第4話 哀しみ

 あの日から一週間。

 ここ最近では珍しく連日の雨が続いている。

 傘からはみ出たコートの肩を濡らしながら通用口から研究棟まで早足に駆け抜ける。この天気はまるで不穏な空気の流れるこの研究棟そのものだった。その中心にいる硫花には何か言えない事情がある。私はそんな疑問を抱いてしまっていることに嫌悪感を示しながらも、一刻も早くこの状況を、硫花を救いたいという思いを強くしていた。

 私が研究棟の入り口を目に捉えたとき、同時に釧告くしつぐ研究リーダーの姿を目にした。思わず足を止めて睨み付けるような視線を送っていると、彼の方が声を掛けてきた。


 「そんなところにいると濡れるぞ。早くこっちに来たらどうだ」


 しかし私は彼に対する警戒心を捨ててはいなかった。一か月前にわざと揺さぶらせるような手を使って、入見琵さんの過去に探りを入れようとしたことを忘れることは出来なかった。

 

 「あぁ、この前はすまんな。こちらにもやらなければならんことが山積みでな」

 「ならどうして私に彼女の過去をおしえたりしたんですか?」

 「お前さんにとって彼女は餌になり得るか確かめたまでよ」

 「ふざけるな!」


 私は靴に水が染み込むのも忘れて地面を強く蹴りつけた。跳ねた水が彼の少し手前に落ちて見えなくなった。


 「あなたは彼女のことを何だと思っているんだ」

 「勿論人間だ。ただし、彼女に今起きている症状は別だ。あれを解明し生きやすい社会への足掛かりとする。それが彼女の願いだというのに硫花はそれを拒んでいる。何かを隠している・・・」

 「それ以上言うな!」


 私はもう我慢ならず、詰め寄って彼の胸ぐらに掴み掛かった。手放された傘がころころと回転する様は救いを求めて彷徨さまよう私を表しているようだった。


 「彼女は入見琵さんの負担を増やしたくないだけだ。入見琵さんのことを実験体みたいにしか見ていないあなたにそんなこと言われたくはない」

 「それでどうなる?本当に患者のことを思ってのことかどうかも分からん勝手な行動で集団を惑わす彼女はそれで許されるのか?本当の原因は彼女に関係しているかもしれないんだぞ」


 胸ぐらを掴まれてもなお彼は動じることなく問い続けてくる。


 「いいか。硫花は明らかにあの患者が来てから何かを隠している。そのせいで研究も碌に進まん。なぜだと思う?それはあの患者が関係しているからだ。あの子を守ることは彼女自身を守ることでもある、だから触れさせない。本当にかごに縛り付けているのはどちらだか」

 「う、うるさい!」


 私は腕に力を込めたつもりだったが腕は振るえるばかりで軽くいなされてしまった。


 「君も分かってはいるんだろう?でもそれを認められないでいる。どちらも大切にしたい存在だからか。だがな、必要は発明の母とよく言うだろう?君も求めるもののために明かさなくてはならないことがあるとは思わないか?」

 「・・・・・・・・」

 「風邪をひかないよう気を付けておけ」


 彼は一言言い残してそのまま棟内へと入っていった。



 『彼女は何か隠している。それはあの患者に関係することだ』

 

 「先生?」


 『君が求める答えを得るには』


 「根熊先生?」


 『明かさなくてはならないことがある』


 「根熊先生!」

 「!?」


 入見琵さんが安堵の表情を浮かべる。どうやら治療の途中で意識を持っていかれてしまったようだ。これでは治療者失格だ。


 「すいません、ちょっと考え事をしていました」

 「いえ、それよりも先生、最近お疲れではないですか?」

 「え?い、いえそんなことは・・・」

 「いいえ、最近だと全然言語のお話もしてもらえないし、なにか違うことを考えているような顔をすることが増えました。あの、やはり私の治療が

 「そんなことありません!」


 彼女が自分に責任を感じることはない。これは私たちの問題であり彼女はあくまで患者、症状の改善を求めている人なのだ。余計な心配をかけるわけにはいかない。


 「ご心配おかけしてすいません。言語のお話もしたかったのですが、私の中のレパートリーにも限りがありまして、ついつい思い付いたお話を考えてしまっていました・・・ははっ」


 私の苦し紛れの言い訳に彼女は不安そうな表情を浮かべる。言い訳を考えていてはだめだ。私は少し前屈みになって顔を近づけて真剣な表情で自分の気持ちを述べた。


 「入見琵さん。私はここ最近気を取られることが多く、不安に思われたでしょう。自分が悪いのではないかと。決してそんなことはありません。あなたには自分のペースで自分の人生を歩んでいただきたいと思っています。その為にも私たちに出来ることはなんでもしましょう。それが私の役割です」


 私はその時の気持ちを素直に口にした、そのつもりだった。しかし、その虚構はまさかの入見琵さんの手によって崩されることとなった。


 「ありがとうございます。でも、それは本心ではないのでしょう?」

 「え?」

 「こんなのは卑怯かもしれませんが、先生はあの、硫花先生のことで悩んでらっしゃるのでしょう?そしてそれは私にも関係しているはずです」


 私は呆然とした。どうして硫花のことだと思ったのだろう。私たちが治療を通して行った会話に彼女の名前は一切出てこなかったというのに。

 入見琵さんは少し俯いたままさらに続けた。


 「こんなこと言ったら気持ち悪いと思われると思います。私も誰にも言うつもりはなかったのですが、先生の真摯な気持ちを受けて、先生になら教えられる気がしたんです。実は私、人の感情をぼんやりとですが感じることが出来るようになったんです」

 「感情を・・・感じる?」

 「はい。わかりやすく言えばオーラのように、雰囲気でどんな気持ちを抱いているのか分かるんです」


 それは、どういうことだろう。オーラ? 雰囲気?

 そんなのまるで超能力の話ではないか。私はそれが彼女の冗談か何かだと思い込もうとしたが、この一か月近く続いた会話で彼女がそんな冗談をいうような人ではないことを知っていた。

 では、それが本当のことだとして。こんなことが、こんな突飛なことが本当にあり得るのだろうか。私はその答えを求めて震える口を開いた。


 「それは一体どういうことですか?私にはさっぱり」

 「えぇ、私も理解まではしていません。ですからこれは主観なのですが、目の前の人の周りにこうもやがかかっているように見えて、その感じからその人がどんな気持ちなのかが掴めるんです」

 「それは今も見えているんですか?」

 「はい、今は上下に上がったり下がったりして驚いているように見えます」


 ということはつまり。


 「今のあなたには私のどんな気持ちもお見通し、ということですか?」

 「はい。そうなります・・・」


 その言葉の意味することを想像して私は急に寒気を覚える。他人に感情が筒抜けな状態、そして見る人全ての感情を視認できる状態。どちらも異様過ぎて私は頭がおかしくなりそうだった。


 「すいません、ずっと黙っていて。気持ち悪いですよね」

 

 彼女が申し訳なさそうな表情を見せる。自然と力が込められていくその拳や唇に歯を食い込ませる様子に、私はその恐ろしい想像を一旦忘れて彼女に集中する。

 

 「い、いえそれよりも、あなたはその様な状態でずっと生活していたんですか?」

 「はい、初めは怖かったですけど、これもこの新境地に立った影響だと思うことでなんとかやってきました」

 「新境地?ちなみにその様なものが見えるようになったのはいつ頃からですか?」

 「見えるようになってきたのは二、三ヶ月前からです。きっと一年間のことがきっかけで見えるようになったんだと思います」


 一年前!?彼女の親友が亡くなり、彼女に異変が表れ始めたというその時期に一体何が起きたというのか。

 私は治療者としてではなく、一人の人間としてその疑問を発した。

 

 「その一年前に何があったんですか?」


 「その日私は、死んだ友人と再会したんです」

 

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