第02話 月の亥

—— 店長の戸田



「ハテンコウの意味って知ってる?」

「破天荒?」

 戸田は、レジの隣に立つ尾崎に顔を向けた。

 尾崎は、商品を入れて渡す紙袋にチラシを滑り込ます手を止めることは無い。

 尾崎にチラシ入れを頼むと、普通より倍の速さで終わるため助かっていた。代わりに、尾崎の思考能力が格段に低下するが。


「なんか、大胆に変なことをする人、みたいな」

 戸田が答えると、尾崎はふふ、と笑った。

「違うよ。破壊的に天候が荒れてること。本屋店員なのに、言葉知らなきゃ駄目だよ」

 この男は、おちょくっているのか。それとも本気で言っているのか、友人歴は長いと自負する戸田でもわからなかった。


 一か月ほど前、二十歳を過ぎてから入学した大学も留年し、のらりくらり生活していた尾崎は、突然戸田が店長を勤める本屋に来て言った。

「ここで働かせてください!」と。

 神様を迎える湯屋に紛れ込んだひょろっこいポニーテールの少女のように、頑なにそこから動かない尾崎に、戸田は尾崎をバイトとして雇うことを決めた。こんなやつに、春彦なんて名前はもったいない。一文字取って、春に変えてやろう。


「へえ。じゃあ、台風とか、そんな時の天気に使うんだな」

 尾崎の思考能力低下が見られたため、幼稚園児と話すような気持ちで、全てを受け入れる姿勢で臨む。


「ねえ、戸田、今日早めにあがっていい?」

 尾崎はチラシ封入を終わらせ、戸田に百枚の紙袋を渡してきた。

「なんだよ、彼女か?」

 尾崎には、確か同棲している彼女がいたはずだ。すると、尾崎に肩を拳で殴られる。

「それ今禁句だから」


 女性客が一人、レジに近寄ってきた。

 雑誌と少年漫画を基本的に買っていく、社会人成り立てのような常連女性だ。おそらく最近この店に赴任した戸田よりも、本屋のことは詳しいかもしれない。

 最寄り駅から家の途中にこの店があるのか、よくこの店にやってくる。買わない日もあれば、欲しい単行本が続けて入ったのか十冊近くを買っていく時もある。


 奥に入っていった女性客と、そこにいた店員との話し声がする。


 この店のもう一人の店員、磯辺だ。俳優を目指しながらバイトをしている、と聞いている。尾崎と戸田の四個下らしい。

 異動を言い渡された戸田が、店長を任される前からこの本屋にいる、一番のベテランだ。


 基本的に本屋は、戸田と磯辺の二人で回していた。尾崎は基本、戸田のサポートで入れている。


 磯辺との談笑を終え、女性客はこちらに近付いてきた。今日の購入は女性誌のみだ。


「いらっしゃいませ」


 雑誌を受け取り、一連の動作を終え、紙袋に入れた雑誌を女性客に渡し、笑顔を向ける。


「いつもありがとうございます。また、お待ちしております」

「ありがとうございます」


 小さな声で応えてくれた女性客もにこりと微笑み、自動ドアを通って店を出て行った。


「可愛いよね、松本さん」

 いつの間にかレジの下の備品をいじっていた尾崎が、すっと立ち上がる。

「なんであの人の名前知ってんだ」

 しまった、という顔をして尾崎は黙り込んだ。

「おい」

「一度、社員証つけたまま来ちゃった時があって、それで見た」

 そんな奇跡があったのか。

 松本さんが来る時間帯には基本いるようにして、レジは必ずやっていたが、見落としがあったようだ。


「松本さんか」

 戸田の復唱に、尾崎はこちらを覗き込んでくる。

「よく来るよね。戸田がめちゃくちゃ笑顔になるから、磯辺くんあの人のレジは避けるって言ってたよ」

 そこまで露骨だっただろうか。流石に年下にまで気を使われているのを知ると、恥ずかしさが湧き上がってくる。

 しかし、レジに入らないとはいえ棚の向こうで必ず談笑しているのは聞こえてくる。長いバイトと新任の店長では越えられぬ壁があることに、少なからず戸田が嫉妬を覚えているのを、磯辺は知らないだろう。


 戸田は尾崎の頭を小突いた。


「なんで、彼女が禁句なんだよ」

 先程の話題を戻してみる。デリカシーがないかもしれないが、気になった。

 尾崎とその彼女は、なかなかお似合いのカップルだった。喧嘩でもしたのだろうか。


 尾崎は、話すかどうか迷っているようだった。そんな深刻なことなのだろうか。

「俺って彼女に必要なのかなって思っちゃって」

 悩んだ挙句の言葉。


「そんな女子みたいな言い草、彼女も呆れるだろうよ」

「そうかなあ」

「ご愁傷様。いいよ、あがれ。特にやることないし」


 もう、今日は松本さんを見れたから、あとは閉店までここに立つだけだ。事務作業は済ませてある。


「ありがと」

 尾崎はエプロンを脱ぎ、慌てるように裏から大きな鞄を引っ掴むと、本屋を出て行った。

 いつも鞄なんて持たずに財布と携帯だけでバイトに来るのに珍しい。

 まるで、実家の母親が倒れたかのような急ぎっぷりだった。


 戸田は、いつの日か松本さんを食事に連れて行けるように、レジに隠れながらパソコンでこの近辺のいいレストランを検索し出した。


「ご相談が」

 パソコンに集中し過ぎていて、磯辺が背後にいることに気付かなかった。

「うわ、びっくりした」


 磯辺は笑ってエプロンを外す。本来は尾崎ではなく、磯辺があがる時間帯だった。


「相談?」

「来月から、少しシフト抑えてもいいですか。舞台が立て込みそうで」

「ああ、わかった。大変そうだな」


 磯辺がシフトを抑えると言っても、ほぼ毎日のようにいるシフトが週三、四に減るだけだ。尾崎を入れれば何も問題はない。


「結構、厳しい演出家で、俺のプライドズタボロですよ」

「見に行くからチケット用意しといてくれよ」

 戸田が言うと、磯辺は疲れた笑みを見せた。あまり舞台などに詳しくはないが、本当に大変そうだ。

「ありがとうございます。用意しますね」


 と、磯辺はちらりと戸田のパソコンを見る。

「誰かご飯にでも誘うんですか」

 あ、と戸田はもう隠し通すことも出来ない、『おすすめレストラン十選!』と書かれたページを、一ページだけ戻す。

 出てきたのは『初めて レストラン 女性』と検索をかけたページ。

 もうどうしようもない。


「もしかして、さっきの女性客ですか?」

 磯辺が彼女の名前を知らないことに、少し優越感に浸る。

「尾崎が名前を知っていたらしい」

「そうですか」

 興味もないような磯辺の声。

「調べてたこと、尾崎には言うなよ」

「はは、わかりました」

 磯辺は乾いた笑いを見せた。

「お先に、失礼します。次松本さんに会えたら、好きな食事でも聞いときますよ」

 磯辺は、自動ドアを抜けて本屋を出ていった。


 なんなんだ、知ってたんじゃないか。優越感で持ち上げられた自尊心が、一気に急降下する。

 戸田は寂しくパソコンを閉じた。

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