日常はどこまでも無機質に

 なんか不安だ、と帰宅した夫に漏らす。


 まことという名の夫は字義に違わず、適当な嘘を吐くことができない。いつだって真剣すぎるくらいのこたえが返ってくる。

「経験のないことなんだから当たり前なんじゃないかな。不安に思うのも悪いことばかりではないのだし。準備に漏れがないかとか、受け入れる心構えを改めてするとか、そういう作用でしょ」

「哺乳類は本来、自分のお腹の中で子どもを育てるわけじゃない。その間も耳は聞こえているし、外に出る練習もしてる。なら、機械で代用する弊害って絶対ある。でも取りざたされないのはなんで?」

「対処はしていることになっているよね。疑似心音しかり、そこに置いてある端末しかり」


 胎児につながる端末は電源を切ったままテーブルにある。あざといまでに可愛らしくいて、個性のないクリーム色のたまご。

「菜月さん。僕たちが思うより人工子宮の歴史は長いんだよ。親世代では子宮摘出などの例でしか適用されていなかったから、実感としては最近のものと思うだろうけど。欧米では成人して子どもがいる人たちも多いくらいだ。発達や健康状態に母胎出生児と差はないという結論が出ている。論理的には問題がないんだよ。足しになるかはわからないけど、不安なときは思い出して」

「うん、ありがとう。引き止めてごめんね。手、洗ってきて。ご飯にするから」


 どんなになだめられてもずっと落ち着いていられる自信はなかった。あまりに自然な母子のありかたを目の当たりにしてしまったばかりでは。

 でも二人で過ごせる時間は限られている。両親の会話を赤ちゃんに届けられる貴重な時間。端末の電源を入れる。はちみつ色の光がほんわりと宿った。ついでに音楽を流す。今日は誠さんの好きなピアノにしよう。

 夕食の用意のために台所に立つ。私たちの赤ちゃんに繋がっているあいだは絶対に、不安も不満も口にするまい。できることならなんだってする心づもりだった。


 昼間は出かけていたといえ、出勤日よりずっと時間があった。ハンバーグはひき肉から作ってデミグラスソースで煮込んだし、付け合わせのマッシュポテトも手製。サラダは帰りがけに普段は行けない店で買ってきた。

 洗面所から戻った誠さんは音楽にあわせて揺れながら配膳してくれる。少しずつ買いそろえた子ども用品はモノトーンが多かった部屋の中に春の色をさしている。友達や家族からもらったものも含めて、ここにはもう一人の存在がすでに根付いている。

「我が家の赤ちゃんは元気そうでしたよ」

「よかった、何よりだね」

「菜月も、大変そうだけど無事だったし」

「妊娠してるんだっけ」

「そう。予定日も近いし、お友達になれたらいいねって話したんだ」

「昔ながらの母子像、ってわけか」

 私の不安のみなもとを知ったというように誠さんは呟く。


「誠さんが話してくれたからもう平気だよ。後悔はしないから。私たちの子に会えるのが楽しみでしょうがないよ。あの子を抱けるならどんな手段でも同じことだよ」

「うん。そうだね、僕も楽しみだよ」


 穏やかな笑みがなぜか癇に障った。

 父親はいつの時代も変わらずに、誰かが産んでくれるのを待つだけだ。妻でも機械でも本質は同じ。父親の自覚なんて後からしだいについてくるものと豪語したところで、非難の声は大きくあるまい。

 でも母親は違う。お腹を痛めて産まなくなっても、私たちは出生の瞬間から母であることを望まれている。偏見から守ってくれる正論はまだ心もとない。


 ピアノが音階を駆けあがる。追いかける不協和音が心地よいのは、私の心に翳りがあるからだろうか。お皿をさっさと片付けて、早く寝ることにした。

 余計なことしか考えない意識など消えてしまえ。ただでさえ明日は通しで店番なのだから。

 誠さんが隣の布団に入ってきたとき、一度目を覚ました。

「育ってた?」

「うちの子?」

「うん」

「育ってたよ。今日は指しゃぶってた。声かけたら動いてた」

「あと少しだ」

「うん」

「頑張るからさ、なんでも言って。察しが悪いのは許してほしい」

「わかった、ちゃんと言う。今はね、心細いかな。理屈だけじゃ不安ぜんぶは消せないからさ」


 布団の境界線を越えて足を入れると、まだ湯上りの温もりの残る脚に触れた。細くて筋肉が皮膚に近い、女とは違う質感の脚は私に絡んで、腕が背に伸ばされる。

 私の髪をゆっくりと彼の指が梳くとき、自分の髪が長かったことを思い出す。体温を同じ空気の中に集めて、指の腹でお互いの肌を探りあう。


 私たちはセックスをしない。避妊したところで万が一を考えてしまう虚しさに疲れたのはずいぶん前のことだ。感覚のするどい指先や唇で相手に触れるほうが純粋だと感じる。

 恐れのない、平和で安全な交わり。清潔で湿り気がなくて、とても静かだ。誠さんが私の指にキスを落とす。右の親指から始まって、一本ずつ。左も親指からだけど、薬指は最後だ。

 プラチナの細いリングの上に誠さんは長くとどまる。私は手の甲にキスを返す。骨の浮いた平地は広く、左のときは唇をすべらせてお揃いのリングにそっと触れる。

 求めるように確かめるように指を握りあう。軽く肌の質感をなぞり、深く骨のかたちを触覚に刻む。手首の動脈に這っていって命の証拠を指で聴く。

 ひそやかに肌を寄せ合ううちに意識を手放していた。二度目の眠りは深く、朝露に似た香りがした。夢に浚われて感傷は遠くなる。

 朝が来れば誠さんを明るい声で送り出すことができたし、ためらいなく家を出ることができた。


 黒のパンプスを鳴らして駅へ向かい、満員電車に揺られる。

 職場の最寄りに吐き出されたなら、地下街直結の従業員入り口から百貨店に入る。更衣室は上のフロアにあり、なかなか来ないエレベーターのために不当に早い出勤を余儀なくされている。すし詰めの箱で暗い廊下にたどりつき、窓をひとつも見ないままロッカーを開ける。

 汗とデオドラントと化粧と。換気の弱い室内に臭いがこもっている。

 髪をまとめて、三分の袖口に店名の刺繍が入った白いシャツを身につける。和菓子屋なのにローマ字筆記体で、糸が生成色なので目立たない。学校で指定ソックスに刺繍を入れて市販品を使えなくするようないやらしさを感じないではない。

 黒いエプロンには百貨店が制作したゴールドの名札がついている。ここに書かれた店長という文字にため息をついたのは何回だろう。


 人波に乗って地下へ再び降りていく。タイムカードを切る。派遣の西尾にしおさんは今日も始業時間ジャストに打刻するのだろう、私がレジのチェックを始めても現れなかった。

 それよりも憂鬱は部長の来訪だ。ヘルプと聞けばありがたいようだが、この系列の百貨店には月に数回入るかどうかなので些細なことで質問が入る。おまけにディスプレイのセンスはめちゃくちゃで、帰ったあとに直すのが面倒だった。


 やがてローヒールを鳴らしながら西尾さんがやってきて、一緒に搬入された商品を並べる。比較的日持ちのする羊羹やプラスチックのパックに封入されたわらびもち、お饅頭など贈答に用いる和菓子が主戦力で彩り程度の季節商品が追加される。四月も後半にさしかかり、桜もそろそろ引き際を考えるころだ。

 部長が到着するのには間に合って、ひと息つく。あの人に手を出されなくてよかったですね、と耳打ちする西尾さんは共犯者じみている。短い髪から淡くシトラスが香った。


 部長は騒々しく現れた。女一人ですでにかしましいのが彼女だ。人生も折り返しつつあることに気づかず自分が盛りであったころの趣味を露骨に引きずっている。たとえばつま先が丸まったかかとの四角いパンプスや、適正よりもやや長いスカートがそうだ。たいていの社員は動きやすさからパンツスタイルを選ぶのに。

 季節なんだからと桜餅を前に押し出し、つややかすぎる唇を激しく動かし、輪郭のあいまいな眉を吊り上げる。金属質な声が頭に響く。煙たく思えば些細な言動にもいらだちを感じはじめ、印象は落ちていく一方。

 ひとつところに長く勤める大変さや中間管理職の板挟み状態を持ち出して敬意を育てる努力はしたが、私はそんなに出来た人間ではないようだった。

 私が彼女よりずいぶん若いことや、ときどきセンスを褒められることや、西尾さんや新入社員の子にそこそこ慕われているようだということ。気を付けていないと、はっきりと見下してしまいそうで怖かった。そんな感情はとっくに悟られているのではないか、だから当たりが強いのではないかと勝手に怯えていた。


 お客様が入るまでにはもう少し時間がある。備品の確認をしていると、思い出したように部長が口を開いた。

「あなた、子供が出来たんでしょう。引き継ぎはうまく行ってるの?」

「おかげさまで。白石さん、飲み込みが早くて助かります」

「そう、よかった」


 私の悪癖はまたしても、声に不本意さを嗅ぎ取ってしまう。彼女は既婚者だが子どもはいない。人工子宮が普及する前、この国の出生率は最低を記録し続けていた。共働きでも経済的に余裕のない家庭は多かったし、人手の足りない職場では産休すら取りづらく、非正規社員は無収入が長期化することを恐れた。

 人工子宮の活用が一般化したのは十年も昔ではない。そこから出生率はゆるやかに上昇を始めたが、母数が少なく都市部では保育園の余剰が目立つようになった。産休がほとんどいらず、生まれてすぐから預けられる。間断なく働くことを強制されていると主張する人たちもいるけれど、子どもを持つハードルはかつてより低い。

 彼女は時代のはざまに落ちて、おそらくは望んでいただろうに子を諦めたのだと思う。立ち仕事と妊娠の相性は悪い。用意された産休の時期より早く休職を選ばざるを得なかった人は無数にいると聞く。

 部長は真面目で責任感の強い社員だったはずだ。自分の望みをまわりの状況から考えて手放してしまうくらいには。その生真面目さや強さはいつからか美徳とは呼べなくなった。相変わらず労働条件は厳しく収入は上がっていかないが、若い人手が全く足りていない今では脱落者を出さないことこそが重要だった。


「今の子って不思議」

 後ろ暗い優越感が顔に出ていたのだろうか。露骨に棘のある声が耳を打つ。

「機械に産ませて、ちゃんと愛情が育つものなの? 虐待の事件も増えているみたいだけど」

「愛着形成に関してはしっかり研究されているみたいですし、対策も取られています。欧米では普通に大人になって、お母さんのお腹から産まれた子たちと変わりないことがわかってます」

「へぇ、そう。よくできてるね」

「科学の進歩ってすごいですよね」


 すぐにでも話を打ち切りたかった。最初の時点ですみません、とか適当に笑ってごまかせばよかった。

「科学はともかく、あなたみたいに無責任な人が母親になれるってすごい時代。人が足りてないのに長く休むんでしょう? 研修帰りの新入社員を置いて」

「部長。これじゃお客さん迎えられないじゃないですか」


 西尾さんの声が割って入った。ティッシュを渡されて頬がひと筋濡れていると気づく。肘を掴まれた。

「この人落ち着かせてくるんで、しばらくお願いします」


 さっき通ったばかりのバックヤードをさかのぼる。開店時間が迫っているので静かだ。西尾さんは私の手を引いてずんずん歩く。

 更衣室にでも行くのかと思ったら、エレベーターに乗らず袋小路に連れ込まれる。非常口の鉄扉が地獄の門に見えた。西尾さんは壁を背にして姿勢を崩す。きりっと上がったまなじりと相まって悪い女みたい。古い映画なら煙草をくわえる場面だ。


「いつの時代もああいう人がいるんでしょうね。他人の幸せに口を出したって自分が幸せになれるわけじゃないのに」

「助けてくれてありがとうございます。でも実際は自信、なくて。ちゃんと育ててあげられるかな、産んでないのにお母さんってわかってくれるのかなって色々考えてしまって」

「それって妊娠を経ないで子どもを育てる人間への冒涜じゃないですか? 今では当たり前にされていることなのに」


 私が素直に頷かないのを見て、西尾さんは浅く息を吐いて首を振った。

「昔の映画とか本とか、見るって言ってたじゃないですか。自分の子宮を使うしか方法が無かった時代の人たちも、普通に母親になる不安くらい抱えてたんじゃないですか。だいたいお腹を痛めて産んだところで、捨てたり虐待したり殺したり、普通にありましたから。さっき言ってた増えてるってのも統計に基づいた発言じゃないです」


 先生みたいだ。たしなめられている気分になって、弱くうなずく。

「頑張ってみます。強くならなきゃいけないってことくらい、わかってますから」

「じゃ、私は先に戻るんで。早く涙腺にフタして戻ってきてください。そのティッシュは差し上げます」


「西尾さん」

 言うだけ言ってきびすを返そうとするので慌てて名を呼ぶ。

「ありがとうございます、怒ってくれて。私のことも。身内みたいに真剣に」

「店長は素直すぎますね」


 苦笑した西尾さんがシャツのボタンをひとつ外して、細い銀色のチェーンを指に絡めてすぅっと引き上げた。装飾の少ない指輪が先端に揺れている。

「子宮の要らない時代になっても、子どもを望めないカップルもいるんですよ。知ってました?」

「卵子やなんかの問題で?」

「先天的に生殖細胞が、精子や卵子が存在しない場合は難しいかもしれませんね。そうではなくて、どちらも健康な場合……わかりませんか。答えを言ってしまうと、準配偶者と呼ばれる人たちです」

「準、って。同性婚のことですよね」


 西尾さんは手のひらに指輪を置いて、軽く握った。

「そうです。最近では話題にされないので名称自体を知らない方もいるみたいですが、ご存じでよかった。今じゃ税制上の差もなくなって、名前だけが残ってるんですよ。準って、嫌な響きですよね。あくまで正当な結婚とは認めないって言われているみたいで」

「西尾さん、奥さんがいらっしゃるんですか」

「えぇ。とても可愛い人です。彼女の血を引く子は幸せでしょうね。でも私と彼女の子は作れないんです。卵子しか持っていないから」

「あんな小さいもの、どうにかしてつくれないんですかね」


 いつか相談室で見せられた、卵子の中に泳ぎ入る精子を思い出す。顕微鏡を使わないと形がわからないおたまじゃくし。

「動物実験レベルではずっと前から成功しているそうですよ。同性間の子ども。倫理の壁でこれ以上はなかなか進まないでしょうね。実現しなくて誰が死ぬわけでもありませんし」

「でも好きな人との子どもができないなんて、寂しいです」

「店長ならそう言ってくれるだろうと思って喋りすぎました。重い話しちゃってすみません」


 ちょっと熱くなりすぎたみたいです。西尾さんは今度こそきっぱりと背を向けた。店へ戻るべく私も彼女を追いかける。


「ありがとう。西尾さん、聞かせてくれてありがとう」

 軽やかに振り返った西尾さんが人差し指を唇にあてる。銀の指輪はチェーンごと服の下にしまわれている。

 売り場に抜けるドアが開かれた。光の洪水が目に痛くて、止まったはずの涙がまた顔を出そうとする。手のひらで自分の両頬をぴしりと叩く。館内放送が開店を告げた。

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