第18話 エリートたる所以
「大丈夫。あなたは大丈夫」
今朝。家を出る時、母は言い聞かせるように言っていた。
それは彼女の口癖のようなもので、人生の中で幾度となくその言葉を耳にしてきた。テストで一番を取った時、初めて通う塾に連れていかれた時、ちょっとした不安に苛まれた時。治虫は大丈夫、と母は祈るように口にしていた。
初めてそれを聞いたのは、マジカルナンバー7プロジェクトが制定されて少し経ってからの夜だ。
不自然な時間に電話がかかってきて、父が真っ青な顔をして何やら喚いていた。母も同じような顔色で幾つか言葉を交わし、そして何事かと起きてきた自分を見つけて
力いっぱい抱きしめてきた。
誰かのことを酷く悪く叫ぶ父の声をかき消すように、母は震える声で耳元で何度も繰り返していた。
「大丈夫、あなたは大丈夫。治虫は大丈夫」
初めて塾に連れていかれたのは、その翌日のことだった。
◆◆◆
風坂が控室を出てゆき扉が閉まった直後、雪永は言った。
「まさかエリートくんもあーえーぬーとか言わないよね」
「Rh=null」
説明されてもよく分かっていたいないらしい雪永は、柏原に訂正されると居心地が悪そうに足を組みなおした。
最下位となった九条は気味が悪いくらい静かで、ただ椅子に座って俯いている。
近寄りがたいその空気に、誰も声をかける者はいなかった。
ステージではエヴァからアダムに入れ替わり、笑顔を浮かべた彼は風坂の登場を待っている。
風坂はステージ脇からその姿を見据え、小さく息を吸って吐き出した。今まで幾度となく繰り返してきた対策を思い返し、背筋を伸ばしてステージへと戻る。
大丈夫だ、問題ない。この日の為に、完璧な人生を送ってきたのだから。
「ごめんごめん。ひとつ確認したいことがあってね」
アダムは酷く申し訳なさそうな声で、苦い笑いに表情を変化させてみせた。
「構いませんよ。なんでもどうぞ」
アダムの隣に立ち、風坂は爽やかな笑顔でそう答える。
嬉しそうにアダムは頷き、本題へと入った。
「君はご両親にまっとうな愛情を注いでもらってここまで来たと話してくれたけど」
「ええ。間違いありません」
「ところで、君の叔父さんはレジスタンスだね?」
「――……」
まるで当たり前の会話のように出されたそのワードに、風坂は固まった。
微笑みを浮かべていた青年が笑顔が引き攣ってゆくのを、高性能のカメラはしっかりと捉えている。
喉元で言葉が石のように詰まったのか、喋らなくなった風坂を見て、アダムは慌てたように言った。
「話したくないなら構わない。けれど、もしよければ君の口から聞きたいんだ」
「…………」
「君はとても優秀な人間だ。素晴らしいよ。ただ、そんな素敵な人間になれた理由が気になってね。人は苦しみを乗り越えて強くなる。その背景は、どうしたって誰でも興味がそそられるものなんだ。だからもし良ければ」
「…………」
何が、何が、もし良ければ。
さも美談のように言葉を飾り立て、泥を引きずり出そうとしているだけではないか。
頭の中で、ぐるぐると思考が巡った。何本かの緊急事態の道筋が描かれる。叫びながら逃げる。目の前のこの物体を叩き壊す。違う。どれも感情に任せた非現実的な妄想だ。どれも実現不可で意味がない。
大丈夫だ。ここは人間の一個人の価値を量る場なのだ。自分は完璧な人生を送ってきた。自分は必要な人間のはずだ。
ここで惑わされずにクリアすれば、問題はないはずなのだ。システム的に。
「気乗りしない? 大丈夫、それならもう戻ってもらっても」
「フゥ――――――ッ」
その退場のチケットがたった今このステージから逃げることだけではないものになりうることを承知の青年は、大きく息を吸って力の限り吐き出した。
肺いっぱいに空気を取り込んで、空っぽになるまで勢いよく、長く、限界まで。
ひとりの男がただ呼吸ひとつに集中する姿に無数の瞳が注目するのは、なんだかとても奇妙で張りつめたひと時だった。
息を吐ききり、風坂は顔をあげる。そこにはもう、先ほどまでと同じ微笑みが浮かべられていた。
「――……事実です」
騒ぐな。喚くな。動揺するな。
「というと」
「僕の叔父は、レジスタンスでした」
これは僕の話じゃない。
真剣に、話の続きを促すように頷くだけのアダム。試されている。間違ってはいけない。乱れそうになる息を乱すまいと、一定の呼吸を保ちながら口を開く。
「ですが、逢ったことはありません。顔さえ知らない。僕は彼からなんの影響も受けていない。僕はただ、社会に対し堅実な両親のもとで、こうしてここまで育ってきたんです」
「ええ」アダムはこっくり頷いた。
「叔父がレジスタンスであることを黙っていたのは隠していたからじゃない。話す必要がないからだ。だって、僕はなんの影響も受けていないのだから」
いけない、声が震えかけた。
「ええ」アダムはこっくり頷いた。全く同じ調子で。
自分は今何を前に話しているのだろう。何を叫んだところで、抑えたところで、意味なんてあるのか。バカみたいに自分ばかり心の内は乱されかけて。
「なのに、偏見で僕の評価が落ちたら堪ったもんじゃないでしょう」
笑顔も、声の調子も、テンポも崩れていないはずだ。
それなのに何故こんな引き絞られたような心地が、控室の人間に伝わるのか。
それを風坂は気づいているのか。
焦燥の欠片を拾ったのか、アダムは笑みを深め、まるで努めて安心させるかのような慎重な口ぶりで言った。
「大丈夫。我々アンドロイドは人間と違って偏見を持ちません」
微々たるものに違いなく、しかし人間であれば必ず察知できるであろう青年の変化に対し、最後までアンドロイドは一辺倒に作られた優しさを提供した。
壁に向かって話しかけていたかのような。けれどその壁が自分の命の手綱を握っているのに。
「……どうだか」
酷く乾いた声は、自嘲的な笑みと共に一瞬だけ姿を現して消えていった。
「ありがとう。君の全てを知りたかったんだ」
立ち尽くしたままの風坂に、先ほどのステージと同じ調子で手が差し出される。
風坂はそれにのろのろ手を重ね、力なく握ってから、それでも背筋を丸めることなくステージから去り、控室への道を歩いていった。
遠くにエヴァの声が聞こえる。途中経過をまた投票しているらしい。
『それではCM前に現在のマジカルナンバー候補を発表します。上位から言根花さん、柏原五子さん、斎藤保一さん、須和明弘さん』
聞こえてくる名前を聞きながら、控室の扉を開く。
七人はモニターを凝視して自分の名前が呼ばれるのを待っているようだった。
『中井谷武蔵さん、雪永妃咲さん、九条千鶴さんです』
己の名前は聞こえてこず、青年はゆっくりとしゃがみ込み、項垂れ、両手でぐしゃ……ぐしゃ……と髪を掻きまわす。
嗚咽すら漏らさず息を殺して縮こまるその姿に、七人の胸にも鉛を流し込んだような重苦しさが襲いくる。
あなたは大丈夫。あなたは大丈夫。幻聴と分かっていても、その声を聞いていたかった。
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