第5話 模偽 釧告 (もにせ くしつぐ)

 彼らが退出した会議室内では早速、議論の幕が出来上がっていた。次々と発現されていく研究員たちの言葉が大きな一塊の雲のように、上へ上へと押し上げられる様を見てふと「これが本当の幕が上がる」などと下らないことを想像していると自然と顔が少しほころんだ。


 「おい、ぼーっとしてないでこっちに来・・・い。お前なににやけてるんだ。患者に惚れてる場合か、下らない」


 横から私の顔を覗き込んだ硫花りゅうかは、私が入見琵にゅみびさんのことを思っていると勘違いして断裁してきた。

 私は汚名をぬぐおうと口を開きかけたが、「下らない妄想の下らない釈明はいらん。いいからついてこい」と先手を打たれてしまった。彼女の後を追いつつ私はこれまで以上に自然感情の発露を制限するようボードに書き込んだ。

 自然感情に任せておくと何が起きるか分からないから気が抜けない。

 硫花は先ほど釧告くしつぐと呼んでいた男性研究員のもとへと連れてこさせた。彼はほかの研究員と議論に花を咲かすことなく、遠目からその様子を眺めていた。私たちの接近に気付くと体をこちらに向けて回転させた。近くで見るとその見た目はしわがれた声に加えて、頭頂部の薄れ具合から見ても40代後半くらいだろう。恐らくここの研究員の中では一番年上だ。つまりは研究員のうちでも最高の決定権を持っているといっても過言ではないだろう。実際先ほど入見琵さんを説得する時に唯一発現が許されていたのも彼だった。それならばそんな彼を差し置いて勝手に話を進めた硫花は一体どれほどの権力を有しているというのか。私の中で彼女に対して抱いていた印象は更に得体の知れないものになっていった。


 「こちらが私たち研究班の研究長である、模偽釧告もにせくしつぐだ。治療者であるお前と直接的に厄介になることはないとは思うが、共に働くもの同士、挨拶は重要だからな」

 「模偽だ。よろしく頼む」


 伸ばされた手には深くしわが刻まれており、皮膚が厚くなっているのか冷たく硬い手だった。


 「根熊粗修ねくまそしゅうです。この度はお世話になります」


 私の挨拶に感じるものがあったのか、彼はフッと軽く笑ってみせた。それにつられるように硫花までもが笑い出したので、私はまた彼女のいたずらか何かと疑いの視線を向けた。


 「いや、すまんね。硫花から聞かされていた通り、礼儀を絵に描いたような男だと思ってな」

 「はぁ、そうですか」


 褒められているのか、ネタにされているのか。相変わらず硫花の私に対する扱いは酷いものだった。


 「失礼なことはできないな。なんたって我々の方が君の世話になるのだから」

 「え、どういうことでしょうか?」

 「なに難しいことはない。ただ治療を通して彼女の感じている世界について掘り下げていって欲しいと思ってな」


 それはやはり彼女のことを研究対象として見るということだろうか。ここでも彼らと自分との間に踏み越えれない境界があるのを感じた。


 「まぁ、あんたはあくまで治療者だからな、無理にとは言わん。だがな、これも後世のためと思ってくれ。そうすれば、少しはハードルも下がるか?」

 「治療者としての本分にのっとったうえでなら、多少はご協力できるかと思いますが、あまり期待しない方がよろしいかと思います」


 私は治療者としての意志を誇示するように、そして自分自身に言い聞かせるように言った。私には治療者として彼女に向き合う義務がある。それを忘れてはならない。


 「大変真面目で結構。気になったことがあれば硫花でも他の研究員でも誰でもいいから伝えてくれ。我々にとってはどんな小さな情報でも宝の山だからな」


 そう彼は言い残すと、後ろを振り返り研究員たちに退出するよう声を掛けていった。仲間に声を掛けに行く彼は周りから慕われているようだったが、それでも彼は研究者であり、私とは見方も全く違うのだと感じずにはいられなかった。


 「さて、私も研究室の方に戻るとするよ。お前は自分の部署に戻って普段の仕事に戻っていいぞ。クライエントから連絡があればまた呼ぶから、それまでに片づけれるものは片づけておけよ」


 ぞろぞろと会議室を後にする仲間の後を追うように硫花も出口へ歩を進めながら今後の予定を説明した。私は適当に返事をしながら一人になるのを待っていた。


 「なぁ、根熊」


 声のした方を見ると出口の前で一人立ち止まった硫花がこちらに視線を向けていた。彼女の顔はいつもの飄々とした雰囲気が消え去り、どこか悲し気だった。


 「お前は、私たち研究者には人の心なんて無いと思ったか?」

 「え?」

 「いや、何でもないんだ。それじゃ、ちゃんと仕事を片付けておくんだぞ」


 私が答えるよりも先に、硫花は振り返って急いで出て行ってしまった。普段は決して見せない悲し気な表情に私は


 「あなたを心無いと思ったことだけはないです」


 と口からこぼしていた。

 私は最後に部屋の扉を閉めて自分の部署へ戻り始めた。

 少し急いだためか、心臓の音がいつまでもうるさかった。

 

 

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