新しい暮らしのまえで

 それでも覚悟を決めきれたとは言えないと思う。


 母と長電話をしてとりとめもない言葉をぶちまけたり、一晩中インターネットで経験談を検索したりもしてしまった。夫に呆れられることも、泣きつくこともたくさんあった。

 やっと迎えた対面の日だって、出発まぎわまで持ち物を確認しなおしていた。

 哺乳瓶もタオルもくすぐったいくらいに新しい。大きな荷物を胸に抱いて病院へ向かった。電車に揺られても重さなんて気にならなかった。


 病院であてがわれた部屋には新生児用のベビーベッドを挟んでふたつのベッドがあり、夫婦で泊まることができる。

 相談室と同じく白木の模様をつけたリノリウムの床が敷かれ、ほんわりとした黄緑色のカーテンが開いた窓に揺れている。三日間は誠さんも有給を取ってくれたので、ここでしばらく家族をすることになる。

 ホテルのような個室と看護師さんたちに見守られている安心感。病棟のスタッフには若い人たちが多く、生まれくる命への希望に空気は明るい。男も女もない制服で働く人たちのきらきらとした瞳に圧倒されそうだった。

 お産って命がかかってたんだからね、と険しい顔をした母もここに来れば拍子抜けするかもしれない。


 呼ばれて待合室に行く。つるりとした長いソファもいつもの黄緑色だった。片隅にはすでに女性が座っていた。ゆったりと結われた栗色の髪の下に白く細い首がさらされている。襟首のあいたベージュのブラウスがとろりとしたドレープを描いていた。

 誠さんがトイレに立ち、私たちは二人きりになる。彼女がこちらへ顔を向ける。


「はじめまして。赤ちゃん、楽しみですね」

 温かみのあるアルトの声が耳をくすぐる。この人もあの暗い部屋で機械の中の我が子に声をかけたのだろうか。出生日が同じならば受精日も近いはずだ。うっすらと漂っていた祈りの気配の主には彼女も含まれていたのかもしれない。


「楽しみですね。もしかして、赤ちゃんどうしは同じ部屋でしょうか。だとしたら私たちのほうが初めましてなんて、なんだか不思議です」

「本当ですね」

 彼女がお腹に手のひらをあてた。そこに膨らみはないが、びっくりするほど身ごもった菜月の動きと似ている。慈しみに満ちた表情も。


「今日までずっと、不思議なことだらけです。本当はわたしの中にあったはずの海がお外にあって、そこに赤ちゃんが浮かんでいるのが見えてしまうなんて」

「海、ですか」

「もう覚えていないのですが、わたしが小さい頃によく話していたそうです。お母さんのお腹のなかの海でぷかぷか浮かんでいたんだよって」

「確かに水の中ですよね」

「本当に水で満たされているんだなって実際に見られて、ちょっとばかり感動してしまいました」


 彼女はうっとりと目をつむる。

「わたしは自分の中に海をつくれない身体で生まれたんです。だから、まだ夢を見ているみたいで。この腕にわたしの子を抱けるなんて」


 西尾さんの顔が頭をよぎる。胸がちくりとした。救われる人、いまだ救われない人。でも彼女の幸せが西尾さんを不幸せにするわけではない。私だって救われた側だ。子どものいない上司たちは、ありえたかもしれない私だ。

 握りしめてしまった手をほどく。

 私には海がある。本当は使えるはずの、使わないと決めた臓器が。正しさなんてあまりに不確かだ。


 待合室に戻って来た誠さんは背の高い男性と一緒だった。親し気に話している。

 隣に座る女性が瞳をいたずらっぽく輝かせて私に視線を投げた。彼は彼女の夫のようだ。何を話しているのだかは聞き取れないが、男性陣はやたらに楽しそうである。

 改めて私と彼女は互いの顔を見合わせた。笑いがはじける。歩いて来た二人がきょとんとしている。きれいに水を差すタイミングで奥の扉がすぅっと開いて、看護師さんが現れた。


南田みなみださん、ご案内しますのでこちらへ」

 彼女が立ちあがる。背の高い男性は自然にその肩を支えて奥へ去っていった。夫がかわりに隣へ座る。

「僕もああやってエスコートした方がいいのかな」

「やめてよ、柄にもなく。それより普通に手をつないでほしいな。共闘関係みたいにさ」


 差しのべられた手を握る。そこに夜のような秘密らしさはなく、ただ力強く私を勇気づける。

 昨日あまり眠れなかったせいであくびがでてしまう。イレギュラーな客があったとかでメールが夜までひっきりなしで、横になっても休まらなかった。どうにも締まらないのが私であるようだ。あのカプセルをどう開いて子どもを取り出すのかは今ひとつ想像がつかない。

 誠さんが買ってくれたブラックコーヒーの缶を傾ける。実感はやはり足りないのかもしれない。

 布にくるまれた赤ん坊を抱えて、看護師さんに付き添われた南田夫妻が戻ってくる。奥さんがこちらを認めて首だけでお辞儀をする。去っていく姿はもう家族そのもので、空気に溶けだした愛情が舌にからんで甘さすら感じる。

 コーヒーの最後のひと口をあおって、缶をゴミ箱に放った。


佐伯さえきさん」

 私たちの名を呼ばれる。奥の小部屋ではもう一人の看護師さんがふにゃふにゃした小さな生き物をタオルに包んで、大事そうに支えている。産湯はつかったのだろうけれど肌は真っ赤だ。

 しわくちゃの皮膚に薄い頭髪。細く泣いている。いや、鳴いているのだろうか。私を呼んで?

 怯えが腕を固めて動けなかった。看護師さんはこちらに差しだそうとしているのに。誠さんが私の指を離した。先に私たちの子を抱きとめたのは彼だ。赤ん坊は一瞬、ひときわ高く声を上げたがすぐに落ち着いた。

 おっかなびっくりで様になるとは言えないけれど。誠さんは私よりずっと強かった。それがなぜだか悔しい。


「ほら、由実も」

 腕におさめれば重さは切実だった。肌を震わせる泣き声が、小さいながら動く手足が質量以上にずっしりと感じる。

 私の肩を誠さんの手のひらが包んだ。そのままゆっくりと歩き出す。看護師さんが先導してくれた。バージンロードだってこんなに慎重には歩かなかったではないか。

 部屋に戻る頃には腕は固まりきっていた。

 ベビーベッドに我が子を下ろして、大きく息を吐く。一仕事だった。


 びっくりするほど少ない量のミルクを作る。看護師さんは私と誠さんと赤ちゃんを同時に見守りながら穏やかに佇んでいた。温度を確かめ、ガラスを隔ててもほのかに熱が伝わる哺乳瓶を誠さんが抱きあげた赤ちゃんに含ませる。

 吸い付く力の意外な強さに、生きているのだなと思う。こんなに小さくても精巧に生き物として機能している。だけど大人の手を離れれば死んでしまうわけで、どうしたって私たちの責任は重大なのだった。


 哺乳瓶を洗っていると、誠さんが私を呼んだ。


「見てみなよ。ほら手、握った」

 再び横たえられた赤ちゃんは、誠さんの差しだした小指を掴んでいる。手のひらに触れたものを握るのは新生児みんなにみられるもので、原始反射のひとつだ。当たり前のことだと言おうとして、やめた。

 手をぬぐって誠さんの向かいに座る。人差し指を赤ちゃんの手のひらに触れる。細くて頼りなくて、そのくせ力いっぱいに私を掴む。眠りに落ちたのだろう、もう泣き声は発さない。


 看護師さんは部屋を出て、ゆれるカーテンだけが私たち家族以外の動くものだった。私も誠さんも喋らずに、互いの心音すら聞き取れそうに静かだ。

 どこかで赤ちゃんが泣いた。知らないうちに微笑んでいた。

 そういえば、子どもの頃は赤ん坊の声が苦手だった。不安でいるうちは思い出しもしなかった。どこかで覚えていたのかもしれない。本当に子どもを大切に思えるのか疑問だったのは。身体が母になったわけではありえない。それなのに親になったのだという実感がひたひたと染みとおってくる。

 この子の名前はどうしよう。胸に抱いてから決めると二人で話していたのだけど。


「誠さん」

 夫の名を呼んだ。返事はない。見ればベッドの縁に腰かけたまま舟を漕いでいる。

「緊張したよねぇ」

 触れたら起こしてしまいそうで、その肩に上着をかけてやることもできない。

 気楽そうで、意外と緊張しいで、最後は頼りになる愛しい人。育っていく子どもと長い時間とで、また知らない一面を見せてくれるに違いなかった。


 メールの着信が目に入る。また問題だろうか。母になったところで、私は店長のままだ。仕事に追われたら遠ざかってしまいそうな、淡い、親としての実感を意識する。瞼を長く閉じた。

 まなうらに海が浮かぶ。晴れた色をしている。明日には嵐が来るかもしれなくても、この瞬間のおだやかな船出を忘れたくない。

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鉄とガラスの子宮 夏野けい/笹原千波 @ginkgoBiloba

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