第4話 滋賀付璃 入見琵 (しがふり にゅみび)
研究棟は端的に表すならば「内装にこだわる金も研究費に回せ」という研究者精神が表れた建物といえた。シンプルな階層構造に内壁や床、天井に至るまでが白一色に統一されており、白色蛍光灯と相まって気が滅入りそうだった。
そんな建物内でも一部の部屋はある程度の内装が施されていた。それが今いる所長室と私がクライエントと立ち会うカウンセリング室である。正直廊下と同じような部屋に入れられた暁にはクライエント共々、会話どころではなかっただろうからその考慮には心の底から感謝した。研究者とはいえ、人の心までは忘れていないようだ。
一度着替えて来た
所長室に通された時の一番の印象は赤くないことだった。私がこれまで抱いてきた応接室の印象といえば、赤い
次に目に入るのは淡い緑から濃い緑へとグラデーションを見せる机や棚だった。その材質が
硫花の向かう先にはそれらしき人物が椅子に腰かけてこちらを値踏みしている。私は
目の前の男はきっちりとスーツを着込んだ商社マンのような柔らかい印象を受ける男だった。50代に足が届きそうな見た目をしているが、付けているメガネは年の割には洒落たデザインで、その心は未だに老いの憂き目を感じさせない若さがあった。
私が硫花の隣に並ぶと
「所長。こちらが今回治療を担当する、
彼女の声が空中に浮かび上がる。
「硫花さん、ありがとう。そちらが粗修さんですね。はじめまして、私はこの研究棟の所長を努めております、
奈瀬戸所長は椅子から立ち上がりこちらに手を伸ばして握手を求めたので私もすぐに応えた。
「根熊粗修です。よろしくお願いします」
彼の手に包まれた瞬間、背中にとても重いものを背負わされたような緊張を感じた。所長と硫花に挟まれた状態の私に選択肢など存在しないのだろうか。
「ありがとう。君には硫花さんの方から説明もあったかもしれないが、改めて私の口から説明させてもらおうと思う」
所長は目の前の机に一度視線を下げてからまた私たちの方へ戻した。
「まずわかってもらいたいのは、今回のクライエントのような例は同じような事例のない極めて特異的な症例であること。そして我々はクライエントの改善を第一の目標に、加えて症例の具体的な原因究明を進めるつもりだ。いいかな?優先目標はクライエントを救うことだ。硫花さんたち研究チームもそうだが、特に粗修さんには細心の注意をもって治療にあたってほしい」
「はい。私たちも研究の虫とはいえ、人の心まで無くしてはおりません」
その掛け合いに二人が笑みを浮かべる。私も笑みを浮かべた方がいいかと思い、 ー微笑んでー みると、それを見た硫花に
「なんだお前?そんな顔もできたんだな。それなら私にも普段から見せろ、お前は無愛想でならん」
と揶揄され体勢を崩しかけた。
所長には出来るだけ悟られないよう微笑みは浮かべたまま
「私も持てる力を駆使し、精進いたします。よろしくお願いします」
と無難に答えて、所長室を後にした。
先に出ていた硫花に追い付いて所長の前で醜態を晒しかけたことを問い詰めると、「緊張が解けて良かったな。なんならカウンセリングの前にもやってやろうか?」と全く悪気はないようだったので余計に腹立たしく思ったが、実際に体の芯がほぐれた感じがして足取りもいつも通りに戻っているので怒りたくても怒り切れそうになかった。
私は口に出かかった言葉を飲み込んで、彼女の後に続く。廊下の先にあるいくつかの扉をスルーした先で、これまで見たものよりも比較的大きめの扉の前にたどり着いた。
「さてそれじゃあ、研究チームと治療者とクライエントとの三者ご対面、といこうか」
硫花のウキウキした声とは反比例に私の緊張は強まっていく、こんなアウェーな状態では無理もない。事あるごとに緊張が高まっていては仕事にならない。私は入場ゲートの時と同じように意識し心臓の鼓動を押さえた。
大扉を抜けるとそこは広々とした会議室のようで、ざっと50人ほどは余裕で入るだろうか。そんな部屋の前方に硫花と同様に白衣を着た数名の男女と一般人の家族とが向かい合って座っていた。私はそのままその中間辺りの席へと誘導され、そのまま硫花による紹介が始まった。右手からはじっくりと観察するような視線を、左手からは不安や恐怖の混じった疑いの視線を感じながら、私はここから始まる地獄の日々に思いを馳せていた。
私の紹介が終わると続いて、クライエントの女性の紹介に移った。
「はじめまして、
おとなしそうな女性だった。それが自然感情の蓄積によるものなのかどうかは分からないが。彼女に続いて両親も挨拶した。入見琵さんと比べると二人とも感情の発露ははっきりとしたものだった。母親からは不安と恐怖が、父親の方からは娘が研究対象として扱われることに対する怒りと疑心が受け取られた。そう思うと彼女はやはり感情の発露が本当に薄れてきているのかもしれない。彼女は今何を思っているのだろうか。自身の未来に対する不安や恐怖、研究の対象にされていることに対して不満はないのだろうか。今の状態では彼女から感じ取れる情報はほとんどなかった。まずは彼女の感じていることを知るところから始めよう。
「ありがとうございました。滋賀付璃さんには今後、ご自宅からこちらに通ってもらいながらの治療を進めていく予定です。通院のペースに関しましては・・・」
「あの、一つよろしいでしょうか?」
入見琵さんが小さく手を伸ばして注意を向けさせた。説明を続けていた硫花は一瞬戸惑ったが、すぐに彼女に主導権を握らせた。
「ありがとうございます。私の症状改善のために皆様が力を尽くしてくださるということで大変心強いです。ですので、この症状の研究のためなら私はどのようなことでも受けるつもりです。そして皆さんには私のこの症状が、本当は正常だということを証明してほしいのです」
会議室の空気が凍りついた。
何を言っているんだ?部屋に集まったほぼ全員からその感情が表出されるなか、その原因を作った女性は真っ直ぐに私たちを見つめていた。
最初に空気を破ったのは、研究チームのうちの一人だった。
「せ、正常!?何を言っているんだ!あなたは今感情の発現が動いていないと言っても過言ではないんだぞ。それが正常だなんて!」
「今この症状が出ているのは私なんです。あなた方はその方面の専門家なのでしょうが、だからといって私の内面にその常識を当てはめないでください!」
これを皮切りに、室内は一気に騒がしくなった。研究者同士で話し合う声、娘を説得しようとする声。そして皆を落ち着かせようとする声。
私も場を落ち着かせようと口を開きかけたとき、目の前の世界が一変した。
あれだけ騒々しく言葉と言葉が重なり向こう側も見えなかった会議室内には入見琵さんの声だけが漂っていた。そして開けた視界には入見琵さんと硫花、そして研究者が一人だけ残っていた。
私は硫花に向かって声をかけたつもりだったが、その声は全く届いていないようで彼女はそのまま前を見据えたままだった。見ると入見琵さんも何が起きているのかと先ほどからきょろきょろと周りを見回している。
「お前たち、五月蠅いぞ!クライエントの要望をちゃんと聞くのも私たちの仕事だろうが」
突然響き渡った硫花の声に全員の意識が集まる。
「一端話を聞く場を設けるために、この場に見えている人間以外の視覚と発現をジャミングさせてもらった。要はしばらく黙ってろってことだ」
なんと強引なやり方だろうか。恐らく彼女の開発した他人のフィルターに影響を与える技術を利用したのだろう。彼女の関係者ならばともかく、一般人である
「まず、
硫花は隣にいる私を親指で指差すが、示された入見琵さんは的外れな方向を向いている。どうやら硫花だけには全員の姿が見えているらしい。
「私はただ証明して終わりにしたくはありません。その正しさが証明されて今とは違う生き方が認められてほしいんです。だから、治療を受けて元の自分には・・・戻りたくありません」
「なるほどな。お前の意思は尊重しよう。だがな、今のままでどうやって生活するつもりだ?お前がいくら正常だと叫んでも今みたいに異常だと糾弾されるだけだぞ」
「それは・・・」
硫花はこのまま彼女に治療を受けさせて元に戻そうとするのだろうか。果たしてそれが彼女の意思を尊重することになるのか。一言止めに入ることもできない自分が余りにも無力だった。
「なぁ、
くしつぐ?その名前は初耳だった。いま会話できる状態にあるのは硫花と入見琵さんと研究員の男だけだ。自ずとその男が釧告ということは理解できた。では、一体彼は何者なのだろうか。私の思考は彼のしわがれた声によって遮られた。
「そうだな。出せるものはすべて出してでも手に入れようとは思うな」
「それはつまり、どれくらいだ?」
「一億でも十億でも。いくら出しても足りないだろう」
「入見琵、そういうことだ」
完全に諦めかけていた入見琵さんはハッと顔を上げて硫花を見つめる。その期待に応えるように硫花はその耳に語り掛けるようにゆっくりと、その肩を叩くように力強く言い聞かせた。
「お前が今体験している状態は非常に珍しいものだ。そういう意味ではお前は生きているだけで一生安泰に暮らせるほどの金を手にできる。でもそれはお前の望みとは違うかもしれない。金よりも大切にしたいものは誰にだってあるはずだ」
一度呼吸を整えて更に続ける。
「そこで提案なんだが、今後我々にお前の体験を情報として提供してほしい。その代わりとしてだが、無償で治療を受けてもらって構わない。それでどうだろう」
「ち、治療!」
入見琵さんと私の声が重なったが、硫花に聞こえたのは彼女の声だけだろう。
「治療といってもお前を元に戻すためのものじゃない。元々この治療法は患者の癖を直すことで治療していたんだ。裏を返せば、後から癖を付けることもできるってことだ」
「それって、つまり・・・」
私の声が聞こえたはずないのに、硫花は大きく頷いて
「お前に日常生活が送れる程度の感情の癖を覚えさせる。そうすることで、その内面の特殊性を維持したまま社会に溶け込める可能性があるってことだ」
そう締めくくった。
「ほ、ほんとうに・・・。そんなことができるんですか?」
入見琵さんは今にも崩れ落ちそうに腕を伸ばして硫花の希望にすがろうとする。
「あぁ、ただし内面への影響を小さくするために一回あたりの治療の効果は弱くなるだろうから、定期的に通院して治療を受けて貰う必要があるかもしれない」
パッと明るくなった入見琵さんの顔に確信を得たのか、硫花がポケットからあの手鏡ほどの大きさの機器を取り出して触れると、自分を含め姿を隠されていた全員が再び現れた。研究員たちは彼女が語った可能性について早速議論を始め、入見琵さんの母親はその手で娘に触れ安心した表情を浮かべていたが、父親だけはそうはいかなかったようだ。 硫花に詰め寄ると、面と向かって怒鳴り散らす。
「おい、お前!これが娘を預けさせるとこのとる態度か?こんな所に行かせられるわけがあるか!?おい、帰るぞ!こんなところに来たのが間違いだった」
「あぁ、今日のところは帰ってもらって構わない。でもその子を思うことってのは危険から遠ざけることだけじゃないことを覚えておいた方がいい」
「なんだって?お前のその得体のしれない力でいじらせることの方が娘のためになるっていうのか?」
硫花はまるで油をもって火を制そうとするように、真っ向から父親に挑んでいく。
「本当にその子のためになることを決めるのは、私でもお前でもない、入見琵自身だ。だから、私ではなくまずその子の声を聞け!思いを確かめろ!お前たちの手を離れても飛んでいけるよう、鳥かごなんかに閉じ込めようとするな」
放たれる言葉の圧力は段々と硫花の方が圧倒しだし、やがて父親の怒りは収束していった。
「時間をくれ。娘の意思を確かめる時間が。色々整理する時間が欲しい」
「もちろんだ。一週間時間をおこう。そちらから連絡してもいいし、無いならこちらから連絡する。わからないことや不安なことはなんでも答えよう。とにかくよく確かめてから、またここに来ることを願っているよ」
「それはあれか、実験対象を逃すのが惜しいってことか?」
「いや。どんな選択にしろ、お前の娘が自分の意志で決断してこの場に立ってくれたら、私も言うことは無い。ってことかな」
父親はフッと鼻を鳴らすと、家族のもとへ戻っていった。これからあの家族は決断を迫られる。大事な娘を思う二つの矛盾する気持ちはどちらに傾くのだろうか。
私はあの父親が見せた強さに
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます