第04話 水の戌
—— 監禁された女
あの時、コンビニで夕飯とデザート、ビールを買い、帰路を歩いていた。
デートは散々だったけど、仕事は今日も一日頑張った。そんなことを、コンビニ袋を軽く振って歩きながら考えていた時、突然後ろから誰かに抱き締められた。口を何かで塞がれ、身体を拘束され、車に押し込まれた。
今、男は隣で、私の存在を忘れたかのようにソファに座ってテレビを見ている。テレビというか、映画だ。テレビ台の近くに、いくつものテレビ番組や映画が録画されたDVDがたくさん置いてある。それを、いつでも自由に見ていいと言われていた。この画面が、実際のテレビ放送を映すことはない。
目が覚めた時は手足が縛られていたけれど、もう縛られていない。
男は朝か昼に家を出て行き、夕方か夜頃に帰ってくる。
男がいない間、私はどうにか逃げ道はないか家中を探した。カーテンを開けて助けを求めようとしても、窓の向こうはビルか何かの灰色の壁しかない。窓の鍵も開かないように接合されている。家具を投げて窓を割れないか試してみても、家具が全て動かないように固定されている。玄関の鍵を置いた所を見たことはないし、電話も見つけていない。もちろん、持っていた鞄からも、外部と接触のできるような機器は抜き取られている。男を気絶させる事のできるような鈍器もなかった。
食事は、自分で食べてはいけない。男が、介護のように一つ一つ丁寧に口に運んでくる。
初日は、席に座らされると手足を椅子に固定された。一度自由になった後にまた拘束されるのが嫌で、抵抗をした。
そしたら、頬を、思いっきり殴られた。
痛みと恐怖で、動くことができなかった。殴りつけてから、男は椅子の下にしゃがみ込み手を握って、「お願いだから抵抗しないで」と泣き出す。
冷蔵庫に食材があるわけでもなく、男が作るわけでもない。全てテイクアウトの料理を買ってくる。
男の手からじゃなきゃ、食事もままならない。
家には時計もない。外の明るさでだいたいの時刻を割り出すしかなかった。
見ているテレビはバラエティー番組で、笑い声が絶えず聞こえてくる。数日前に、自分の家で一度見たことがあるものだった。
情報が遮断されている。
家で、男が携帯をいじる様子もなかった。朝起きて、家を出て行き、帰ってくると、食事をして、テレビを見るあたしを後ろの椅子から観察する。その繰り返しだった。
最初は、レイプされるのではないかと警戒していたものの、それもなさそうだった。どうしても慣れないのは、風呂の時間だ。
風呂も、男の手で行われる。初めては食事の後だったため、また殴られる恐怖で、従うしかなかった。
脱いで、といわれたら脱ぎ、入れといわれたら湯船につかる。その間も、男は服を着たままじっとこちらを見ている。
そうして、私は身体を動かせず、まるでどこかの国の姫のように、身体を洗われる。
恥ずかしがっていること自体が恥ずかしいと感じるほど、男は無表情で洗い流していく。男は、目の前の身体に欲情することもなく、事務的に髪、顔、身体、秘部に至るまで洗い終わると、脱衣所で丁寧にタオルで身体を拭き、濡れた自分の服を着替え、ドライヤーであたしの髪を乾かした。
服も、拉致されてきた服はどこかにやられてしまい、全て用意されていた下着と単色のスウェット上下に着替えさせられる。
人間の生理現象上、我慢の不可能なのがトイレだ。物を摂取すれば、排便もする。それも、全て監視される。
排尿、排便が嫌で、食事を摂らなければ殴られる。
どうしようもなかった。
いつもは必要以上には近付いてこない彼が、今日はテレビを見る私の隣に座っていた。
「君は、誰かに必要とされてる?」
バラエティの音量より小さな声で、男は独り言のように呟いた。
まさか、話題を提供してくるとは思ってもいなかった。今までも話しかけてはきたが、命令や、必要最低限のものだった。
「え?」
聞き返しても、男は、またテレビに集中し始めた。数秒、男の横顔を見つめるが、男が再び話しそうな気配はなかった。
無口な彼氏と、まだ同棲に慣れない女。
今この瞬間を切り取るなら、それが一番合っている。
男が、手に触れてきた。壊れ物を扱うかのように、ゆっくりと、指先、指、手のひらと撫でてくる。
「神様って、信じてる?」
また、男が呟いた。さっきと同じく、特に感情のこもらない声で。
でも、今度はしっかりと耳に届いた。
「ある程度は」
「辛い時、助けを求めるくらい?」
「そう……かな」
「そっか」
男は触れていた手を離し、黙り込んだ。まるで、今まで会話していた事なんて一瞬にして忘れたかのように。
「信じてるの?」
男が何を言いたかったのか気になり、私から聞いてみた。決してこの監禁生活から解放してくれ、と説得できる気はしないけれど、何か得るものがあるかもしれない。
「名前呼んで欲しい」
こちらの質問をすっかり無視した男は、次の要望を伝えてくる。
監禁して自由を奪い、暴力をふるい、外からの干渉を遮断するこの男のことを、名前で呼ぶことに非常に抵抗がある。
知っている、この男の名を呼ぼうと口を開こうとすると、先に男が遮ってくる。
「シュンだよ」
私は困惑して言葉が返せない。
シュンと呼んで欲しいの?
「シュン、さんは、神様を信じてるの?」
「さん付け嫌だ」
「シュン」
シュンは、満足げににんまりと笑みを浮かべた。
「神様はひどいんだよ」
またしても、問いの答えは返ってこなかった。返す気はないのだろうか。まあいい。
「どうして?」
「俺達の嫌いな、斜面を作って待ってるんだ」
斜面? 神様が作る?
シュンの言っている事は理解できなかった。
シュンは、今自分の言った言葉を噛み締めるように口を真一文字に結び、浅く座っていた体を起こして私に顔を向けた。
あたしを見つめる目は、子供を見守る父親のような穏やかな目をしている。口元も緩めた。
「今、変なやつだと思ったでしょ」
仮にも、いや、実際、シュンは一般女性を誘拐し、暴力で制し、監視をしている犯人だ。殺すつもりはないと断言されたが、変なことをすれば、いつ殺されてもおかしくはない。そんな条件が一気に頭を走り抜け、慌ててあたしは首を横に振った。
それを見たシュンは、可笑しかったのかくすりと笑う。
「別にいいよ。自分でも、変なこと考えるなって思うし」
シュンの笑みに、少なからずほっとする。
シュンはあたしのトップスの下から手を滑り込ませ、腹を撫でてきた。
「今、俺が君をレイプしたら、赤ちゃんできるかな。そしたら、もう君は絶対に俺から離れなくなる?」
シュンは微笑んだ。
哀れみでも情けでもなく、なんの感情もない微笑み。子供が欲しいわけではなく、好いているわけでもなく、ただ、ここに居続けることを目的とした欲情。それを見て、ぞくりと心臓が止まった気がした。
突然、シュンは両手を掴んでソファーに押し倒し、覆い被さってくる。
また、何の抵抗もできない。怖い。男の顔が、涙でぐにゃりと歪んだ。歪んだ向こうで、暗く濁った瞳が、じんわりと私の身体中を舐め回しているように感じ、顔を背ける。
シュンはまた恋人を愛でるように細い手で頬や唇に触れ、耳から首にかけてなぞり、首筋を露わに晒すと、顔を近づけて来た。首筋に、チリッと小さな痛みが走る。
「君は、今俺がいないと生きられないんだ。俺が、君を生かす。君は、俺が必要なんだ」
流れた涙を、ソファに落ちる前に、シュンは指で拭うと舐めとり、更に目から流れる涙も舌で舐めとった。
「少ししょっぱい。怒ってるの?」
面白いなあ。シュンの口角が上がった。
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