第6話 餌穀 登勢芽 (えさご とせめ)

 きっかり一週間後に硫花りゅうかから研究棟へ来いと連絡を受けた。 

 滋賀付璃しがふりさんたちはこの一週間の間、十二分に決断し覚悟を決めたようだ。それが果たしてどちらの選択を選んだのかがこれから分かる。私ははやる気持ちを押さえて研究棟へと向かった。

 硫花に案内された時の道順を思い出しつつ、あの会議室へとたどり着いた。しかし、それまでに誰かとすれ違うことも誰かの声を感じることもなかった。人の気配がなさ過ぎて不気味なくらいだ。私は人の気配を求めて急いで扉を開けて中に入った。どうやら私以外はそのほとんどが揃っているようだった。ただ一人硫花の姿だけが部屋の何処にも見当たらなかった。

 私がクライエントと研究員との中間辺りの席についても、依然として場の空気は止まったままだった。恐らく硫花が来るのを待っているのだろう。

 入見琵にゅみびさんたちは互いに小声で何か喋っていたが、この位置からではその文字も小さすぎて内容を窺い知ることはできなかった。だが、両親に声をかけるその表情からは自身の決断に対する揺るがぬ自信と勇気が感じられた。

 続いて研究員たちの方へ視線を向けると


 「硫花なら今所長室だ。安心しろ、そのうち来る」


 と釧告くしつぐ研究長から硫花の居場所を教えられた。何かあったのかと質問すると「あいつのことが心配なのか?」とこちらをいやらしく探るような顔を向けられ顔が熱くなった。


 「心配しなくてもあいつは所長程度にくだるような玉じゃねよ」


 その表情は研究者としての彼女をよく知るからこその賛美だった。彼らには彼らの信頼関係があることを実感した。

 私の知っている彼女はその一側面に過ぎず、そして彼らでも認知していない側面があるのだろう。私の意識はその片鱗へんりんを見た先週に巻き戻された。あの時彼女の見せた表情と台詞には一体どんな思いがあったのだろう。


 『研究者には人の心がないと思ったか?』


 それは共に研究を行う仲間を思っての言葉なのか。それとも、研究者である彼女自身のことを言っていたのか。

 その時会議室の扉を開いて硫花が入ってきた。


 「いや、すまない。所長の奴、話が長くてな」


 この距離からでもわかるくらい大きな声を出して近づく彼女からは、あの瞬間が嘘だったように見えて仕方がない。仲間の研究員たちからすればいつも通りの硫花なのだろう。私の横につき早速話を進めるその姿も、これまで通りといえばそう見えた。私は漠然とした不安を抱えつつも今は胸の奥深くにしまい込んで、目の前の現実に意識を集中させた。





 「私は硫花さんが提案してくださった案の通り。今の自分をなくさずに生きる道を選びます。お父さんとお母さんも私の意思を尊重してくれています。みなさん、よろしくお願いします」


 入見琵さんに続いて、ご両親も「よろしくお願いします」と頭を下げた。それは私にも彼女の人生を背負う責任が課されることを意味していた。


 「それでは治療が決定いたしましたので、続いて契約書の作成に移ります。皆様お手数ですが、一般治療の病棟までご移動願えますか」

 「あぁ、分かりました。でもちょっといいですか・・・


 研究員のうちの一人が硫花に代わって滋賀付璃親子の案内をしようと立ち上がったとき、彼女の父親がそれを遮った。だが、その声からは前回のような怒りや不安は感じられなかった。辛く大変なことだが、この一週間の間にご両親も覚悟を決めたようだ。父親は母親と共にこちらに近づくと


 「硫花先生、根熊先生。うちの娘がお世話になります。どうか・・・、どうか娘が好きなように生きられるようにしてやってください。お願いします」


 深々と頭を下げ、懇願した。


 「い、いやそれはもちろんです。私も全力を尽くしますので、どうかお顔を上げてください」


 突然のことに私は彼らを安心させる言葉の一つもかけることができなかった。その現状にこんな自分で本当に彼らを納得させることができるのか不安が胸に積もる。

 つられて頭を下げかけた時。硫花が肩に手を置き、自分にだけ聞こえるくらいの小声で


 「勘違いするな。お前の仕事はあの子を治療することだ。こんなこともできないなんて落ち込んでるようなら、降ろすぞ。いいな?」


と喝を入れると、今度は頭を下げ続ける二人に向き直り、私に向けたのとは違う優しい声で話しかけた。


 「お二人とも、どうか顔を上げてください」


 その声が硫花のものだと遅れて気づいた二人は驚きのあまり頭を持ち上げた。


 「お二人には本当につらいご決断をさせてしまい申し訳ありませんでした。娘さんを思うお二人の思いはしかと受け取りました。入見琵さんの治療はもちろんのこと、その過程を通して得た記録をもとに研究を進め、彼女の思いを形にすることをお約束します。お二人のご英断に感謝します」


 目の前で話す硫花の姿に私は目が離せなかった。

 そんな私の横に釧告研究長がやって来ると自慢気じまんげ


 「どうだ。うちの上司は大したもんだろ?」


 と耳打ちした。


 「上司!?え、あなたがではなくて?」

 「あぁ、あいつはそんな役職にはまるのは嫌いみたいでな。俺は本来二番手よ」


 彼女という存在を掴むことは誰にもできないのかもしれない。全くもって得体の知れない女性だ。そんな彼女に説き伏せられて二人は娘とともに会議室を後にした。再びここでまみえる時、それは治療が無事終了した時であることを願っている。





 「お疲れ様でした」

 「いや、娘に選ばせてやれといった手前、こちらも誠心誠意向き合うべきだと思ってやっただけだ。それよりも、お前な!」


 硫花はこちらを睨み付けると一気に詰め寄って「治療者としての誇りは無いのか!?」「そんな顔してこれまでもこれからも患者の相手をしていくつもりか!」とまくし立てた。

 しかし、彼女の言う通りだ。私は不安に怯えながらも必死に娘の将来を思って、我々にすがった二人を十分に受け止めることが出来なかった。形だけでも安心させることはできたかもしれなかった。せめて言葉だけでも。

 私は感情の蓋をきつく閉めた。


 「すまなかった。今回はいつも通りにはいかないことを理解していなかった」

 「まぁ、いい。まだ治療はこれからだからな。ここからは私たちとお前とで仕事も別々だ。しっかりやってくれると期待しているよ」


 彼女はそのまま研究長とともに部屋の出口へと足を進めていく。その手前で思い出したように


 「そうだ。誰か根熊に治療室を案内してやってくれないか?道案内だけでいいぞ」


 と他の研究員に私の道案内という仕事を頼んでから出ていった。

 しかし研究者という生き物は一度思考を始めると例え上司の命令ですら無視できてしまうものなのか、会議室に残っている研究員のほとんどが話し合うなり仮説を記入するなどして頼めそうな人はいなかった。

 仕方なく一人でその部屋を探そうと部屋を出ようとした所で


 「あの、よければご案内します」

 

 と声がかかった。

 餌穀登勢芽えさごとせめは肩まで伸びた黒髪に眼鏡とまるで文学少女を彷彿とさせる女性だった。見た目も若く硫花よりも若干年下かもしれない。そんな彼女は治療室に至るまでの道のりで何度も私と硫花との関係について質問してきた。その理由について尋ねると、日頃から硫花が私の名前を口にするので私たちの関係について興味がわいたのだという。


 「ホントに何もないんですか?」


 そのきらきらとした目はきっと私たちが密かに恋人関係になっていた的な話を期待してのことだろうが、生憎私と彼女の間にそうした展開は期待できないだろう。


 「君が期待しているようなことは何一つないよ。さっきだってこっぴどく𠮟られてしまったくらいだしね」

 「うーん。でも硫花さんも信頼しているからこそそうやって言ってくれたんじゃないですかね?あの人期待してない人はすぐ切っちゃうみたいで怖いらしいですよ」

 「そう・・・だろうね。私もあんなに感情的になった彼女は初めて見たけど、あれは怒らせたら怖いね。しっかり仕事しなくちゃなぁ」

 

 私が言い終わった所で、私の仕事場となる治療室に到着した。

 治療室の中はものをできるだけ無くして開放感を追求した間取りになっていた。あるものといえば部屋の中心に向かい合う形で配置されたソファーが二脚とテーブル、壁際に移動式ホワイトボードが一台ぐらいだった。机の向こう側には窓が備え付けられているが、見えるのはだだっ広い駐車場ばかりでブラインドは下げたままでよさそうだった。

 その机の上には青色と緑色のクマのぬいぐるみが綺麗に飾られていた。

 その配色になぜか既視感を覚えた。

 

 「ぬいぐるみ好きなんですか?」

 

 登勢芽が横からこちらの顔を覗き込んでくる。その顔にははっきりと「可愛いところありますね」と浮かんでいた。


 「いや、このぬいぐるみどこかで見たことがあるような気がしてね」

 「あぁ、それはたぶん所長室の配色ですね。うちの所長変なこだわりがあってわざわざあの配色に変えたんですよ。おかしいですよねぇ~」


 そういえば初めてここに訪れた時に所長室の内装には驚かされた。あの青色の絨毯と緑色の棚は所長自ら選んだものだったのか。


 「所長のこだわりっていうのはどんな?」

 「所長曰く、青色と緑色にはそれぞれ集中力を高める効果とリラックス効果があるみたいで、それを期待してあの配色にしたとか。それでわざわざこんなところにぬいぐるみ置いたりしてるんですよ?やり過ぎですよね。それに青と緑は音がいいとか」

 「音がいい?」

 「母音にしてみると、青と緑には母音の流れがあるのに対して、赤は母音が重なって窮屈に感じるんですって。さっすが、ここの所長するだけありますよ」


 確かに色を言葉にして見つめるというのはなかなか珍しい考え方だ。理解はできないがある意味ですごい人だと思う。配色について言及したらうるさくなりそうなので今後あの人の前ではそういう話はしないことにした。

 場所の把握も済んだ所で部屋を後にすることにする。

 ここが新たな治療の場。

 その事実を受け、私の体に熱が回るのを感じ始めた。

 必ず治療を成功させよう。

 目の前のボードにそう書きこんだ。

 その変化は目に見えないところで起きていた。

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