鉄とガラスの子宮

夏野けい/笹原千波

私のお腹に赤ちゃんはいない

 この下に、私たちの赤ちゃんがいる。


 白木調のリノリウムをスリッパ履きの足裏で探る。部屋の中のものは基本的にやさしい黄緑色で揃えられていて、このふわふわのスリッパも例外ではない。座面が回転する丸椅子も妙に柔らかくて落ち着かなかった。

 かたわらの白い机には大きなディスプレイがあって、雲の流れる青空の映像が再生されている。ノックの音に姿勢を正す。平らなお腹はなんの実感も与えてはくれない。今日は隣に夫がいない。左肩の寂しさを忘れたくて小さく咳払いをした。


 白衣を記号的に羽織った優男が入ってくる。まず私の前に腰かけ、画面の中の青空に指を触れる。机の上にキーボードが表示される。雲の流れが止まった。いくつかの日付に色のつけられたカレンダーが現れる。涼やかな目がこちらを向く。


「こんにちは、佐伯さえきさん。今日はおひとりですか」

「主人の都合がつかなくなったもので」

「そうですか。でしたら会話記録はご入用でしょうか」

「必要ありません」

 記録の持ち帰りにも手数料がかかる。お金の問題ではないと前置きながらも、夫は医者との正確な会話内容を欲さなかった。

 今朝も由実ゆみが感じたことを教えてくれればいいから気楽に行っておいで、と仕事に出て行った。私としても自分の発言が逐一文字に起こされるのは恥ずかしく、内心ほっとしてもいる。


「まず申し上げますと、経過は順調です。予定日には差しさわりなくご出生となるでしょう。いよいよ次の来院になりますね。五月十八日でご予約になっていますが、ご変更の可能性はありませんか。あまり近づきますと動かせませんので」

「いえ、もう休みも取りましたし」

「お子様の状態にもよりますが、三日程度は入院して様子を見ることになります。ご不安があればいつでも対応いたしますので、リラックスしてお迎えいただければと思います」


 何度も聞いた説明だ。ただうなずく。

「映像をご覧になりますか。本日は胎児室にもご案内できますが」

「映像より実際に会う方がいいです。主人も、会っておいでと言ってくれたので」

「心音だけ取らせてもらいますね」


 シャツをはだけた私の胸に小型の録音機をつけたのち、医師がメッセージウィンドウに何か打ち込んだ。ほどなくして、白髪の交じる髪をきっちりと結った看護師が迎えに来る。

 録音機が回収され、ボタンを掛けなおす。ここの女性看護師は半数を超えてスカートの白衣を身につけている。

 肉体的な負担が少ない部署なのだろう、私の母より年上に見える人も多い。お昼の光がたゆたう廊下を過ぎて、エレベーターに乗り込む。ひとつ下の階は医者のカードキーがないとボタンを押すことができない。

 扉が開いた。今まで覆い隠されていた病院の臭いが広がる。青みの強い照明と緑の避難誘導灯が道しるべと並んでいる。カーディガンを引き寄せた。窓のないフロアは寒い。


 小部屋に通されて手を念入りに洗い、うがいをする。薄青色のガウンと帽子を身につけて奥の扉へ。医者と看護師に護衛されてものものしい。

 開かれた中には、機械の子宮が並んでいる。四角い金属の柱のなかにカプセルが入ったような形状。ガラスの丸窓から中を覗けるようになっている。据え付ける台は八つあるが、使われているのは六つだ。


 受精から出生までは平均して三百と十日。母胎妊娠の場合は当てはまらない、言い伝えとしての十月十日と奇妙な一致をみる。私たちの子と同じ月に受精された小さな命は、欠けることなく胎児としての最後の一か月を迎えた、あるいは迎えようとしている。

 親が見学できるのは状態が安定してからではあるけれど、後期から出生にかけての時期に亡くなる子が皆無でないことは知らされている。初めて訪れたときに、空の台座はそもそも使われていないと説明された。

 嘘か本当かはわからない。育ちきれなかった子どもがいた可能性は頭の片隅から消えなかった。

 この部屋で別の家族に会ったことはない。並べられた胎児にはみんな私たちと同じように祈る人がいることだけは確かだ。セックスの果ての妊娠とは違って、うっかりできてしまうことがありえないのが人工子宮妊娠だから。


 案内されてひとつの機械の前に立つ。ガラスの向こうには半透明の膜があり、すでにヒトのかたちを獲得した胎児がうっすらと透けている。この子が浮かぶ水は温かいのだろうか。

 機器に触れることは許されていない。目をこらして中を覗く。縫い合わせたようにぴったりと閉じた瞼、ごく薄い唇に人形のような短い親指を入れている。男の子だと言われたけれど、角度の問題で私はまだその象徴を目にしたことがない。看護師がやけに無邪気な声を上げた。


「指しゃぶってますね。かわいい」

 実験室めくこの部屋で、明るく響く声にうまく反応できなかった。かわりに医者へ問うてみる。


「先生。私、ここに立つと現実って感じがどうしてもしないんですよ。私だけなんでしょうか。夫はわからないって言います」

「本来なら母体の中で行われるプロセスですからね。無理はありません。大丈夫ですよ、どんなに不安を口にされていても、みなさんご自分の子を抱かれた瞬間に親の顔になりますから」

「違うんです。家からこの子に声をかけるときのほうが実感が湧くというか。目の前に立ったときがいちばん遠く感じます。不思議です」

「案外、そうかもしれませんね。もともとお母さんは自分の身体で感じるだけの、見えないお子さんに声をかけ続けてきたんですから」

「母が私の胎児の頃だって見せてくれたのはエコーの画像なんですよ。外から機械で観測して、写真みたいに起こしたものでしょう。それが、今では実物を見られるんですもんね。母からしたら、私たちは未来に生きているようにみえるはずです」


 祖母によれば、母を身ごもったときのエコー画像は白黒のざらざらとした平面で、はじめはしるしをつけてもらわなくてはどこが子どもなのかわからなかったという。機械は親子を決定的に分離したけれど、胎児との距離はかつてないほど近いはずだった。

 看護師があっ、と声を漏らす。

「ごめんなさい、また動いたものだから。びっくりさせちゃったかしら」

「いえ」

「お母さんの声に反応したのね。きちんとボイスメッセージをくださっているでしょう。ご両親の声でいつもよく動くんですよ、この子」


 通院は一か月にいちどが限界だった。仕事の都合より優先できるのは。理解のある職場の人でもたぶん、週に一、二回くらいだと思う。

 気楽に会いに来られないかわりに、私たちの声はいつでもここに届けることができる。専用端末で語りかけるだけ。

 扁平な卵型をしたクリーム色の端末は手のひらに馴染んで、頬ずりしたくなるかわいらしさがある。表面につやはなく、すりガラスのようにほんのり光を通す。中に詰まっているはずの基盤やらバッテリーやらは巧妙に隠されている。底は平らだからテーブルに置いておくこともできた。

 ずっとスイッチを入れっぱなしにして、生活の音すべてを聞かせている家族もいるらしい。私もなるべく、家にいるあいだは音楽や会話を流している。

 胎児期に構われなかった赤ちゃんは愛着形成に問題があるなんて意見はそこらにありふれて転がっている。

「早く会いたいね。名前は出てきてからのお楽しみだよ」


 ぎこちなく声をかけた。面会時間が終わりを告げる。ガウンを捨ててエレベーターに乗った。洗いざらしの手の皮がはりつめている。明るい廊下を過ぎて相談室へ戻った。照明の色さえ計算されつくした心に負担をかけないデザインは、私の視覚に浮遊感を与える。

「ご質問などなければ、本日はこれで。ご相談はメールなどでも構いませんが」

「子どもの顔を見られて安心しました。またよろしくお願いします」


 エントランスを出て、時計を確かめるとまだ正午をまわったばかりだった。菜月なつきとの約束は三時だから、移動時間を含めてもまだ余裕がある。


 駅前のカフェでサンドイッチを齧る。コーヒーをゆっくり飲みながら本を読んでいると、来月には子どもがやってくるなんて信じられない気分だった。時間を見て店を出る。

 何も考えずに電車に乗れるし、立ち仕事だってへっちゃら。予測のできない生活はこれからいきなり始まるわけだ。平日の昼間の電車は空いていて、考え事ばかりがはかどった。


 菜月の暮らす高級住宅街からほど近い、ファミリー向けのおしゃれなレストランが今日の待ち合わせ場所だった。

 ドアに手をかけたところで肩を叩かれた。菜月が大きなお腹を抱えて微笑んでいる。瑠璃色のマタニティドレスが風にそよぐ。何か月も使うものではないのに、生地にも縫製にも妥協がない。

 ソファ席に案内されるまでのあいだ、他の客の視線がちらちらと通り過ぎた。幼稚園児くらいの男の子が「何あれ!」と叫んでママに口を塞がれている。由緒ある家の多いこの地域でも、妊婦の姿は珍しいようだ。

 女性を危険にさらす子どもの作りかただという批判はよく聞こえてくる。反対側からは、機械に子どもを産ませるなんてかわいそうという声も。前者には男性と同じように途切れなく労働しなければ生きていけない層のやっかみが含まれるし、後者は主に価値観を刷新できない老人たちのおためごかしだ。


 菜月がソファに落ちつくのを手伝って、私も向かいに座る。お腹を気遣って動きのゆるやかになった菜月は以前より大人びて見えた。

「やっと会えたね、由実。仕事やめて暇だと思ったらとんでもなかった」

「私の休みが少ないせいでしょ。相変わらずの地獄絵図なんだもん、わが職場」

「相変わらずかぁ。育休は無事に取れた?」

「なんとかね。後継者の新入社員を自分で育てるなんて自転車操業にもほどがある」

「え、まだ四月じゃん。入ったばっかりでその子も可哀想」

「入社前からずっとアルバイトしてくれてた子だからさ。今月は研修で半分いないけど、業務の面では心配してない。問題は私がいなくなってシフトの融通が利きにくくなったときに病まないかどうか」

「由実は戦力として強すぎるんだよ。だいたい先月の休み何日って言ってたっけ」

「三日。さすがに死ぬかと思った。でもそうでもしなきゃ病院の日を守れなくて。恩を売って特定の日の休みを買うんだよ」

「人手不足ここに極まれり、って感じだね。考えると私は恵まれてるのかな」


 菜月は視線を腹部に落とした。

「そのぶんリスクを負ってるのは確かでしょ」

「うん。でもみんなが忙しく働いてるあいだ、赤ちゃんの靴下を編まされてる自分ってなんなんだろうって思うよ」

「編まされてるって」

「だって。お姑さまによる良き母親教室は毎日開催なんですもん」

「同居ってきついね」

「彼らの中で私って個人じゃなくて、家を守る部品としての嫁なんだ。死ぬ可能性だってあるのに、昔から普通にやってきたことだからって妊娠するのが当たり前って言われる。あのね、子どもの性別はまだ聞いてないんだ。仮に女の子だったらさ、生まれる前からきっと次の話をされちゃうだろうから。あんまりじゃない、そんなの」


 お冷をひと口含んだ。イエローに透き通るカップはプラスチックで出来ている。周囲の席から届く幼い子たちの声にはまるで屈託がなく、話題はどうにも場違いだった。声をやわらかくして首をかしげてみる。

「菜月の予定日が五月だって聞いたときはびっくりしちゃった。偶然にしても出来すぎだよね」

「そうそう。この子は由実んとこの赤ちゃんと友達になりたかったのかな。結婚してしばらくぜんぜんできなくて、肩身狭くなってきたころに由実が子ども作ったって聞いて、そのあとすぐ妊娠してるってわかったんだ。でも聞いたときにはもうこの子は存在してたわけか」

「菜月に言ったのって受精卵が育ちはじめたって言ってもちゃんと大きくなるのかまだわからない時期で、不安なまま喋っちゃったんだよね。その話聞いて安心した。言ってよかったなって」

「運命感じちゃうよね」


 菜月はお腹に手をあてて「ねー」と語尾を繰り返す。自然と胎児の存在を気にかけて、ひとりの人間として扱っているように見えた。


 対して私には確かな現実味がない。鞄の中の端末を思い出す。私や夫、あるいはほかの家族が幾度も声をかけた。

 空中を漂う波として私たちの子に送った音声を、私たちは聞くことができない。届いているという証拠もない。触れたこともない相手に抱かれることを、当の赤ちゃんはどう思っているのだろう。


 話題はここでベビー用品へと移り、私はそれ以上考えることを放棄した。

 不信とも不安ともつかないものはわだかまりとして胸に沈む。理屈なんて抜きにして母らしさを身につけた菜月にうらやましさを感じていた。命や自由を賭して得たものだったとしても。

 目を伏せたときの彼女の表情に既視感を覚える。

 あぁ、たぶん、聖母マリアの肖像。

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