらしい。

(これで本当に目が見えなくなっちゃったら大変だわ。そのためにも、もっと栄養をとらなくちゃ)

 そんな事を思いながら歩いていたかつらの目にふと、並べられた魚が映った。近寄ってみると、それはさんまだった。

(もう、そんな季節になったのね)

 海は戦争とはあまり関係がないらしく、さんまは油がのっていかにもうまそうだ。しかしそれに比例して、値段もしっかりついていた。

(でも、これを買っていったら、きっとみんな喜ぶわ)

 かつらは決意すると、

「これ、4匹下さい」

 と言った。


 香ばしい匂いが防空壕のあたりに漂っている。それもそのはず、入口の七輪の上でさんまが焼かれていたのだ。かつらがせわしなくトタン板であおぐのを、勇二郎と康史郎がながめていた。

「ねえ、まだ焼けないの? もうこれ以上待てないよ」

 康史郎がじれたように言うのを、かつらがなだめた。

「もう少しよ。それまでには、兄さんも帰ってくるわ」

「チェッ、さっきからそればっかし」

 康史郎はぼやいくと話し続けた。

「それにしても、どうして羊兄さんは、『ヤミ市で物買っちゃいけない』なんて言うんだろ。こんなおいしそうなさんま、配給じゃ絶対手に入らないのに」

「『あんな奴らに、うまい汁を吸わせる事はない』って事だろ」

 勇二郎は、わり切っているというような調子で答えた。

「でも、こんな時に『正義の味方』気取ってもしょうがないじゃん」

「兄さんは、昔からこうだと思い込んだら、滅多に考え方を変えない人だったから」

「やれやれ」

 康史郎がため息まじりにつぶやいたその時だ。

「ただいま」

 羊太郎が上からのぞきこんだ。

「ヤッター!」

 康史郎と勇二郎が歓声をあげた。


「どう、おいしい?」

「ああ。久しぶりにうまい物食ってるって気がするな。欲言えば、これで大根おろしがついたら最高だね」

 かつらの問いに羊太郎が答えた他は、夢中でさんまにかぶりついていた。

「そうそう、いつまでも防空壕住まいでもらちがあかないし、そろそろ地上に移りたいな。こんどの休みからとりかかりたいから、焼け跡から使えそうな木材探しといてくれ」

 今日の羊太郎は上機嫌だ。いつもよりだんぜん口数が多い。もちろん、彼はこのさんまがどういう経緯で手に入ったかなんて、全く知らないのだ。

(良かった。兄さんがあんな顔見せるなんて。まるで子供みたいにはしゃいでる)

 かつらは、心の中で微笑んだ。


 翌日。羊太郎が、いつものように仕事をしての帰り道、家の近くまで差し掛かった時に一人の女性が話しかけてきた。隣の空地にバラックを建てて住んでいる山本家の母親なのだが、羊太郎はあまり面識がなかった。

「どうも、こんばんは」

「こんばんは」

 羊太郎はあいさつを返した。

「本当に、お兄さんが帰ってきてからは、妹さん達も明るくなって。なにしろ、女子供だけではこの時世、心細いですからね」

「ええ。でも、次第に良くなってきてるんじゃないですか。昨日食べたさんまなんか、本当にうまかったし」

「そういえば、昨日妹さん、市場で買っていらしたっけ。でも、配給であれだけのものは当分出ないでしょうね」

「えっ?!」

 羊太郎は、山本さんの顔を穴があくほど見つめた。そして、あわてて背を向けた。

「すみません、急ぐんで。失礼します」

 彼が背を向けたのは、急いでいただけではなかった。怒りがもろに現れた顔を、山本さんに見せたくなかったのである。


 かつらは防空壕の入口で食事の支度をしていた。ふと外の方から、荒々しい足音が聞こえてきたので、彼女は思わず顔を上げた。そこには、一目で激怒しているという事が分かる羊太郎の顔があった。

「かつら! お前は……。お前は俺をだましてたんだな!!」

 兄の怒鳴り声に当てられ、かつらは一瞬ぼおっとなった。だが、彼が何を怒っているのかは、すぐ分かった。彼女はうつ向くと、つぶやくように言った。

「そう。私、兄さんをだましていたわ。でも仕方なかったのよ。だって、家には育ちざかりの子供が二人もいるのよ。配給だけでやっていけるはずないじゃない」

「勇二郎や康史郎の事ぐらい、俺だって考えてる。この焼け跡を片付けて、畑を作ったっていいし、俺の喰いぶちだって、いざとなったら削ってもかまわないと思っている。だが、ヤミの物を買うのは、絶対駄目だ」

「でも、現に……」

「黙れ!! 俺はこの家の長男だ! 俺の命令は絶対だ!!」

 かつらはぐっとつまった。その時だ。

「それは違うよ、兄さん!」

 羊太郎の背後で、勇二郎の声がした。

「僕、今日学校で教わったんだ。これからは、みんなが平等な立場に立って行動するんだって」

 羊太郎は、勇二郎の方に向き直ると、なんともいえない目つきで彼を見つめた。そして、つばを吐き捨てると言った。

「勇二郎、お前も知っていたのか、このことを」

「うん」

「僕も知ってたよ」

 勇二郎の脇にいた康史郎が、勇二郎のうなずきに合わせて言った。

「そうか。みんなそろって、俺を騙してたって訳か……」

 羊太郎は、ため息と憤りの混じったような声でつぶやく。そして、かつらに命令した。

「かつら、財布を出せ」

 かつらは、無言でふところから財布を取り出すと、羊太郎に差し出した。彼は、それを引ったくると、ポケットに突っ込んだ。そしてこう宣言した。

「いいか、これから家の金は、俺が全て管理する」

「そ、そんな、ムチャクチャだよ!」

 叫び声をあげた康史郎を羊太郎がにらみつける。

「俺は、お前らにヤミ買いをさせるために、金をかせいでいるんじゃない。両親に墓を建ててやりたいから、金をかせいでいるんだ」

 羊太郎は防空壕の中を見た。

 いつもの康史郎ならここで引き下がっただろう。だが、今の彼は違った。彼は、羊太郎の前に進み出た。

「いくらお金をためても、僕達が先に死んじゃなんにもならないよ」

「なるもんか」

「でも、今日だってお昼もろくに食べられなかったんだ。勇兄さんも姉さんも、口には出さないけど、今までずっと我慢してきたんだ。大体、なぜそんなにヤミ買いにこだわるの? みんな当り前にやっている事なのに」

「……」

 羊太郎は目を空に向けた。そしてそのまま、ゆっくり語り始めた。

「そんなに訳が知りたいんなら、話してやろう。承知の通り、俺は死の一歩手前で帰ってきた。俺は、飛び立っていったまま、二度と帰ってこなかった仲間達をたくさん知っている。生き残った俺達の任務は、彼等の死を無駄にしないような、新しい日本を作りあげることだと思う。

 だが、帰ってきて俺は失望した。この混乱をいいことに、不当な事をして金をもうけようというやつらがのさばっている。死んでいった仲間達だって、これを見たら、草葉の陰で舌打ちするに決まってるぜ!」

 三人は、無言で立ちすくんでいた。

「でも俺達は、こんな泥沼のような世の中で、清らかに咲く蓮の花になるんだ。ことわざにもあるだろ、『泥中の蓮』って。俺達がやった事が捨て石にならないのなら、俺は飢え死にしたって悔いはない!」

 羊太郎の拳が、ピリピリと震えている。

 しばらく沈黙の時間が続いた後、康史郎が言った。

「僕は、できないよ。飢え死になんてしたかないんだ。そんなにやりたきゃ、羊兄さんだけやってればいいんだよ」

「俺が、……俺がこんなに言ってるのが、分からんのか!」

 羊太郎の拳が振り上がった。次の瞬間、康史郎の体は地面に叩きつけられた。

「分かった! もう俺は、お前にはかまわん! ただ、横澤家の信用を落とすような事だけはするな!!」

 羊太郎は吐き捨てるように叫ぶと、防空壕の中に入っていった。


 その時以来、横澤家の財布のひもは羊太郎の手に渡った。そればかりではない。彼は仕事を終えた後、家(とはいっても、ほとんどバラックだが) を建てるために、弟妹総出で整地からやり始めたのだ。康史郎もまさか我が家に無頓着でいる訳にもいかず、しぶしぶ手伝っていた。こんなハードな作業をしていては、ただでさえ体がもたないのは分かりきっている。羊太郎でさえも、自分が栄養失調気味なのにうすうす感づいていた。だが、彼は弟妹達の体でその症状がずっと進んでいるなどとは、夢にも思わなかったのである。

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