第4話 現実
その夜、とうとう羊太郎は戻ってこなかった。二人にはいつの間に夜が明けたのか、分からなかった。だがその前には、青白い顔をまだむき出しにしたままで、勇二郎が横たわっていた。やっと我に帰ったかつらは、まだ少ししめっている手ぬぐいで、その顔を覆った。そこで彼女はふと、兄が持ってきた紙袋に気がついた。その中をのぞいてみる。
「まあ、白米に……この新聞紙にくるんであるのは……卵だわ! しかも3個も」
「えっ、卵?!」
康史郎がハッとしたように、かつらの方を向いた。
「こんなの、ヤミ市にでも行かなきゃ手に入らないのに。……ま、まさか!」
「そんな! あのガンコ兄さんが、ヤミ市へ行ってわざわざ買ってきたなんて!」
康史郎が信じられないというような顔をする。
「でも、そうとしか考えられないわ」
かつらは、紙袋を持ったまま立ち上がった。
「これで、朝ご飯にしましょう。私達、自分の体も大事にしなきゃ」
「それにしても兄さん、どこに行っちゃったのかしら」
食事が済んだ後、かつらがつぶやくように言った。
「勇兄さんを殺した羊兄さんなんか、一生帰ってこなくったっていいさ」
康史郎が吐き捨てた言葉をかつらがとがめた。
「でも、少なくとも最後には、兄さんも分かってくれたじゃない。私にはよく分からないけど、水を取りかえに行った間に、何かが起きたんだと思うの。それに、いつまでも勇二郎をここに置いとく訳にはいかないでしょ」
「そうか。勇兄さんのお葬式をしなきゃならないんだ」
「葬式なんて、そんな大層な事は出来ないわ。お骨にしてもらって、できればお父さん達の脇に葬ってもらえれば、十分だわ。それより康史郎、学校はどうするの?」
「今日は忌引。それより兄さんを捜そうよ」
「悪いけど一人で行って。私は勇二郎のことで、いろいろやらなきゃならないことがあるから」
「分かったよ、姉さん」
康史郎はうなずくと、外に出て行った。
その日は、かつらにとって長いようにも、短いようにも感じられた。死亡証明書を取りに行き、お寺に読経を頼みに行き、近所に勇二郎死去の旨を告げ、その合間に、勇二郎の体を整えた。
日がとっぷりと暮れたころ、康史郎が戻ってきた。一日歩きづめだったらしく、靴をぬぐのももどかしいように、むしろの上に寝っころがった。
「どうだったの?」
「だめだったよ。どこを探してもいないんだ」
「そう……」
かつらは、お棺もないので、すり切れた毛布に包まれている勇二郎を見やった。その時だ。
「ごめん下さい」
入口で声がした。それは、羊太郎に知らず知らずのうちにさんまの秘密を教えることになってしまった、お隣の山本さんの声だった。
「このたびは本当に、おくやみ申し上げます」
山本さんはそう言うと、二個のまんじゅうを取り出した。
「つまらないものですが、どうぞお供え下さい」
「いいえ、とんでもありませんわ」
かつらは、ろうそくのともる木箱の上にまんじゅうを供えた。山本さんはなおも話し続ける。
「家族を失うというのは、いつの時でもつらいものですね。お兄さんのやるせない気持ち、よく分かります」
「えっ」
「兄さん?」
かつらと康史郎が顔色を変えた。
「ええ。ヤミ市の屋台で酔いつぶれてましたよ。ついさっき通った時には」
「ええっ!」
二人はほぼ同時に叫び声をあげた。かつらがそそくさと立ち上がる。
「すいません。ちょっと取り込み事ができたので、失礼していただけませんか。康史郎、行きましょう!」
「は、はあ……」
あっけにとられている山本さんを残したまま、2人は外に飛び出した。
ヤミ市は、夜になっても活気を失ってはいなかった。二人はその熱気に当てられたようになりながら、羊太郎のいそうな屋台を一つ一つのぞきこんだ。だが、どこにも羊太郎はいなかった。
「一体どうしたのかしら。しらみつぶしに探したはずなのに」
ヤミ市の外れで、かつらは康史郎に言った。
「あてにならないよ。しらみなんて、いくらつぶしたってすぐ出てくるんだから。それに、もしかしたら、行き違いになったのかもしれないよ」
「康史郎、山本さんにその店がどの辺りにあったのか、聞いてきて」
「分かった」
康史郎は、家に向かって駆け出していった。
「姉さん、分かったよ! ここから五十
戻ってきた康史郎の報告を聞いたかつらは、すぐに合点がいった。戸祭氏は康史郎の友人の父親で、食堂が空襲で焼けてしまったため、ここに店を出しているのだ。かつらも何度かごちそうになったことがあった。
「行きましょう!」
「うん!」
二人の足は、自然に走り出していた。
「そうかい。じゃ、あれはやっぱり羊太郎君だったんだな」
戸祭氏は二人の話を聞くと、うなずきながら言った。
「いやね、隣の屋台に入ってきた時、どうも見たような顔だなと思ったんですよ。でも、ひどくやつれていたもんでね、どうにも声をかけられなくて。
隣の屋台から、むっとするような安酒のにおいがただよってきた。ふだんの彼なら、決して近付きなどしなかっただろう。勇二郎の死のショックは、相当のものだったらしい。
「ついさっきまでいたんだけど、どっちへ行ったものやら」
二人の顔が曇る。戸祭氏は、それを見てはげました。
「ちょっと、隣のおやじに聞いてきてやるよ。おい、おやっさん」
隣の「おやじ」がこっちを向いた。
「さっき一番端で飲んでた若者は、どっちへ歩いていったんだい」
「さあね、なにせこの忙しさだから。たぶん西の方だったかな」
「ありがとうございました」
戸祭氏達に礼を言うと、二人は屋台を離れた。ところが、しばらく歩いていくと前方に人だかりがするのに気がついた。不吉な予感が胸をよぎる。
息をはずませて人だかりの場にたどり着いた二人は、人垣をかき分けてそこに何があるのかを見ようとした。やっと前に出た二人の目に、凄惨な光景が飛び込んできた。
それは進駐軍のジープと、タイヤの下で血だまりの中に倒れている羊太郎だった。そのそばで一人の老人が、駆けつけてきたらしい警官に向かって興奮したようにしゃべりかけていた。
「わしは見たんじゃ。この男が、まるで引きよせられるように、こいつにぶつかって行くのを……」
それから三日後。かつらと康史郎は、真新しい位牌をかかえて、やはり真新しい二つの墓標の前に立っていた。
「これで、とうとう二人ぼっちね。がんばらなきゃ」
かつらが、悲しみと意欲をないまぜにしたような声で言う。
しかし、康史郎は羊太郎の位牌をじっと見つめながら、つぶやくように言った。
「羊兄さんには、これが一番良かったんじゃないかな」
「え?」
かつらは康史郎を見つめた。彼はそのままかつらの顔に目を移す。
「羊兄さんは、もともとこんな世の中で生きていける人じゃなかったんだよ。他の人を苦しめるよりはむしろ、早々と死んじゃった方が、兄さんにとっては幸せだったんじゃないかな。結局、『泥中の蓮』なんて、いつだって夢のまた夢なんだよ」
「康史郎……」
かつらは康史郎の話を遮ろうとしたが、後に続く言葉を見出す事が出来なかった。
羊太郎が亡くなったのは、1945年11月10日。奇しくも、東京高校 ドイツ語教授、亀尾英四郎氏が、ヤミ買いを拒否して餓死したほぼ一月後のことだった。
終
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