第2話 怒り
「言語の勉強がしたい?どうしてまたそんなこと頼むんだ」
はじめて
「入見琵さんは今自分に起きている変化とその治療に用いる技術にはどちらも言語の力が関係していると知って興味が涌いたらしい。治療の合間にでいいから色々教えて欲しいと言っていたんだが、何か懸念はないかと思って声をかけたんだ」
「ふ~ん、まぁいいんじゃないか?別に言語の勉強をしたところで治療に悪影響は出んだろうし」
硫花があまりに適当に答えるものだから私はつい反論していまう。
「そ、そんな適当に決めていいものなのか!?もっと慎重に行動した方が・・・
「じゃあ、聞くが。お前は治療者になる前と後で何か変化したのか?」
「え?」
治療者になる前と後のそれぞれの自分?
学生時代から今に至るまでの過去の言動を思い返す。
「加えて聞くが、お前はこれまで行ってきた治療の後に何か変化しているのか?」
彼女の追撃によって、なんとなく彼女の言わんとすることは把握できた。
「いや、特に変化はない・・・な」
「そういうことだ。確かにお前も知っての通り言語には人の内面を作り変化させる力があるが、それは言葉の意味がもたらすもので言葉そのものによってなるものじゃない。言葉そのものに力があったりしたら、私たちはみんな会話しているだけで毎日、いや毎秒にでも変化していることになるんだぞ。恐ろしいだろ」
確かにそれは恐ろしい想像だ。子供の頃に、寝て起きた自分は本当に昨日と同じ自分なのかわからなくなって寝られなくなったことを思い出した。
するとそんな私を見て釧告研究リーダーが
「はっはっはっ、いやぁお若いもんは想像力が達者でいいですな。自分の古びた脳みそと交換したいくらだわ」
とまた恐ろしいことを口にした。
「やめとけやめとけ。こいつには知識がないからこんな変な想像を膨らませるんだ。お前がそうなったら即クビにするぞ?」
「いやいや、知識に縛られないからこそ柔軟な発想というものは生まれるといつも言っているじゃありませんか。それで言えば自分はもう使いもんになりませんよ」
「そんなこと言って早めの休暇を取るつもりだな。お前にはまだまだ働いてもらうつもりだからな。覚悟しておけ」
硫花は最後に冗談めかしく言うと、先に行ってると言い残してその場を後にした。何か用事があったのだろうか。それなら引き止めたりしてよかったのだろうか。私が釧告研究リーダーの顔を見ると彼もこちらのことを見ていた。そのぎょろりとした目つきに私は背筋が凍りついた。彼はゆっくりと顔を近づけ私だけに聞こえるように話しかけてきた。
「あなたに一つお願いがある。入見琵さんの治療を通して、彼女に起きた変化のきっかけを探って欲しい」
「それって・・・」
それは私も一度彼女と対面したときに抱いた疑問だが、私は治療者としての仕事を全うするためにもそのことには触れないようにと決めたばかりだった。私が何も言えずにいると彼はそれをいいことに更に続ける。
「これは彼女のご両親からのお願いでもあるんです。娘に何があったのか知りたいとね」
「硫花は何も言わなかった・・・」
「あぁ、彼女はあまりそのことを望んではいないようでしてね。プライバシーに関わることだと言い張ってあなたにも黙っているようにとくぎを刺されましてね」
ならばどうして私に教えるのだろう。よりにもよってこんな、彼女の治療の直前に。
私は顎を引いて
「上司の命令は絶対なのでは」
「クライエントの要望に応えるよう言われました。そのご両親のお願いを
「嫌だと言ったら?」
私は彼とは所属する場所も違い、この件が終われば関わりは無くなる。脅しに使うようなネタはないはずだ。私はそう信じて敢えて強めに答えた。
「それがご両親の願いであっても?」
「信頼関係は治療に必要不可欠です。不用意な詮索は信頼を破壊しかねます。それはご家族のうちで話し合うべきことで、私が関わることではありません」
私はきっぱりと彼の頼みを断った。まだ二、三回しか話していないのだから、罪悪感も薄い。私は「失礼します」と挨拶をして治療室へと足を踏み出した時、彼の冷ややかな声が首元に迫った。
「治療者としての誇りですか?まぁいいでしょう、最後に一つだけ教えておきます。入見琵さんは一年前に親友を亡くしているそうです」
体が固まった。一年前といえば彼女に変化が起きた時期と一致する。親友を亡くしたとあればその精神にかかる影響も計り知れないだろう。しかし、それが原因であのような特殊な状態になることがあり得るのか?
「やはり気になりますか?彼女にいったい何があったのか」
釧告研究リーダーの声が頭の中を引っ掻き回す。それをわかったうえで彼は私が話に乗らなかったことを敢えてスルーしたのだろう。
私は目の前のボードを埋め尽くさんと腕を走らせる。言葉でも行動でもなく。ただ彼の言葉にこれ以上惑わされないよう。飛び回る虫をはたき落そうとするようにただ書き続けた。いつの間にか私の息は上がって額を汗が伝っていく。
「気が変わりましたらいつでもお声がけください。それでは」
彼はそう言い残して去っていった。私はしばらくの間その場を動くことができなかった。
扉を開くと既に入見琵の姿がそこにあった。
なぜか彼女はソファーの前で立ち上がった状態で怯えた表情を何かに向けていた。その視線の先にはなぜか地面に転がったあのクマのぬいぐるみが転がっていた。
私が急いで駆け寄り何があったのかと尋ねると、手に持っていたぬいぐるみから突然声が上がって驚いて落としてしまったようだった。そのぬいぐるみは二つあるうちで彼女に近いところにあった青色のものだった。私が昨日、緑色のぬいぐるみを通して彼女の入室を察知できたように、この青色のぬいぐるみにはクライエントに治療者の入室を知らせる機能があったのだろう。そうとは知らず私が来たタイミングでそれを手にしていた彼女からすれば、目の前のぬいぐるみが突然しゃべりだすのだから驚くのも仕方がない。
彼女に何事もなかったことに安堵しつつも、時間通りに来なかったことでこんな思いをさせてしまったことが堪らなく申し訳なかった。
「申し訳ございませんでした。お待たせしたばかりにこのようなこと巻き込んでしまいました」
「そんな、いえ・・・私も大して気にしてはいませんから。お顔を上げてください」
私はなかなか彼女の顔を見られずうつむいてしまう。
「あの、もう十分伝わりました。それに、何か悩み事があったみたいですし・・・
「え?」
その一言に思わず顔が上がる。
「今なんて・・・?」
「い、いえそう思っただけです」
彼女は慌てた様子で手を顔の前にかざして表情を隠した。彼女はまるでここに来る前の出来事を知っているかのようなことを口にしかけた。そして、それを隠そうとしているみたいだ。
「あの、立っているのもあれですから、座りませんか」
「あ、あぁそうですね。座っていったん落ち着きましょう」
まるで自分に言い聞かせるみたいな発言に一層顔が熱くなるのを感じた。
こうして彼女の治療がスタートした。
言語治療法は治療者と患者との会話を通して行われる。患者は治療者の言葉を繰り返す中でその言語に生まれた悪癖を修正していく。元々その患者本人が持っていた癖に直す作業なので通常の治療ならば早くて2週間ほどで修正が完了することが多い。
しかし、今回は彼女の内面に生じた変化を変えることなく、上辺を新たに作ったうえでその状態を自由に操作できるようにすることが目標となるため、通常の三倍、それ以上の時間と労力がかかることが予想された。
まずはじめに彼女には我々が普段行っている言語による感情認知の感覚を思い出してもらうところから始めた。彼女はこの一年の間に段々と言語ではなく自然感情による感情認知の感覚に慣れ始めていたが、まだそこまで時間が経っていなかったので、この段階はそこまで手間はかからないと予想していたが、予想外だったのは彼女が言語による認知の感覚に嫌悪感を示したことだった。
自然感情とは言語によって生まれた感情の残像、いわば影のようなものであり誰しもがその影を少なからず有しているが、普段の生活ではあまり存在を許されてはいないものだった。それは自然感情ではそれが喜怒哀楽のどれに属した感情なのかがわかりづらく、円滑なコミュニケーションに支障をきたす恐れがあるためだった。いわば進化の過程で失ったなごりであり、退化への足掛かりともいえた。
そのことを説明したうえでも、彼女は自然感情の感覚に蓋をすることを嫌った。私もまさかこのようなところで苦戦するとは思っていなかったので、しかたなく彼女が興味を示していた言語の側面から切り込むことにした。
「入見琵さん、感情というものはどこから生まれるものでしょうか」
「感情ですか?それはやはり人の内からではないでしょうか」
「では、性格や個性というものはどうでしょう?」
彼女は一瞬迷う様子を見せたがすぐに「同じく内からです」と答えた。
私もそのように思っていたし今だってそのように思うことはある。だがここはあえて違った側面を見せ、彼女を迷宮へと誘う。
「では、私たちの内面に感情が生まれる瞬間に視点を合わせてみましょう。私たちはみな母親のお腹の中から生まれてきて成長する過程で様々な知識と経験を得ます」
「そうですね。今の私があるのは過去の経験と知識あってのことですから」
「えぇ、そうです。では感情はどうでしょうか。入見琵さん、あなたは生まれてから初めて感情を覚えた瞬間がいつか覚えていますでしょうか?」
「初めてですか?それはちょっとわかりませんね。気が付けば楽しいことで笑って、悲しいことで泣くというのが当たり前になっていましたから」
「そうですね、それは私も同様です。恐らくほぼ全ての人間が感情を認知した瞬間のことなど覚えてはいないでしょう。なのでここから語るのは仮説に過ぎません。よろしいですか?」
私はここで敢えて間をおいて彼女の意識を集中させる。次に語る言葉の衝撃を強めるために。
「人間が感情を認知するのは言葉によって感情が規定された瞬間ではないのでしょうか。つまり、人間は漠然とした体内の変化に『嬉しい』や『悲しい』といった言葉を当てはめることで初めて感情を認知しているのです」
開けた間が功を奏したようで彼女は口を開けたまましばらく黙ってしまった。彼女はなんとか反論するようにたどたどしく言葉を口にする。
「で、でも、赤ん坊だって笑うじゃないですか。それに泣くこともあるし怒ることだってある。まだろくに喋れないうちからこうやって色んな感情が芽生えているんだから。そんなことありえない・・・」
「えぇ、おっしゃる通りです。ではその赤ん坊の立場を想像をしながら考えてみましょう。赤ん坊が感情を表現する行動、笑ったり泣いたりするのは一体どんな瞬間でしょうか」
私は少し考える時間を空けて彼女の想像力を働かせる。彼女はまだ若く子育ての経験はなさそうだが、ある程度私が頭に浮かべているのと同じシーンを想像してくれるだろう。彼女は視線を一度下げ在りし日の記憶を想像する。そして彼女の出した答えは
「笑うのはやはり遊んだりお母さんに抱かれている瞬間でしょうか。また泣くのはお腹がすいている時とか転んだ時、だと思います」
「ありがとうございます。その通りで、赤ん坊がそうした行動をとるのはそういした状況に置かれた時ですね。そして、それらの状況にはある共通点が存在します。なんだと思いますか?」
「共通点ですか?えっと・・・あっ、親の存在でしょうか」
私は彼女の想像力にえらく感心した。
「その通りです。素晴らしい想像力ですね」
「え、そうですか・・・?ありがとうございます」
私は素直に彼女のことを誉めたつもりだったが、本人としては少しばかり恥ずかしいようで下を向いてしまった。
「話を戻して、赤ん坊は親の言動を受けたとき、そして、お腹が空いて母親の母乳を求めるときなどにそうした表現行動をとりますね。ではここで、その時赤ん坊の内面に私たちが普段感じているような感情というものは同じように存在するのでしょうか?」
「それは、やはり楽しいから笑うのでしょうし、嬉しくないから泣くんじゃないでしょうか・・・」
彼女の返答が弱くなってきた。ここから一気に叩き込んでいく。
「では、入見琵さん。あなたは目の前によく知らない人がいて、その人が自分に笑いかけてきたとき、あなたも笑いますか?」
「え?それは知らない人が笑いかけてきたら寧ろ怪しいと思いますね」
「それでは、お腹が空いたときには、大声で泣きますか?」
「お腹が空いたなら自分でご飯を用意しますよ。そんな泣いたりなんか・・・」
彼女は何かに気付いたように口を開けたまま空中に意識を漂わせる。やはり彼女の想像力は大したものだ。私だってこんな話を聞かされて理解するのにどれだけ時間がかかることか。きっと硫花に話せばうちに来いと迫るだろう。
「もしかして、赤ん坊が笑ったり泣いたりするのって・・・」
彼女の言葉を押し出すように私は言葉ではなく表情で語り掛ける。「あなたの言葉で教えてください」と。
「楽しかったり悲しいからじゃなくて、親の真似をしたり親を呼ぶための動作だった、ということなんですか?」
「あくまで仮説ですが、そのように考えられていますね。もし悲しくて泣いているとするなら、生まれたばかりの赤ん坊はみんな生まれたことが悲しいってことになりますからね」
これに関しては人生を悲観する意味で聞くことが多いが、実際は肺呼吸を促すためと考えられている。
彼女はまだ信じられないという顔をしている。それもそうだろう。自分の内面の根源を否定されたように感じるのも無理はない。しかし、ここで終わらせては治療にまで踏み込めない。私はなんとか彼女の意識をさらに飛躍させる。
「入見琵さん、大丈夫ですか?」
「は、はい。大丈夫です。いや、なんだか私たちの感情って何だろうかわからなくなってきてしまって」
「そういうものです、感情とは。入見琵さんが先ほど仰ったように赤ん坊はただ必要に応じて表現行動を取っているだけかもしれません。しかし、必要ということはそれによって得るものがあるということ、それこそが感情の原石なのです」
「感情の原石?」
「そうです。例えば、人間の体内では幸せを感じるときに生じるホルモン、つまり幸せを感じさせるホルモンとしてドーパミン、セロトニン、オキシトシンという三つのホルモンが存在します。またノルアドレナリンという興奮とは真逆の作用をもたらすホルモンは悲しいと感じる瞬間に分泌されます」
少々専門的な話になってきたので、一度間をおいて分かりやすい説明を考える。
「簡単にまとめると、赤ん坊は両親の笑った顔を真似て口角を上げた瞬間やお腹が空いてそれが満たされた瞬間に体内で起こる変化を認知します。しかし、この時点ではただ気分が良くなったり悪くなったりしているだけで、それが自分の感情であるという認識にまでは及びません。ここまではよろしいですか?」
「は、はい。何となくではありますがわかる気がします」
「この段階でついてこれるというのは十分素晴らしいですよ」
彼女を励ましつつ更に話を進めていく。
「そこで言葉が登場することで、私たちはよりその内面の変化を捉え易くなるのです。これまで何となく気持ちがいいと思っていた行為に『嬉しい』や『楽しい』という言葉が付くことで別の感情として区分されていきます。それは気分が悪くなった時も同様で、そこに『嫌い』や『怖い』という言葉が付くことで心臓がドキドキしていても違った感じ方をするようになります」
「言われてみれば、遊んで楽しいと感じる時とプレゼントを貰って嬉しいと感じる時とではなんだか違う気がします。それもやっぱり言葉による影響が大きいんでしょうか?」
「絶対にそうだとは言い切れないでしょう。ただ人間は言葉を細分化してきた生き物なのでその影響が大きいことは間違いないでしょう」
「でも・・・」
彼女の気持ちは一瞬盛り上がりかけたように見えたが再び下を向いてしまった。まだ彼女の心を掴むまではもう少し核心に迫る必要がある。
私はただ彼女の次の言葉を待つ。彼女の思いを言葉にしてと表情で語り掛ける。
「でも私は、やっぱり言語で表現された感情に縛られるのは嫌なんです。この状態を知ってしまった今ではもう、昔のようにはなりたくないんです」
そうだ。それが彼女の本音。一番の核心部分だ。ここに語り掛けていく。
「言語感情にはもう戻りたくないんですね」
「えぇ、だってそんな言葉で表現できる感情なんて、まるでコンピューターに言葉の意味を覚えさせて喋らせているみたいで。ホントに人間なのかなって気がするんです」
「確かにコンピューターに覚えさせることで感情に似た何かを生み出すことはできるかも知れませんね。実際にそうした人工知能の研究というのは世界各地で今も行われていることですから」
「えぇ、そんな機械と私たち人間の差って何ですか?近い未来には人間と同じように感情を持った機械が生まれるなんて言いますけど、私からしたら周りにいる全員がその機械に見えてしまうんです」
思わぬところから彼女の感じる世界への手がかりが手に入った。彼女は自分の内面の変化を受け入れつつ、周りに対する畏怖を強めていたのだ。そのまま放置していればまともな生活を送るのにも苦労することになるだろう。私はその解決への足掛かりになればと話を進める。
「人間と機械。たとえ同じ言葉で感情を認識したとしてもそこには越えられない差があると私は思います」
「それってなんですか?」
「それは内側に生まれる小さな変化があるかないか、だと思います」
彼女はキョトンとした表情を浮かべる。
「それって、ただホルモンによって変化があるかどうかの違いってことですか?」
「そうでもありますが、それだけではありません。私たちは確かに言語によって感情をある意味制限しているのかもしれません。しかし、それは言語を一定の形にはめ込む型として考えるからです。言語とは本来イメージしやすくするための大まかな枠にすぎないのです」
「感情は言語によって制限されたりしないってことですか?」
「そうです。私たちはあくまで表現の効率化を図るために言語によるイメージを頭の中に埋め込んでいますが、それは機械に言葉の意味を覚えさせるのとはまた違うと思います」
彼女の表情に少しだけ光が見えてきた。ここが勝負だ。負ければ彼女は他人どころか自分自身の心さえも疑ってしまうかもしれない。それだけは避けなくてはいけない。
「例えば、和歌で考えてみましょう。和歌が何かはご存知ですか?」
「昔でいう
「そうです。私たちはその和歌を通して今も昔も人は変わらず恋をして愛を育んできたのだと感じますね。それは言語によって、恋という感情を自分たちにも理解できる形に落とし込んでいるからです。同じ『恋』という言葉で表現される感情でも時代が変われば違いも生まれるでしょう。それは私たちが言語という道具を生み出す以前にも言えることです。では、なぜ私たちは今も恋をして、愛を育むことができているのか。それは記憶によって感情を長い歴史の中でつなぎ続けてきたからです」
「記憶ですか?」
「はい、少々脱線しますが感情と記憶、そして言語には切っても切り離せない関係があります。少し時間を置きましょうか」
私は彼女の理解を促すためにも少し休憩を持ち掛けたが、彼女は「続けて下さい」と寧ろ乗る気のようだった。
「分かりました。では、人間が生まれてからここまでの長い歴史の中で、私たちの感じているこの感情を後世まで伝え続けるには何が必要になるでしょうか?」
「自分の子孫にその感情を伝え続けてもらうことでしょうか」
「そうです。それこそ赤ん坊に笑いかけ自分と同じ状態に持っていくことで人はこの感情というものを残すことができます。ですが、人間社会が進化しその他者との関係がより複雑になればなるほど感情もまた複雑になってきます。ちょうど『好き』と『恋」とでは同じ好意的な感情でも違いがあるように。そうなってくると体の中で生じる漠然とした変化を伝え続けるのは難しくなってきます。そこで言語が登場する訳です」
「その小さな変化を言語という大きな変化に置き換えることで伝え易くしたのですね」
「その通り。そうすることで複雑化した感情は後世までこうして残り続けた訳です。そういう意味で機械に言葉とその意味を教えるという行為は歴史の年表を見せることと同じことなのです。その核心までは到底手が届きようがありません」
「そうなのですね」
彼女の表情に安堵が生まれる。とても長い道のりを経てようやく一つの峠を越えることができたようだ。だが、もうひとひねり加えて治療に取り組めるようにする必要がある。彼女の人間の言語感情に対する疑念は薄れたかもしれないが、まだ他者とのコミュニケーションの重要性を理解していない可能性がある。最後にその可能性を潰しにかかる。
「そのようにして感情は記憶という
「え?旅ですか?」
「そうです。感情は今も変化を続けています。それは長い歴史の中でほんの一瞬を生きる私たちからすれば小さな変化かも知れませんが、確かな変化です。船が海を航海するのに必要なのは何でしょうか?」
「えっと、風でしょうか?」
「そう、風が吹かなければ船は進みはしませんね。人力という手もなくはありませんが、それではここまでの進歩はなかったかもしれません。では、人間の感情における風とは一体何でしょう。常に存在し、時に大きく荒れ船を傷つけ、時に大きく前進させるものとは一体何でしょうか」
「舟を進めるのに、つまり感情を変化させ続けるもの・・・」
ここはあえて時間をおいてより深く考えて貰おう。彼女にはその気づきを得てもらいたい。
しばらく考え続けたところで突然ビクッと体を震わせて彼女は驚いた表情で私を見据える。どうやら気づきを得られたようだ。私はゴールテープを切らせるように彼女の次の言葉を促した。
「感情を変化させ続けるもの、それは・・・」
「会話。コミュニケーションですね」
「そう、まさに今私たちがしている行為です」
その瞬間、彼女はまるで糸が切れたようにソファーに倒れ込むと大きく息を吐き出した。ここまで大変な労力を強いてしまった。私とて例外ではない。今すぐにでも甘いもので腹を満たしたい気分だ。
「入見琵さん、ここまでよくついてきて下さいました。本当にお疲れ様でした」
私は最後に残った力で彼女に声を掛ける。
「いえ、こちらこそとても面白いお話が聞けました。根熊先生はお話がお上手ですね」
「そうでしたか?少しでも楽しんでいただけたのなら幸いです」
彼女はほんの少しの休憩でもう喋る気力が回復したようにそれからどんどんと喋り続けた。
「私、ずっと周りにいる人たちがみんな機械みたいに見えてしまって、少し前の自分も同じ機械なんじゃないかってずっと不安だったんです。でも、もうそんなことないって思えます。みんなも私も機械なんかじゃないって信じられます。根熊先生、本当にありがとうございました」
そう言って頭を下げる彼女がそのままここに来なくなるんじゃないかと思い、
「まだ治療は始まったばかりですよ」
と言うと「そうでした」と柔らかな笑みを浮かべた。
こうして彼女の治療は本格的にスタートした。
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