第3話 楽しみ

 治療がスタートして一か月ほどの時間が経った。入見琵にゅみびさんは治療のみならず度々言語に関する勉強をせがむので私も学生時代に戻った気分で久々に教科書を開いたりしながらも、順調に進む治療に手ごたえを覚えていた。

 それに反して研究班の進捗はあまりよろしくないようで、研究棟内で目にする研究員のほとんどが疲労をその顔に浮かべていた。硫花りゅうか釧告くしつぐ研究リーダーの姿はその間ほとんど目にすることはなかったので籠りっきりで研究に取り組んでいるのかもしれない。硫花には無理をしないでいて欲しいと思うが、釧告研究リーダーとは出来るだけ顔を合わせたくなかったので、寧ろ好都合だと思うことにした。

 その日の治療は言語感情と自然感情とのコントロールの練習だった。私とのコミュニケーションをとりつつ、その言語による影響を自然感情の領域まで持ち込まないことを目標に会話を続けた。

 こればかりは彼女の内面で行われていることなので私はただ見守ることしかできない。それでも彼女の励みになることなら何でもしてあげようと休憩時に取れるお菓子や飲み物を準備するようになると「先生ってば、お母さんみたいですね」と笑われてしまった。それでもまだ誰も立ったことのない境地に立とうとする彼女を応援せずにはいられなかった。

 15分の休憩を取りつつその日は2時間ほど練習を繰り返した。これ以上の練習は彼女の体力的にも、言語と自然感情とを隔てるフィルター的にも無理はいけないので終了することにした。

 私がその旨を伝えると、彼女はまた言語の勉強がしたいとせがんだ。

 私は頭の中の引き出しからまだ話していない言語に関する情報を探した。今日は日本語の多様性について話そうか、私がそう言うと彼女は嬉々としてソファーに深く座りなおした。


 「先生、ありがとうございました。今日のお話もとても面白かったです。それでは、また次回もよろしくお願いします」


 彼女はまるで幼い少女が外の世界に夢焦がれるような笑顔を見せると部屋を出ていった。

 時刻は午後五時。私は持ち込んだ食べ物のかすなどを掃除し、本日の治療の進捗や彼女の精神状態の推察をまとめて部屋を後にする。私が扉を開けた時、ひらりと何か小さなものが視界に映った。床を見てみると、ちょうど開いた扉の手前に小さな紫色の紙切れが落ちていた。

 はじめは誰かが落としていったのかと思ったが、白い床に落ちたあまりに異様な配色のその紙切れに私は何か意味があるのではと思えて仕方がなかった。

 拾い上げて見ると、それは厚紙を半分に折ってあるようでその両面には何も書かれていなかった。訝しみながらその厚紙を開くと中には黒い文字で


 本日午後8時にここを出て南に進んだ先にあるファミレスでお会いできますでしょうか? 

 こちら店名と住所です。

 餌穀えさご 登勢芽とせめ


 と書かれていた。登勢芽さんは確か初日にこの治療室まで案内してくれた研究員だった。その時は硫花とのあれこれを聞き出そうとして来たが、今回のこれはあまりに不自然だった。要件は一体何だろう。彼女の聞きたがることなど硫花に関することしか浮かばないが、わざわざこんな形で聞き出そうとしたりするだろうか。

 私は頭の中のスケジュールにそれを組み込みつつそんなはずはないだろうと高を括っていた。しかし、それは大いに外れることとなった。



 「硫花さんのことでご相談があるんです」


 私が店に入ると奥の方で一人の女性が立ち上がり軽く会釈した。私服姿の登勢芽さんは白衣姿の時とは打って変わって可愛らしい印象を受けた。私が向かいの席に着くと

 

 「き、きょうはお忙しいなか、来てくださってありがとうございます。どうぞなんでもご馳走しますので選んでください」


 彼女は挨拶も早々に切り上げてメニューを眼前がんぜんに押し付けてきた。メニュー越しに顔を覗くと赤らめた顔を下に向けてぷるぷると震えている。緊張しているのだろうか。研究棟の中ではあんなにグイグイと迫ってきたというのに。

まるで硫花のようだと思ったがこちらの方が素直で可愛げもある。

 私はゆっくりと差し出されたメニューを降ろして

 

 「ありがとう。でも気にしなくていいですよ。今回は何かお話があって呼んだのでしょう?」

 「え、でも・・・」

 

 彼女はまだ納得いっていないようだが、私も注文を取りに来た店員を待たせる気にはなれないのでブレンドコーヒーを一つ注文した。彼女にも追加はないかと確認すると、恥ずかしそうに手前のカップを引き寄せて「間に合ってます」と呟いた。

 店員が去ってようやく彼女はこちらの顔を真正面に捉えると

  

 「今回は硫花さんのことでご相談があってきてもらいました」


 と言った。


 「硫花?硫花が何かしたのか?」


 私はその一言にまるで犬のように食らいついた。その反応に安堵したのか、彼女も大分落ち着きを取り戻して話を進め始めた。


 「根熊先生もご存知の通り、私たち研究班は入見琵さんの症状の解明に取り組んでいるところなんですが、今研究班の中でちょっとした対立が起こっていて」

 「それはどのようなものなんですか?」

 「はい、実は硫花さんと釧告リーダーとで彼女の症状の原因を探る探らないで対立していまして。硫花さんは患者のプライバシーだからと反対していて、でも釧告リーダーはその原因が分かればよりその症状について理解が深まると主張していて。ほかのメンバーの多くが釧告さんに側についているんですが、硫花さん抜きで研究を進めるのは難しくて。そんな状態になってしまっていて研究がストップしてしまっているんです」


 なるほど、ここ最近見かける研究員の顔がやけにやつれていたのはこうした事情があったようだ。それは研究どころではないだろう。だが、その研究班とは一切関係のない自分に彼女は何を期待しているのだろう。いつの間にか私の前に置かれた湯気にその疑問を投げかけてみたが、それは私が掴むよりも先に霞んで消えてしまった。じれったいと感じた私は彼女の真意を直接聞き出すことにした。


 「研究班の現状は分かりました。それで、あなた私に何を期待しているのですか?」

 「あ、もうその話してもいいんですか?」

 「え?えぇ、大体のことは把握しましたから。ご用件は何でしょう」


 私がそう促すと、突然彼女は目の前に置かれたカップを一気にあおり、中身を飲み干すと壊れるのではないかと心配になるほどの勢いでカップをソーサーに戻して


 「はぁ~疲れたぁ~」


 と盛大なため息をついた。 

 私がその急変ぶりに驚くのをよそに彼女は溜め込んだ思いをどんどん吐き出していく。

 

 「私いっつも過程とかすっ飛ばして話進めちゃうから、人と会話するのが苦手で。あそこだと硫花さんが相手してくれるからつい自分のペースで話したいこと全部言っちゃっうんです。でも硫花さん優しいからちゃんと聞いてくれて、もうほんとすごいんですよあの人。でもいつもだったら優しい硫花さんが今はなんか相手してくれなくて。まぁ、そりゃあんな状態ですからしょうがないですけど。でも私いつもの硫花さんに戻ってほしくて・・・

 「ちょ、ちょっと待って!!」


 私は何とか彼女の会話を止めて注意を向けさせる。あまりの豹変ぶりに私だけでなく近くを通りかかった店員までもが目を丸くして彼女を見つめていた。

 彼女はようやく現状を把握したのか、またやっちゃったという顔をして俯いてしまった。これが彼女の普段の姿なのか。初めの印象を訂正しよう。彼女はもはや素直を通り越して度が過ぎる。

 店員が遠くへ行ったのを確認してから彼女に声を掛ける。


 「あの、もしかしてここに来てからずっと我慢してたんですか?」

 「はい・・・。ちゃんとお話を聞いてもらえるようにと思って、出来るだけゆっくり喋ろうと意識してきたんですけど、根熊先生がお願いを聞いてくれそうだと分かった瞬間にもう抑えられなくて。すいません・・・」


 そうだったのか。確かに初日に話した時にも初対面にも関わらずグイグイと迫ってきたあの状態と比べると、ここに来て初めに受けた印象は全く逆だった。しかし、それもあまり長くは続かないようだ。このままにしておくのも忍びないので、彼女のお願いとやらにはできる限り応えてあげようと思う。


 「いえ、気にしてませんから。顔を上げてください。それよりあなたがお願いしたいことというのは何ですか?」

 「え!?そ、そんな、もう私お願いする立場なんかじゃ」

 「大丈夫です。内容にもよりますが、私にできることであればやらせてもらいますよ」


 自分でも甘すぎると感じる言葉に彼女の表情は一気に明るくなり、またつらつらとまくし立てそうだったので、一旦彼女の前に手を伸ばして「登勢芽さん、落ち着いて」と呟いてから話させた。


 「はい。根熊先生、硫花さんと一緒にお食事に行ってもらえないでしょうか」

 「は?」


 お食事? 硫花と?

 一体何を狙ってそんなことをわざわざお願いしたりするのかわからなかった。


 「最近、硫花さんすごいピリピリしててストレス溜まっていると思うんですね。だから、美味しいご飯を根熊先生と一緒に食べに行ってもらえばリラックス出来ると思うんですよ」

 

 彼女は自信満々に提案してきた。


 「でも、なんでまた私に?登勢芽さんがお誘いすればいいのでは」

 「私が誘ったら私ばっかり喋べっちゃって全然落ち着けないと思うんですよ。それに硫花さん根熊先生のことよく口にしてるから多分気になってるんじゃないですかね?そんな人と一緒にご飯に行けたら嬉しいと思うんですよ」


 そう言うと「ね?そうでしょう」と言わんばかりにこちらを見つめてくる。


 「というか、根熊先生と硫花さんってどこで知り合ったんですか?二人とも治療者と研究者で接点なんて全然想像つきませんけど」

 「え?そんなことをわざわざ聞くのかい?」

 「そりゃあ気になるっていうか。ずっと気になってたけど最近忘れてて、今唐突に思い出したんで聞いておきたいんです」


 思わず苦い顔をしてしまう。彼女との出会いは実は学生時代まで遡るのだが、少々恥ずかしい思い出でもあるためそうベラベラとは口に出せそうもない。

 

 「あ!なんか悪いこと考えてますね。なんです~?まさか硫花さんとも何かあったんですか。先生って意外と肉食系なところあったんですね」


 登勢芽が私の表情から邪推してあらぬ事実を生み出して広めかねなくなったので、正直に話すことにした。

 私が高校一年の頃に大学を飛び級で卒業し、現在の言語治療法に目覚ましい発展を与える逸材として注目されている女性が私の住む地域の大学にて一般講義を行うこととなった。それこそが草間山くさまやま硫花その人だった。

 その当時、言語治療法はまだまだ一般的にも認知されておらず参加するのは主に専門的な知識を求める学者がほとんどだった。その中で数少ない一般人の一人が私だった。参加した理由は今となってはよく覚えていない。野次馬精神からか見聞を広めようと思ったのかはもうどうでもいいことだ。私は彼女に会えたのだから。

 講義が始まってから終わるまでの約二時間もの間、私は何をするでもなくただ壇上で自身の理論を発表する彼女の姿を見ていた。それは恋というより憧れに近い感情だったと思う。三つ年上でまだ十八才の彼女は見た目こそまだ十代のあどけなさを残しつつも、その新たな理論への飽くなき探求心と理知的な態度に私は心打たれたのだ。

 その講義の終わりの挨拶でどういう訳か彼女は私に一つ質問を投げかけた。


 『お前には専門的過ぎるこんな内容のどこに興味惹かれたんだ?』と。


 私は彼女の意識が、言葉が向けられたことが嬉しくてつい思ったままに答えていた。


 『正直、お話の内容は全く理解できませんでした。ただあなたの強い探求心と姿勢に憧れて・・いました・・・』

 

 そこで初めて自分が何を言っているのかを理解し、慌てて訂正しようとした時彼女が言ってくれたのだ。


 『凄いか?私に憧れているのか?ならここまで来い、私にもお前のことを凄いと思わせてみろ』と。


 そして、私は言語治療者になることを目標に動き出した。彼女のように言語に関わることを学びたい、彼女のように言語で人の役に立つ存在になりたい。私の意識にはいつの間にか学者として進み続ける彼女が常に存在するようになったのだ。

 はれて治療者となった私を見つけた時にはほんとに来たと驚いていた。それからは度々からかわれたりとまだまだ彼女を認めさせるほどではないのかもしれないが、それでも私はあの日の言葉を胸に今日までやってきたのだ。

 私が話を終えると登勢芽は口元に手を置いたまま「えー!!」と大声を上げた。

 周りの視線も構わずにはしゃぐ彼女を落ち着かせるには水を掛けても無駄だろう。そんな燃え盛る心の炎に追い立てられ、やはり私が最適だと彼女の計画に参加させられることとなってしまった。



 翌日。私は施設の通用口の少し先で硫花が出てくるのを待っていた。

 未だに彼女を食事に誘うという流れに実感がわかず、この場を去りたいという気持ちでいっぱいだったが、少しでもその気を起こせば物陰に隠れたあの視線の持ち主に捕まえられてしまう。

 登勢芽の計画は単純なもので、仕事終わりの硫花を待ち出てきたところで食事に誘う。「誘い方は自分で考えてください。カッコイイ所見せてくださいね」とあまりに人任せなものだった。靴底の感触が気になって何度も靴を地面に擦り合わせる。こんなにも時間が経つのを遅いと感じたことそうなかった。

 待ち始めてからどれほど経っただろうか。もうそろそろ限界を迎えそうになった時、通用口の向こうから歩いてくる硫花の姿が見えた。見た目はあの腰まで伸びた白髪の研究者姿のまま黒いスーツに身を包んだ彼女が通用口の警備員の横を通り過ぎて出てきた。そのままではあまりに不自然な見た目のバランスを修正しようと、彼女がいつも使用している手鏡のような機械を手に取ったあたりで私は声を掛けた。


 「硫花、お疲れ様。今帰るところか?」


 声の出どころに向けた彼女の視線は見るものすべてを破壊しかねないような殺気に満ちていたが、それが私だと気付くと今度は疲労感を前面に押し出した表情に変化した。目元に出来た小さなしわが彼女の最近の生活を物語っていた。


 「なんなんだお前は。いつから私の出待ちなんてアイドルファンみたいなことをするようになったんだ」


 彼女の声にはいつものような覇気が感じられず、私はこの後の段取りも忘れて思うがままに言葉を投げかけていた。


 「大丈夫か?研究が忙しいのは重々承知だが、ちゃんと食べているのか?」

 「なんだお前は、私の母親面がしたいのならそうしろ!だがな、私は忙しいんだ。用がないなら話しかけるな」


 彼女はそう言って去ろうとする。私はこのままでは本当に危ない予感がし、前に回り込んで彼女を引き止めようとする。


 「待ってくれ!よ、用ならある。それで声をかけたんだ!」

 「ならさっさと済ませろ。それと大きい声を出すな、頭に響く」


 私の精一杯の心配をよそに、彼女は手元の機械を操作してもう既に見た目を変化させ始めていた。チャンスはこの変化が終わるまでの一瞬しかない。そう判断すると私の口は意思とは無関係に、しかし的確な表現を選び取っていた。


 「食事に行かないか!?」


 顔を上げた硫花は栗色の巻き毛と目元にあどけなさを残した女性に変化していて、その驚いた表情と相まってまるで私はナンパをしかけた男のようだった。

 しかし、その口から出たのは想像もしていなかった言葉だった。


 「もてない男の悲嘆に付き合うつもりはないぞ」

 「そんな風に見えるか」

 「あぁ、お前の周りによって来る女は一癖も二癖もある厄介な連中のようだな。登勢芽!いるんだろう?いい加減出てきたらどうだ」


 どうしてそれを!

 驚いたのは私だけではないだろう。体勢を崩した登勢芽が物陰から体を覗かせてしまった。見つかった登勢芽はあたふたとしながらその場を去ろうとするが、硫花の無言の圧力により彼女の元へ近寄ってきた。その様は𠮟られることを悟った子供のようだった。


 「あ、あの硫花さん。どうしてわかったんですか?」

 「お前からえげつない感情のオーラが漏れてたんだ。出た瞬間にお前だなって気づいたぞ」

 

 感情のオーラ?何を非科学的なことを言っているんだろう。硫花らしくない表現に違和感を覚える。登勢芽も訳が分からないという顔をしている。


 「あの~それって、どういう・・・」

 「登勢芽、お前昼間っからやけにそわそわしてたよな?」

 「え!?」 「はぁ!?」


 登勢芽と私の驚きの声が重なった。


 「何度もこっち見てはニヤニヤするするし、珍しく残ってると思ったら私の目途がついたところで一目散に出ていくし。怪しすぎるんだよ、見てるだけで何か企んでるなって予想がつくわ」


 啞然とする登勢芽をわき目に、私の頭の中では今自分が行った恥ずかしい行為がリピートされ、何度も何度も顔を熱くさせた。

 二人は、というか登勢芽は計画を始める前から破綻していて、それに巻き込まれた私はただ恥ずかしい思いを強いらされただけの完全敗北という結果になった。

 頭を抱える二人を前にして硫花が大きな溜息をつく。


 「それで、一体お前たちは何がしたかったんだ?」

 「私が悪いんです!根熊先生には協力してもらおうと私の方からお誘いして・・・、いや無理やり!無理やり協力させようとしたんです。だから根熊先生には

 「登勢芽さん!」

 「!?」

 

 彼女は普段から早口になりやすいようだが、てんぱるとより早口というかまくしたてる勢いで言葉を口にするようで、全く要領を得ない説明になってしまっていた。私は彼女の落ち着かない口の代わりに仕方なくことの成り行きを説明した。


 「彼女はただ硫花に休んで欲しかっただけなんだよ。それでなんで私が関係するのかは・・・、よくわからないがね」


 敢えてその部分の説明は省くことにした。説明した所で自意識過剰だとなじられて終わりだろう。登勢芽はもうすっかり私のことを忘れたみたいに「硫花さんに休んで欲しかったんです」と硫花のことしか頭にないようだった。それはそれで好都合だ。下手に口を滑らせてあらぬ方向に話を進める心配がなくなった。

 それを聞いた硫花は


 「そうかそうか。登勢芽、心配かけてすまなかったな。よし、今日は折角だから一緒に飯にでも行こうか。ちょうど会計担当を連れてきてくれたようだしな」


 そう言っていやらしい目つきで私に視線を送る。ここは登勢芽のためにもついていくしかなさそうだ。


 「会計じゃなくて連れと言ってくれると嬉しいんだが」

 「それじゃあ、エスコート頼むよ。紳士さん」


 私をよそに硫花は登勢芽を連れて歩き出した。大きくため息をついてからスマホで近くの飲み屋をいくつかピックアップした。少し離れた二人に追いつくとちょうど登勢芽が硫花に話しかけたところだった。


 「硫花さん、今日はゆるふわ系ですか?とっても可愛いですね」

 「ありがとう。でもあまり見た目は意識していないよ。いくつかパターンを作っておいてそれに変えているだけだ」

 「そういえば前から疑問だったんですけど、硫花さんってなんで研究所の中と外で見た目を変えてるんですか?」


 それは確かに興味を惹かれる質問だった。研究所ないでの見た目こそマッドサイエンティストじみてはいるので、それを隠すためかと思っていたが今日のように明るい表情を見せるときもあれば、真面目な表情を見せることもありその真意がどこにあるのかさっぱりだった。

 私は二人の後ろからその会話に耳を傾ける。


 「研究所の外であんな見た目をした奴がうろついていたら、みなの目を引くからな。それに私は早急に家に帰りたいんだ。途中で知り合いに出くわしたくはないのさ」

 「えぇ~、硫花さんお友達いるんですか?研究一筋だとばかり思ってました」

 「そうだな。私にもおしゃべりな知り合いがいるからそれ対策、という効果もあるかもな」


 なかなかに攻めた応答を見せる二人の会話を聞きながら、私は一つの疑問を浮かべた。それは一人の人間としての硫花の姿が全く想像できないことだった。

 研究者としての彼女の姿はいくらでも想像ができるのに、研究所を一歩出た途端に彼女という存在はあやふやになる。存在しているのかすら怪しいほどにその生活感は薄かった。まるで誰にも認知されないようにしているみたいだ。

 私が一人思考に潜っていると、「おい!」と声を掛けられ意識を戻した。

 

 「探してる店はどこなんだ?ホントにこの道で合ってるのか?」


 硫花は相変わらず高飛車な態度で聞いてくる。その態度にムッとした私は、少しばかり登勢芽の前であたふたさせようかと思い、あの手を使うことにした。


 「その先を右ですよ。お嬢さん」

 「そうか。女性の扱いはもう少し勉強した方がいいと思うぞ」

 「え?」

 

 彼女はいつも幼い感じをなじると途端に余裕を失って子供みたいな反応を見せたはずなのに、今日は何の反応も見せなかった。思えば研究所を出てから見た彼女の態度や雰囲気は、一か月前に会った時とは正反対だった。

 私が彼女の反応に驚いているとなぜか隣に同情するような視線を向ける登勢芽がいた。

 

 「根熊先生。ドンマイです!まだまだチャンスはありますから頑張って下さい」


 彼女は私が硫花を口説こうとして失敗したと勘違いしているようで、同情とは別にやはりきらきらとしたものを瞳から感じた。

 私は遅れますよ、と言い残して先を進む硫花の後を追うことにした。彼女の反応は、思い過ごしだろう。



 案内した大衆居酒屋は仕事帰りのサラリーマンがそのほとんどを占めていたので、女性二人とその付き添い人の私というのは自ずと目立つ存在になってしまっていた。奥の方で飲んでいた若い集団から受ける視線が痛いくらいだ。その視線を集めている当の本人はどこ吹く風で、登勢芽とどの料理を頼もうかと会話に花を咲かせている。私もここまで来て飲まないのもあれなので、ビールを注文した。

 会話はそのほとんどを登勢芽が占めるかと思われたが彼女は酒を飲んでもなお暴走する様子はなく、硫花が普段の仕事の愚痴をこぼす流れになるよう話を持っていこうとしてきた。しかし、そのどれもがひらりとかわされてしまいその闘牛と闘牛士のような二人の会話に自然と私も笑みをこぼしていた。

 硫花に話を振るのをあきらめたのか、登勢芽はグデッと顎を机に乗せたまま喋りづらそうに入見琵さんの治療に関する話を私に聞いてきた。はじめは患者に関する話を公衆の面前で話すのは気が引けたが、その話題には硫花も興味を示したので私は最初の治療で彼女の抵抗感を薄めるために言語に関する見解を説明したことを話した。


 「へぇ~根熊先生って頭いいんですね」

 「そんなものじゃないよ。昔勉強していた時に思い付いた話を出来るだけ分かりやすいように例えとか混ぜただけだからね」

 「そうだぞ登勢芽。今回はうまくいったかもしれないが、最悪感情も心もすべて言語によって生まれた幻想だと思われたらそれこそ治療どころじゃなくなる。人には信じるべき幻想が必要な場合もある。それを壊すのは人生そのものを大きく狂わせることだ」


 硫花の言う通りで私のした行為はある意味一か八かの勝負といっても良かった。今回は勝利を収めたわけだが次もまた同じように行く確証などない。私がそのことを登勢芽に教えようとした口を開きかけた時。


 「だが、その見解はなかなか面白いと思うぞ。彼女が治療の合間に聞きたがるのも分かるよ」


 珍しく硫花から素直な感想を耳にした。

 登勢芽も顔を明るくし「硫花さんが人のこと褒めるの初めて見ました」と言うと硫花は「私も褒めることだってあるさ」と返した。

 ここに来てはじめて会話らしい会話が成立した。


 「感情を言語で抽象的な概念にまとめることで長い歴史の中で保ち続けることができた。私もその意見には賛成だよ。その上でお前はどういう結論を彼女に提示したんだ?」

 「感情は言語によって制限されたりしない。言語感情を持つ私たちは機械と同じではない、とこんなところかな」

 「なるほどな。それじゃあ、人格や性格については話したことはあるか?」

 「それは、まだ話したことはないが」

 「そうか。ならお前がどんな話をするか知らないが、人格なんてものはまやかしだって悟らせないことだな」


 なんだ、どうしたんだ?

 急に彼女は不穏な空気を醸し出し始めた。しかし、酔っている登勢芽には伝わっていないようで吞気に「硫花さん、どういうことですか?」と話を続けさせる。

 私は蛇の腹に飲み込まれた蛙のようにただ彼女の話を止めさせることができなかった。


 「私たちは言語による異なる感情を持っている。あいつはうざいとか、あの子は可愛いとかな。その対象は他者だけじゃない、自分自身もその対象だ。内外に向く異なる言語情報と感情、それが周りから見た時の個性や性格ってもの。つまりはキャラクターだ」

 「キャラクターですか?なんかかわいいですね」

 「そうだ。作品におけるキャラクターに強い個性を感じるのはそのキャラの感情や思考を言語情報として直接受け取ることができるからだ。なら私たちだって例外じゃない。私たちは周りの人間に言語情報を押し付けあうことで個別化を図っているに過ぎない。いつ空っぽになってもおかしくないんだ」


 そう言い終わった彼女はいつもの冗談をいう時とは違って、何処か寂しそうにに見えた。

 

 「硫花、大丈夫か?」

 「うん?あぁ、大丈夫。すまんが今日は疲れたから先に帰らせてもらうよ。粗修そしゅう、ちゃんと登勢芽の介抱してやるんだぞ?」


 そう言って彼女はそそくさと店を後にしてしまった。私は店先まで見送ることさえ出来なかった。いつまでも彼女が出ていった入口の方を向いていると「硫花さん、楽しそうでしたね」と登勢芽の声がして振り返る。

 彼女は酔いが醒めてきたようでもう机に突っ伏してはいなかった。


 「そうなのか?私にはよく分からなかった」

 「根熊先生って鈍感なんですかね。まぁでも一緒にいないとわかんないかもな」


 彼女はそうして研究者としての硫花のことを熱く語り始めた。そんな彼女が初めて硫花と出会った日から続く思い出の数々を肴に今は酒の酔いを進めることにした。

 硫花語りがここ最近の出来事に移り始めた頃、彼女の調子は見るからに下がっていった。理由を尋ねるとやはり入見琵さんの症状が関係しているようだった。


 「班内の関係がぎくしゃくするようになったのは私の知る限り初めてのことで。いつもは硫花さんを主体に動いて、でもあの人、個人の自由も尊重してくれるかkら誰もあの人に反対する人なんていなかったんですよ。それなのに・・・」

 

 入見琵さんの症状に何か関係があるのか。それとも入見琵さん本人が何か関係があるのだろうか。私は酔い過ぎたのか踏み越えてはならないラインを見失った。


 「硫花と入見琵さんには面識はなかったのかい?」

 「へ?硫花さんと・・・。いえ、なかったみたいですよ。硫花さんもそう言ってました」


 本当にそうだろうか。彼女を疑いたくはないが、彼女の変身能力があれば入見琵さんに気づかれることなく面会することもできるだろう。だとするならば硫花は一年前に起きた何かに関係しているのだろうか。入見琵さんの変化の原因に自分が関係していると知られるのを恐れているのだろうか。


 「一体何を考えているんだ・・・」


 私の疑問の答えはどこからも返ってはこなかった。

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