第3話 破綻

 11月。新しい家が、やっと完成した。焼け残りの木材やトタンをかき集めただけのバラックだったので、体裁は非常に悪かったが、ぜいたくを言っていられる時世ではない。

「ここが母屋、あちらが離れ」

 康史郎は、バラックと防空壕との関係を、こんな風に表現した。

「これで、ようやく一段落したな」

 羊太郎も、満足気につぶやいた。

 その翌日。かつらは、いつものように昼食を作ると、二人の弟達が帰ってくるのを待った。二人とも、しばらく前から昼食を家でとるようになっていた。それは、昼食がとうてい学校へ持っていける代物ではなかったからである。康史郎はいつも通り帰ってきたが、勇二郎はなかなか帰ってこなかった。

 康史郎は学校に戻っていった。授業が始まってしまうからだ。かつらは 冷えきった昼食を見つめながら、

(勇二郎、一体どうしちゃったのかしら)

 と考えていた。その時だ。

「姉さん、姉さん!」

 不意に康史郎の声がした。かつらは、その声にただならないものを感じて、あわてて扉代わりのむしろを上げた。康史郎の腕に、勇二郎が抱きかかえられているのを見た。

「どうしたの、一体!」

 かつらはそう叫びながら、倒れこむように家の中に入った康史郎の手から、勇二郎をバトンタッチした。

(軽い。そして、重い)

 複雑な思いが、かつらの脳裏をかけめぐった。

「家の前の道の曲がり角の所で、崩れるように倒れていたんだ」

 康史郎の声が、何だか別の世界から聞えてくる感じだ。

「康史郎、布団敷いてちょうだい!」

「うん、分かった!」

 康史郎は返事すると同時に、奥の寝具に手をかけていた。

 敷き布団と枕を彼が置くのを待ちかねたようにして、かつらは勇二郎を横たえた。やっと手が空いたので、額に手を当ててみる。燃えるように熱い。

(そういえば、朝咳こんでいたわ。あの時、もっと注意していれば)

 かつらの心に、自責の念が浮かんだ。

「姉さん、お医者さん呼ばないの?」

 勇二郎に掛け布団をかけながら、康史郎が尋ねた。

「だって、お金が……」

 口ごもるかつらに、康史郎が言った。

「僕が、兄さんを捜してくるよ!」

「仕事場どこだか、分からないのに」と言おうとしたかつらだったが、その時にはもう、康史郎は外に走り出ていた。


 外へ飛び出した康史郎は、前の道を左に曲がった。一度しか行ったことはなかったが、この方向に兄の仕事場があるはずだ。

 どこもかしこも焼け野原の上に、日に日に新しいバラックが立ち並んでいくため、道を辿るのは、生易しいことではなかった。しかし、彼はなんとか、羊太郎の仕事場である工事現場にたどり着くことができた。

「羊兄さーん!」

 羊太郎の姿を認めると彼は駆けよった。

「康史郎! 学校はどうしたんだ!」

「それどころじゃないよ! 勇兄さんが、倒れちゃったんだ!」

「何だって!!」

 羊太郎は、手に持っていたシャベルを取り落とした。そして、あわてて拾い上げながら、

「医者は呼んだんだろうな」

 と尋ねた。すると康史郎は、怒りを顔にはっきりと表しながら言った。

「お医者さんに払うお金は、羊兄さんが持っているんだよ」

「金は、後払いでもかまわんじゃないか」

 康史郎はうつ向いた。

「今すぐ医者を連れてこい。俺は組長に断わってから、家に帰る」

「分かったよ」

 康史郎は答えると、今来た道を走りだす。その背中に羊太郎が叫んだ。

「大急ぎだぞ!」


 羊太郎が家に着いた時には、まだ医者は来ていなかった。かつらが出迎える。

「兄さん……」

「勇二郎は、どんな具合だ」

「かなり苦しいみたい。時々うめき声をあげるの」

「あいつ、もとから体弱かったからな。少し働かせすぎたか」

「そうかも知れないわ」

 二人の頭に、勇二郎が生まれた時の事が浮かんだ。彼は、双子の片割れだった。しかし、どちらも月足らずで生まれたため、弟は間もなく死亡し、勇二郎は辛くも生き残ったのだった。父が二年後に生まれた男子に、「三」ではなく「史」を用いたのは、そんな出来事を配慮したのだろう。だが、その父ももはやいない。去年の暮れ、中国の地で戦死したのだ。

「とにかく、中に入ろう」

「ええ」

 二人は目でうなずくと、バラックに入った。


 医者は、それからしばらくしてやって来た。しかし、その言葉は羊太郎にとってかなり過酷なものだった。

「いいですか、弟さんは完全に栄養失調ですから、単なるかぜだと思っていると、取り返しのつかんことになりますぞ。今からでもいいから栄養をつけてあげれば、熱に対する抵抗力もついて自然におさまるでしょう。それからあなた方、人の事もいいが、自分の体の心配もせんと、今度はそちらがやられますぞ」

 医者は勇二郎に解熱剤とブドウ糖の注射を打つと、帰っていった。かつらが表まで送っていく。

「羊兄さん」

 医者が出ていくやいなや、康史郎は羊太郎に顔を向けた。

「ほら、お医者さんだってああ言ったじゃないか。もうこんなバカなことやめよう!」

「この間言ったろ。俺は死んだってかまわない。勇二郎がどうのこうのというのとは、別の問題だ」

「でも、このままじゃ勇兄さんは死んじゃうよ! 勇兄さんとは話が別だっていうんなら、お金出してよ!」

 羊太郎は無言だった。


 しかし、医者の言葉は正しかった。勇二郎は、注射をしてからしばらくは 熱の苦しみもいく分やわらいだようだったが、夜になると、再び熱が上がったらしく、うめいたり、うわ言を言うようになっていた。家の中では、かつらが勇二郎に付きっきりで看病し、羊太郎は、家の隅で壁に顔を向けていた。しかし、康史郎はいなかった。彼は羊太郎などあてにするのをやめて、自分でかせいだ金で食べ物を買おうと、外に働きに行ってしまったのだ。

「お水取り替えてくるから、勇二郎をお願いね」

 かつらが外に出ていったのを見はからって、羊太郎は勇二郎の枕元に近づいた。

 勇二郎は、絶えずうわ言を言っていた。乏しいろうそくの光で見ても、彼の類は落ち込み、布団の上からでもやせ細っているのがよく分かった。

(このままじゃ、勇二郎は死んじまう!!)

 羊太郎の心に、初めて死の切迫感が生まれた。

「勇二郎、俺の声が聞えるか」

 羊太郎は勇二郎のかたわらに座ると声をかけた。すると苦しい息の下から、返事が返ってきた。

「あ、兄さん」

 あえぎながら必死になってこちらに顔を向けようとしている勇二郎が、羊太郎には切なく感じられてきた。次の瞬間、彼は、思ってもみなかった言葉を、勇二郎にかけていた。

「勇二郎、今何が食べたい。言ってみろ」

「僕、銀シャリのご飯が食べたい。上に生卵かけて」

 勇二郎の目に一瞬輝きが戻った。だが、その言葉を言い終わると、彼はそっと目を閉じた。

 羊太郎は、ふらふらと立ち上がると、外へ出ようとした。その時、かつらが戻ってきた。

「兄さん、どこへ行くの?」

 羊太郎は、その問いに答えず、外に出て行った。


 (-銀シャリ-白米か。確かに俺だってそんなの最後にいつ食べたかなんて、覚えてないもんな。その上、生卵か……)

 家の壁にもたれかかったまま、羊太郎はぼんやりと考えていた。彼は、闇の中にただ一人取り残されたように感じていた。そこに、どれくらいいただろう。ともかく、康史郎が肩を落として戻ってきた時には、羊太郎はどこにも見当たらなかった。

 一時間ほど経って、いきなりむしろを上げる音がした。康史郎が反射的に振り向く。そこには、紙袋をかかえた羊太郎がいた。

「おい、かつら、これで勇二郎に、おかゆを作ってやってくれ」

 どこか気のぬけたような声だ。だが、かつらは無言だった。

「かつら」

 羊太郎は、ゆっくりと三人のそばに歩み寄ると紙袋を下に置いた。すると、かつらが叫び出したいのをやっとの思いでこらえているような声で言った。

「もう、遅いわ。いくらおいしく作っても、勇二郎は……勇ちゃんは……」

 ついに、かつらは手で顔を覆った。そこから、泣きじゃくる声が漏れている。ここで羊太郎も、ようやく自分のしたことが手遅れであったことに気がついた。

「羊兄さんのバカ! 勇兄さんが死んじゃったのは、羊兄さんのせいだ!」

 康史郎が、あふれ出る涙を拭こうともせずに羊太郎にむしゃぶりついていった。しかし、羊太郎はそれに背を向けると、ふらふらと外に出ていった。

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