言語治療法

ネコイル (猫頭鷹と海豚🦉&🐬)

第一章 出会い

第1話 目覚め

 ー視覚ー


 目の前のボードにそう書き込む。

 世界を知覚するのならこれだけあればいい。真っ白なボードに影が映し出され、そこに確かに存在していることを示している。

 それはつかの間のこと。浮かんだ文字はボードに溶け込むように消えると、そのまま真っ白なボードを黒く染め上げる。


 ー触覚ー


 続いて書き込むと、ボードの少し先に薄い膜が覆いかぶさるような感覚を認識する。ボードが暗いままなのはまだ光を受け取ることが出来ていないからだ。光がなければ私たちは世界を見ることも聞くこともできない。そう、まずは光だ。


 ー世界に光をー


 まるで魔法の呪文のようなコードだがこれでも簡略しているほうだろう。ただー光ーと書き込むだけではボード自体が発光したり、自身の体が発光しているように輝いてしまうと周りの人間から指摘されたことがある。

 ボードに被さった膜の向こうがうっすらと明るくなり、刺激を受けてボードが少し震える。光量を調整しようかと思うこともあるが、二度手間なうえいずれボードが自然な光量に調整するので特に気にしてはいない。


 ー起床ー


 視界が一段と明るくなり淡い光に照らされた白い天井が目に入る。そのまま視線は壁から布団へと移動し、体が自動的に布団を出てカーテンを開けるまでの一連の動作を視認する。まるで他人の生活を仮体験しているような感覚だが、これはもちろん私の体であり、私の起床なのだ。この時点では触覚を目蓋にのみ限定しているため、布団の重みもカーペットの感触も何一つ分からない。仮にテーブルの角に足をぶつけても私は痛みを感じないだろう。まぁ、それはあり得ないのだが。

 視覚や触覚を得る過程とは対照的に、このようなルーティン動作であれば事前に書き込んで覚えさせてしまえばたった一言でそれが完了してしまう。世の中にはわざわざ朝日を浴びて、その日の気分にあった運動を欠かさないという変わり者もいるようだ。その気分さえ自分で変更できてしまうのだから、それも込みでルーティン化してしまえばいいものを。私にはとても理解できない。

 それから私の体は、部屋の扉を抜けた向かいにある洗面所で顔を洗い、髭を剃り服を着替える。その間もやはり目蓋以外の感覚はない。髭を剃り始めたころは体がその動作に馴染んでおらず剃り残しや炎症が続いたため、一つひとつの動作を指示し、感覚を覚えさせる必要があった。しかし、今となっては私のほうがかつての自分の体といい勝負をするくらいには下手くそになっているかもしれない。

 鏡に映る自分に向かって一瞬含み笑いをもらすが、その顔はほんの少し目尻を下げたように見えただけでそれ以外のパーツは1ミリも動きはしなかった。

 感情はボードに言葉として書き込むか、自然対応を選ばない限りは表情として顔に出ることはない。今は自然対応状態になっているので目蓋が反応して目尻を下げたが、それは家にいるときだけだ。外で他人に見せる感情はどれだけ手間がかかろうとも言葉にし直している。

 それは言葉で表現された感情に比べて自然発生した感情は、その変化が掴みづらく相手に伝わりにくいためだ。特に私はあまり自然感情が豊かとはいえないので面倒でも感情は一度言葉に変換するようにしている。

 体は洗面所から右手に続くリビングへと足を運び朝食の準備を始めた。ここもルーティン化するために必ず食材の確保が欠かせない。この体はまるでロボットのように決められた場所で決められた行動を取ることが出来るが、状況を把握して行動を変えることはできず所定の位置に食材がないだけでエラーを起こしたみたいに固まってしまう。そこからは私自身による指示が必要になる。

 頭が糖分を欲して役割を放棄しかけている朝にそのような手間はかけたくないため、私は普段からこうした細かい位置取りに気を付けている。

 朝食を手早く済ませると再び洗面所に戻り身だしなみを整える。ルーティンはここまでで、これから先は私が一つひとつボードに指示を書き込む必要がある。文字という視覚情報が重きを置くこの世界において見た目は何よりも重要になってくる。目ヤニ、口元の汚れや乱れた髪の毛は相手の視覚情報に多大な負荷をかけ修正がしにくくなるため、印象が悪くなるのだ。

 そう、この世界では美しさや個性というものは必要ない。それらは見せるものではなく、そのように見せてやるだけでいいのだから。

 

発現はつげん

 

 「いってきます」


 一人暮らしを始めてもう何年も経つがいまだにこの癖は無くならない。実家と比べて静かな廊下には私に応える声は存在しない。そして私の声もまた存在しない。

 「ガチャッ」 「ぎぃぃぃぃ」

 鍵を開け玄関扉を開く私の後ろ姿にホログラムの影が重なる。

 そこには、聞こえはしない音声たちが並んでいた。

 

 

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