第二章 はじまり
第1話 喜び
『クライエントが到着しました。ご準備ください』
目の前で仲良く並んでいたクマのうち手前の緑色のぬいぐるみからそのような通知が届く。その直後に部屋の扉がゆっくりと開いたので驚いた。
「
「いえいえ、こちらこそお出迎えの一つもできず申し訳ありません。道には迷われませんでしたか?」
「えぇ、研究員の方が案内してくださったので。私一人だったら迷ってしまっていたでしょう」
まだ少し緊張した硬い笑顔を見せる彼女。丁寧な物腰に、模範的な言葉づかい。ほぼ初対面である私からすれば彼女は今でも十分に魅力的な人間に見える。これが本当に異常をきたした人間の言葉だろうか。私は事前に彼女の両親から聞いた過去の入見琵さんの様子を想像した。
『言葉遣いが丁寧になったんですか?』
『はい。娘はどちらかと言えば活発な方で、あんなおしとやかな感じではなかったんです。私たちには向ける言葉もどこかよそよそしくて。昔から付き合いのあるお友達とも距離ができているようで、それで心配になって受診してみたら・・・まさか、うちの子がそんな状態になっていたなんて』
『ご両親がその変化に気付かれたのはいつ頃ですか?』
『昔は口喧嘩ばかりしていたんだが、一年くらい前からめっきりそういうことが無くなって。その時はあまり気にしていなかったんだが、段々と不安になってきてな。まるで別人にでもなったみたいに変わっちまったんだ」
一年ほど前に突然言葉遣いが変化して、性格や人付き合いまで変化した入見琵さん。それは間違いなく言語による影響が大きいだろう。しかし、なぜそんな変化が起きたのか。気になることは多いがそれは硫花たち研究班の役目だ。そこを踏み越えてしまっては今後まともに治療を行うことはできないだろう。
治療者としての立場をわきまえるよう、ボードに記入しておく。
「立っているのもなんですからどうぞお座りください」
「ありがとうございます。それでは失礼します」
彼女が座ったのを確認してから私もゆっくりと席に着く。ここに置かれてからあまり使われてはなさそうなほぼ新品のソファーは私の体重を受けて、キュウっと嬉しそうに声を上げる。
彼女ははじめて訪れる部屋に興味を示すように周りに視線を動かしている。その視線が机の上に置かれたぬいぐるみを見た時はじめて止まったので、そこから会話を始めることにした。
「入見琵さんはぬいぐるみがお好きですか?」
気を取られていたのか、少し驚いた表情を浮かべてから「えぇ、それなりに」と簡単な返事をした。
まだ壁を感じるがそれはどんな人間が相手でも同じことだ。まずはこちらが壁をなくすことで相手の壁も少しずつ薄めていく。壁のある相手の言葉からは強く否定的な印象を受けるため、治療者とクライエントとの間に壁を残したまま治療を行うと更に症状が悪化すること場合がある。そのためこうした配慮も欠かせない。
「私もあまり意識したことはありませんでしたが、こうしてぬいぐるみが置いてあるだけで部屋の印象って変わるものなんですね。これを機に部屋にぬいぐるみを置いてみようかと検討しているところです」
「根熊先生がぬいぐるみですか?」
「えぇ、アナゴあたりなんかがいいんじゃないかなと思ってましてね」
「あ、アナゴ!?」
彼女はここに来てはじめて感情を変化させた。はじめは驚いた表情だったが段々と笑みを浮かべるようになった。私の部屋の中にアナゴのぬいぐるみがポツンと置かれている様子がおかしかったのだろう。そういわれてみると確かにおかしい。
私もつられるように笑みをこぼした。不思議と意識することもなく。
「いや、すいません。話がそれてしまいましたね。ここからはちゃんと治療の工程などについて改めてご説明をします」
彼女も表情を改め
「はい。お願いします」
と答えた。
「今回の治療は入見琵さんの症例の特殊性とご要望にお応えするため、過去の入見琵さんの言動をもとに上書きしていきます。その際入見琵さんが今感じている感覚を覚えさせるためにも、上書きと記憶の工程を交互に行いつつ最終的にはご自身の意志で感覚を変更できるよう訓練していく予定です」
「はい」
「ただ、このような治療はまだ確立したものではないため時間がかかることが予想されます。何卒ご理解ご協力をお願いします」
頭を下げてからこれではせっかく薄れかけた壁がまたできてしまうのではと思い顔を上げると、彼女は優し気に微笑むと
「それじゃあ、また一つお願いしてもよろしいでしょうか」
と口にした。
私が何がいいのかと口にするよりも先に彼女のほうから提案があった。
「私の治療の合間で構いませんので、言語の力について教えて欲しいのです」
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