第09話 土の酉

—— 泥棒の水谷



 夕方から、少し雨雲が近づいて来ていた。最悪だ。雨が降る前に終わらせたい。


 水谷が尾行をする男は、コンビニから出て来た。袋の中には、一人分の夕飯らしき弁当が入っている。この様子なら、この後どこにも寄らずに帰路につきそうだ。

 男との距離をとり、足音を立てないようについていく。後ろを振り返るような仕草はなかった。犯罪を犯しているという意識はあまりないのか、もしくは肝が座っているか。


 男の住むマンションに着いたようだった。周りはすたれたビルに囲まれた、なんとも寂しげなマンションだ。

 男が、マンションの郵便受けで中を確認しているところに、音もなく近付いた。後ろから胸ぐらを掴み、壁に向かって男の頭を打ち付ける。


 突然のことで反応ができなかった男は、脳震盪のうしんとうを起こしたのかふらふらと尻もちをついた。思ったより簡単な作業になりそうだ。

 もう一度胸ぐらを掴み、男を立たせて壁に押し付ける。男は目の前に火花が飛んでいるのか焦点が定まらない。水谷は男の頬をぺちぺちと叩き、男の焦点が戻るのを確認すると、顔を近付けた。

「お前、俺の女とった?」

 なんのことを言っているのか、理解はしているようだ。


 弱々しく細い肩が上下に揺れ、息が上がりだす。男は涙を目に浮かべ、こちらを恐怖の目で見ている。さっきはかなり強い力で壁に叩きつけた。おそらく男の後頭部は血が滲み、にぶい痛みに襲われていることだろう。


「お前は、俺の女をとったよな?」


 もう一度確認してやるが、男の目が蠅のようにうろうろと定まらない。こんなマンションの入り口で、白昼堂々暴力を振るっている姿は、見られた瞬間警察を呼ばれてしまう。

 水谷は空いている右手に力を込め、男の頬を殴りつけた。男は咳き込み、水谷の左手にかかる体重が増える。


「真奈だよ。松本真奈」


 男の回る目が、再びこちらに合わさると、男は目を見開いた。そして諦めたように目を伏せる。


「上に、いる」


 水谷は吹き出した。

「諦め早」

 思わず笑ってしまうと、男は眉をひそめた。


「どうして俺だって——」

 ——気付いたんだ。という男の言葉は声になっていなかった。


 それは、あの場で彼女の設定していた携帯の通知音が鳴れば不思議に思うだろう。随分監禁生活から気が緩んでいたのか。真奈の携帯の音があの本屋で聞こえ、真奈からの返信に疑問を持ち始めた。

 真奈の家や会社に行ってみると、家に帰っている様子もなく、会社は休んでいると伝えられた。


「あの子の携帯、サイレントにして持ってなきゃ。うっかり? 忘れてたの?」


 水谷の言葉に男はきっとこちらを睨んでくる。反抗されるのが面倒になり、水谷は男の腹に膝をめり込ませておく。水谷の左腕だけで支え切れないほど足で立てなくなった男は咳き込んで崩れこむ。が、反抗心を助長させてしまったようだ。


「お前より、彼女を大切にしてやれる」

 男はぼそりと呟いた。

「随分大好きだね」

「彼女はお前と一緒にいるべきじゃない。もう、彼女は俺が必要なんだ。他の誰にも盗られるべき人じゃない」

 声をあげ、反抗する余裕がでてきたようだ。


「そんなに好きかー」

 水谷は頭をかいた。


 男は、水谷の様子に更に声をあげる。

「お前のことは忘れてるよ。彼女だって、心を開いてくれてる」

 

 水谷は、彼女の安否と、自分の保身を天秤にかけた。

 そうして、無情にも自分の保身が下へと揺らぐ。


「……うん、わかったあげるよ」


 男は一瞬、何を言われているのかわからないようだった。川にいる鯉のように口がパクパクと声が出ていない。

「連れ戻しに来たんじゃないのか」


 男の腕を取って立たせ、尻もちをついた埃を払ってやる。この行動の理解が出来ないのか、男はされるがままに硬直している。


「あげるけど、取り返されないように気をつけて」

 水谷は硬直して動けない男を残して、マンションを出る。

 間一髪だった。マンションの住人とすれ違う。


 雨の匂いがしてきた。さて、早く家に帰ろう。

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