第2話 とある八人
二〇四三年、九月二十日。
その日、
しかしそれ以降の朝の習慣はいつも通り、シャワーを済ませ、似たデザインの服ばかり入ったクローゼットからシンプルで上品なシャツとスカートを選び、代り映えのしない朝食を無感動に摂取した。
出掛ける支度を済ませ、赤い封筒と携帯端末を入れるためのポシェットをさげる。
「忘れ物はありませんか?」
「ないわ。このふたつで十分」
執事ドロイドは柏原のその言葉を聞くと、送迎用の車の運転席に座った。
誰に見送られるでもなく、彼女は大きな屋敷から玄関まで迷いのない足取りで進み、車に乗り込んだのだった。
――東京国際第四文化ネオホール。
十数年前にアンドイロドたちによって建築された建造物である。数百から千近くを収容できる巨大なライブ会場を模したステージが複数併設されており、その他にも講演会室やアンドロイドのメンテナンス室、公務員たちのオフィスなど様々な部署が設けられているのが特徴だ。
マジカルナバー7プロジェクト制定以来、ネオホールのステージは審議にのみ使用され暫くコンサート等は開催されていない。今やネオホールは人々にとっては誇れる場所でも好ましい場所でもないのが現実だった。
ネオホール前には公園が建設されており、植木や花壇、噴水もあり、憩いの場を設けられている。
早朝、六時半。出勤途中のサラリーマンやOLたちは美しい公園に見向きもせず、ただ道の一部として足を踏み入れては通り過ぎてゆく。
公園前に止められた高級車。後部座席が開いても、柏原はすぐに下りずに運転席に座る執事ドロイドに言った。
「早く着きすぎじゃないかしら」
「旦那様が決して遅刻はしないようにと」
「そうね。これなら遅刻はしないわ」
肌身離さず持ち歩く携帯端末の時刻を確認する。
入場受付は七時から九時までの二時間である。受付開始時刻に到着しているのなら遅刻の心配はないだろうが、時間を持て余すのは目に見えていた。
公園で時間を潰せば良いかと、柏原は素直に車から降りた。
「お迎えは如何致しますか?」
「会場内は通信行為が禁止よ。迎えの連絡はできない」
「会場から出た際に連絡を。すぐに迎えに参ります」
「会場から出られないこともあるかも」
「…………」
「何か言ったらどう?」
「申し訳ありません。ご冗談か、そうでないのか、測り兼ねました」
「事実を述べただけよ。私、冗談は言ったことがないの」
「データに加えておきます」
「好きにして」
「それでお迎えは如何致しましょう?」
「……、その時に考えるわ」
「畏まりました」
執事ドロイドは恭しく頭を下げると、車を発進させた。
車を見送ることもなく柏原は公園へと足を踏み入れ、誰も座っていないベンチを見つけるとそこにちょこんと腰をかける。
まだ受付も開始していないが、スーツ姿の男が気だるそうに会場に入っていった。会場を取り仕切る者が出社する時間帯なのに、なぜ招集者の自分はすでにここにいるのか……。
赤紙には受付開始は七時と記されていたが、その後の工程である説明会が始まるのは九時とされていた。会場内には続々と招集者が集まるだろう。人込みが得意かと言われれば決してそうではない柏原は、ギリギリまで公園で過ごすことを決めたのだった。
◆◆◆
その日、
ビル街の宙を走るモノレールに乗り、二十分弱。東京国際第四文化ネオホールステーションに到着するのは午前六時三十七分。定刻通りの到着だった。
仕事場であるネオホールに向かうために公園を突っ切る。彼はここにある自動販売機でコーヒーを購入する習慣があった。それを飲むのは帰り道だ。ならば帰りに買えばよいものを、となるが斎藤の中でこれはひとつのジンクスになっていた。
初めて公務員としてネオホールに出社した時、緊張のあまり早く来すぎて時間を持て余し、けれど落ち着いて時が経つのを待つこともできなかった彼は、とりあえずやることを探して自販機でコーヒーを購入したのである。けれどそれを喉に通す気にもなれず、結局それを飲んだのは退社後の帰り道だった。
そんなことがあってから、出社前にこの自販機でコーヒーを購入し、帰り道にぬるくて大して美味しくもないコーヒーを飲む奇妙な習慣が斎藤についたのである。
その日も斎藤は自販機の前に立ち寄った。押し慣れた下段一番右のボタンに指を伸ばす。
しかし、その日彼は結局コーヒーを買わなかった。
迷うそぶりを見せた後、だらりと手を落として、そのまま東京国際第四文化ネオホールの正門まで足をひきずるような気だるさで歩いていった。
正門前には数体のアンドロイドが待機していた。少し外れたところには、どうやら受付を待っているであろう青年の姿がある。入りの順番は審議に影響などないのに、ご苦労なことだ。
屈強な男性型の警備ドロイドの顔面に斎藤は通行証をかざす。人間の眼球によく似たそれが通行証をスキャンした。
アンドイロド・ステージメンテナンス及び説明会補佐官
国民番号とバーコードも記されたそれを承認し、警備ドロイドは沈黙のまま通ることを促す。正門のガラス扉をくぐるとまた警備ドロイドがいる。その前に立つと、警備ドロイドが頭のてっぺんからつま先まで、上から下へとじっと凝視した。危険物の持ち込みがないことを確認した警備ドロイドに、斎藤は首を軽く傾げて右の頸動脈あたりを差し出す。
警備ドロイドが人差し指と中指を揃え、彼の首筋に刻まれた国民番号のバーコードをスキャンする。人体の急所に無機物が触れるその違和感に一生慣れることはないだろう。
斎藤は不快そうに眉を顰め、そのままデスクのあるオフィスへと向かうのだった。
◆◆◆
その日、
清潔感のある真っ白なシャツと上品な藍色のセーター、黒いパンツに、磨くことを欠かさないお気に入りの革靴、そして付き合いの長い黒縁の眼鏡をかけ、鏡の前に立つ。完璧だった。
「忘れ物はないか」
「大丈夫。これだけだよ」
そう言って両親に、赤い封筒を見せる。
父と母は微笑みを浮かべているが、その陰に潜む不安に気づかない彼ではない。風坂はピンと背筋を伸ばして、自分の姿を二人へと見せた。何も問題はないことを示すために、完璧である自分を見せた。スウと息を吸い、スウーッとまた吐いて、彼は言った。
「行ってまいります」
両親はなんとか笑って「いってらっしゃい」と返してくれる。
眉間のあたりがもぞつき、風坂はそれを誤魔化すように眼鏡を指先でくいっとあげた。
――会場に到着したのは予定通りの六時五十分だった。
ネオホール前にある公園を歩いている時、ベンチでぼーっとしている様子の女を見かけた。平日の朝から公園で考え事など、人生に対して随分と呑気なものである。いつか召集された時に精々焦ればいい。風坂は横目に女を見てそう思った。
受付は二時間も設けられているので、早々に会場に来る者はそういないようである。
受付開始時刻きっかりに風坂は警備ドロイドに赤い封筒を見せた。
スキャンを終えた警備ドロイドを横目に、次の身体検査へと進む。ピシリと背筋を正して警備ドイロドの前に立ち、首のバーコードを見せた。
「第一講演会室へお入りください」
向かった講演会室には自分ひとり。一番乗りだ。風坂は満足そうに口角をあげ、一番前の真ん中の席に着席するのだった。
◆◆◆
寝ることが好きな
布団から起き上がり、箪笥にしまった服をぽいぽいと出して広げる。少しは可愛いような服はもう数年は手をつけていないもので、随分流行遅れであるし、サイズも合いそうにない。こんなことに悩めば悩むだけ、胃がキリキリと痛んで吐き気がしてしまう。彼女は半ば自暴自棄にいつも通りの毛玉だらけのトレーナーとスウェットを着ることにした。
自室から重い足取りで出てゆくと、リビングにいた母親が蒼白の顔で駆け寄ってくる。
「……花! あなた、行くのね」
「い、行くよ。行きたくないけど、でも、だって、行くしかないじゃん……」
「そう、そうよね……部屋にひきこもっているよりは望みはあるわ」
項垂れてそう言う母は記憶にあるより随分やつれたように感じられる。涙ぐんだ母と目を合わすこともできず、娘はとぼとぼと玄関に向かった。
その後をついてくる母も彼女にこれ以上かける言葉が見つからないようだ。
ろくに履いていない新品同様の運動靴を履いて、言根は玄関の取っ手へと手を伸ばす。
「会場まで送ろうか?」
「…………」
何も言わず、彼女は玄関の扉を開けた。背中にかけられる優しい言葉のほうが、外の世界よりも苦痛に感じられた。それが良いのか悪いのかは分からない。とにもかくにも、彼女はこうして久しぶりの外へと出たのだった。
慣れない人込みに眩暈を覚えながら、言根はなんとか東京国際第四文化ネオホールに到着することができた。
現在時刻、七時十五分。受付はもう始まっており、ちらほらと会場入りする他の招集者の姿も見受けられる。
皆それぞれ自信のあるであろう衣服や髪形、メイクをしており、言根は踵を返したくなった。けれど引き返すわけにはいかない。引き返せばそれで……。
彼女は警備ドロイドの前にできた列のうちのひとつに並んだ。存在を消すように猫背に縮こまり、ひたすら順番が来るのを待つ。
「ねえ、あれって雪永妃咲じゃない?」
前に並ぶ二人の女性がひそひそと話をしている。言根は彼女らの視線に釣られ、隣の列へと目を向けた。
「うわ、マジ本物じゃん」
「芸能人もフツーに召集されるんだね」
(わ、本当だ……)
テレビで見ない日はない程の人気アイドルがいる。
変装もせずに堂々と列に並んでいる彼女は、微笑みを携え目の合う人々に手を振っていた。
「可愛い~、絶対勝てないじゃんあんなの」
「いや、言ってもさ、ウチらも勝てますよ」
視線を感じ、言根はちらりと目線をあげる。前に並ぶ女たちがこちらを見ていた。
言根は止まりそうになる呼吸を必死で続けながら俯いて、新品のスニーカーのつま先を凝視する。目の前の女たちはすぐに興味の対象を華やかな女性に戻したようだった。
◆◆◆
感動と興味と嫉妬の視線を全身に受けながら、雪永妃咲はにっこりと笑っていた。
これだけ大多数の人間が、自分がこうして立っているだけで意識を取られている。そんな自分が、人類進化に不必要であるはずがない。選ばれたも同然だ。
審議はエンターテイメントショー形式の生放送。彼女の最も得意とする分野なのだ。
「あの、妃咲ちゃん、握手してください」
「いいですよ~!」
「応援してます!」
「ありがとうございます~!」
「ミラクルオンリーワンいつも聴いてます!」
「わあ、うれしい~」
「ドラマの主演最高でした」
「ありがとうございます~」
「この前の落とし穴に嵌ったやつめっちゃ笑いました!」
「ええ~! はずかしい~!! でも楽しんでくれたならうれしいな!」
招集者たちに囲まれ、彼女は笑顔でひとつひとつ言葉を返してゆく。
「列を崩さないでください。列を外れた人は、並びなおしてください」
人だまりになって列を崩してしまったそこへ、警備ドロイドがやってきた。
みんなの華やかな気分を台無しにする無機質な声にブーイングが飛ぶ。
「並んでたわよ、ちゃんと」
「なんで並びなおさなきゃいけないんだよ!」
「あなたは明らかに列を外れていました。並びなおしをお願いします」
「ごめんなさ~い! わたしのせいですよね、ちゃんと並びなおします!」
雪永は大げさなくらい眉尻をさげて謝罪をして、素直に列の後方へと向かった。いつの間にか列はかなり伸びていたが文句も言わない。
それを見た周りの若者たちは「さすが、好感度ナンバーワンアイドル」と色めきながら彼女の後をついていった。
「今度はちゃんと並びましょうね~」
自分の後ろに並んだ若者たちに笑顔でそう言い、その間にも好感度が上がってゆくのを熱い視線を全身に受けながら実感する彼女は、不意に冷たさを含む視線に気づく。
隣の列に並ぶ女がうざったそうに雪永を見ていた。キャバクラで着るような下品な色合いと胸元を強調するドレスに黒い上着を羽織る女だ。装飾品や化粧で自身を煌びやかに魅せようとしているが、目元の疲れが隠しきれていない。
雪永はフフンと内心だけで笑ってみせた。嫉妬、大いに結構。所詮は負け惜しみ。下の者たちに目を向ける暇などない。どこまでも駆け上がらなければならないのだから。
◆◆◆
騒がしい隣の列に寝不足の脳を揺さぶられ、九条千鶴は舌打ちをした。
テレビで見かけたのは数知れず、今や国内に彼女を知らぬ者はそういないであろう人気者は余裕があって結構なことだ。だが、周りの彼女をチヤホヤする連中はどうだ。彼女がいるせいで自分が……なんてことを考えもできないのだろうか。
九条には周囲の人間、全てが壁に見えていた。
大勢の人が集まるこの会場で、どの七人が障害となるか。少なくとも味方が生み出されることは、システム上あり得ない。
九条は丁寧に巻いた髪が色の濃い口紅に張りつくのを煩わしそうに、真っ赤に塗られた爪で払い、携帯端末を取り出した。履歴に並ぶ本名かも分からない名前から適当に選別し、定型文をペーストする。それを何人か分、繰り返した。
すぐの返信はなく、彼女はまた舌打ちをする。平日の朝だ、仕事中なのだろう。しかし九条にとってはどうでもいいことだった。この後の予定が欲しい。そのほうが気が紛れるし、何より生活のためにも必要だった。
焦燥の裏にあるものから目を背けるため、九条は目を向けるものはないかと周囲に視線を巡らせる。そして。
「あのさ、前進んでんのよ。見えないわけ」
九条は八つ当たりに、一人分程もない隙間を開けている前の人間に言い放つのだった。
◆◆◆
中井谷武蔵は全力疾走していた。
背負った安物のギターケースが上下に揺れて、ガンガンと後頭部に当たって痛いが、そんなことを気にしている余裕もない。
受付終了時間が迫っている。家を出て、モノレールに乗ってからギターを忘れたのを思い出したのが原因だ。でもこれがなければならないのだから、中井谷は戻るしかなかった。
招集会場であるネオホールに到着した頃には、受付の列は短くなっていた。
駅から駆けてきたせいでゼイゼイと息を吐きながら、中井谷は赤紙を警備ドロイドに見せる。警備ドロイドは召集令状をスキャンし、そして次のアンドロイドが身体検査で彼の肉体をスキャンしてから無感情に口を開いた。
「直径一メートル以上の物は持ち込みに申請が必要となっております」
「え? これ? ダメ?」
「駄目ではありません。ですが申請が必要です」
「じゃあ申請して」
「私はその権限を持っておりません」
「なんだよ、じゃあどうしたらいいんだよ」
「中央のナビセンターでご案内致します」
「ええ? 時間ないのに……ったく、分かったよ」
右の首筋を差し出し、ネックチップの認証を終え、中井谷はギターケースを背負いなおし、中央ナビセンターに向かった。
◆◆◆
目の前を全速力で走ってゆく青年に驚き、柏原は目を瞬かせた。
ネオホールを見るといつの間にか列はほとんどなくなっている。
「あら」
ぼんやりと時間が過ぎるのを待っているうちに、必要以上に時間が経っていたらしい。
柏原は携帯端末で時間を確認し、ベンチから急ぐでもなく立ち上がった。
――優雅な足取りで会場に向かってゆく彼女の十数メートル程後ろには、どこか物々しい雰囲気を纏う青年がいた。
爽やかな朝の空気が似合わない、表情を削ぎ落した能面のような顔をしている彼もまた、右手には赤い封筒を手にしている。
青年……
そしてまた、何かするでもなく同じように歩き出し、ネオホールへと入ってゆくのだった。
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