第10話 月の酉
—— 監禁された女
私は、なんとか仕事を定時に終わらせ、トイレでメイクを直し、会社近くの駅前で人を待っていた。
周りは、私と同じように会社を終えた社会人たちが、駅を往来している。
往来の向こうから、目当ての人物がこちらに向かって歩いてきた。
「ごめん、待たせた」
今、お付き合いしている紀一だ。半年ほど前に、家の住宅街で道に迷っている所に、声をかけたことがきっかけで、交際が始まった。
「きっかり定時に終わらせたから」
ふふんと胸を張ると、紀一は笑って頭をなでてくる。
「優秀」
紀一はあたしの三つ上だ。いつも、子供扱いされている。
今日は、紀一が見つけたというレストランに行く約束をしていた。週の始めに紀一と会えるのは珍しい。なかなか予約が取れないというところで、ここが唯一予約が空いていたのだ。
しかも、かなり急な誘いではあった。が、紀一ももう、今年で二十七。フリーデザイナーの仕事をしているけれど、食事などであたしに財布を出させたことはない。成功しているデザイナーのようだ。あたしも今年で二十四。いつ、小さな小箱を両手で開けられてもおかしくない、と思っている。付き合って半年だとしても、予約の取れないレストランで、突然食事なんて、今日が、その日なのではと思い、積み上がった仕事も根性で終わらせてきた。将来の幸せのためなら、頑張れた。
「ここが美味しいって聞いたんだ」
紀一が指差したのは、すっかり暗くなった空だった。
「空?」
首をかしげると、紀一はあははと声を上げる。
「違うよ、あそこ」
角度を変えて紀一が指差したのは、有名な大きなビルだった。あそこは、有名な高級レストランが数多くテナントとして入っていることで有名だ。あるレストランでは、ドレスコードがあるほど。
「え、あのビル?」
紀一はうなずいた。
「先輩におすすめされてさ、最近大きなヤマが終わったから奮発できちゃうよ」
私は、大きく息を吸って、吐いた。これは、本当に人生の正念場が来たかもしれない。
「こんな格好で大丈夫?」
事務所勤務のため、オフィスカジュアルな服装だった。決して、おめかししているような格好ではない。
紀一はにこりと微笑むと首を横に振った。
「そんな格式張ったとこじゃないから大丈夫だよ。その服だって充分可愛いし」
本当に、平凡な私にはもったいないほどの素敵な男性だ。うっとりとうなずくと、紀一の先導についていった。
ありがとう、街のみんな。ありがとう。今日、あたしは幸せになります。
予約されていたレストランは、確かに煌びやかというよりは、落ち着いた、照明が暗めのイタリアンレストランだった。入り口を見ると、ミシュランの星を授与されている。
ああ、ありがとうございます。
席に促され、ボーイに椅子をひかれ、席に座った。
「良かったー、たまたま空いてて。本当に、なかなか予約取れないんだって」
紀一は細長いメニューを眺めながらふうと息をつく。
なんて言って、実は数ヶ月前から予約してたりしたんじゃないの?
「ワイン飲む?」
「うん」
「ご飯も適当でいい?」
「大丈夫」
考えすぎて緊張しているのか、相槌のような返事しかできなかった。
紀一はボーイに、ワインとコースメニューを頼んでいる。
こちらに向き合うと、紀一の綺麗に整えられた眉が八の字に下がった。
「疲れてる? ごめん、無理に誘った」
「違う。考え事してて」
慌てて首を横に振り、鼻筋の通った紀一の顔を見つめる。
紀一はいたずらを思いついた時の子供のような、付き合った中で、あたしの一番好きな顔を見せる。
「何考えてたの、この後の夜のこと?」
私はパンプスで紀一の脛を蹴る。
紀一は魅力的な顔から一気に顔を歪める。
「明日早いから今日は帰る」
今日、あなたがしてくれることによっては、お泊まりもやぶさかではないけれど。
「それ、仕事でもつけてくれてるんだね」
紀一が指すのは私の首にさげたネックレスだ。先週の誕生日にもらった、ブランドのネックレス。
「もちろんだよ」
今日は、紀一と会うから仕事でも特別につけてきただけだけど、そこは嘘も方便だ。
その後、おすすめのワインを紹介しにきたボーイに乗せられてワインを試飲。食前酒、前菜、パスタ、メイン、デザートが運ばれ、全てに舌鼓を打つ。最後にコーヒーが運ばれてきた。
「想像以上に美味しくてびっくりしたな」
ナフキンで口を拭き、紀一は腹を摩った。
「本当に、すごい美味しかった。ありがとう、連れてきてくれて」
そろそろか、そろそろ、紀一がボーイを呼ぶか、別のケーキや花束が運ばれてきたりしたら、チェックメイトだ。
その時、私は紀一が辺りを見回してそわそわしているのに気付く。そうか、私がお手洗いに行かないと、ボーイを呼べないんだ。
「ごめん、お手洗い行ってくるね」
紀一のために席を立った。
再びメイクのチェックをし、少し香水も振りかけ、あたしを待つ紀一の元へ戻った。
「おかえり」
にこやかに笑う紀一は、特に緊張している様子はない。
「明日早いんだろ。そろそろ帰ろうか」
紀一は立ち上がった。
「えっ」
私は素っ頓狂な声をあげ、慌てて口を手で押さえる。
「どうした?」
不思議そうな紀一は、特に何かを隠している様子はなかった。
大勘違いだったのかもしれない。恥ずかしすぎて、一気に顔が熱くなるのを感じる。
「やっぱ帰りたくなくなった?」
にやりと笑う紀一の腹に、今度はしっかりと丸めた拳を入れた。
もう、今日は本屋行って、コンビニでビールでも買って帰ろう。
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