第3話 塗石 奈瀬戸 (ぬりいし なせと)
『
ここは言語によって構成される人の内外の変化についての研究・医療分野への応用を目的とした機関であり、大学病院のように施設内には治療施設も併設している。
治療といっても外科手術のように体を切り裂くわけではない。私たちが行うのは
私たちは患者本人の言葉の不具合を見つけ、そこに修正を加える。ほんの少しの歪みが他者とのコミュニケーションの弊害になることや、視覚情報を正しく認知できないなどの問題の原因になることがある。こうした問題を抱えた人間は誰もが同じ感情の形を有し、相手の機嫌を損なわないことが求められる現代社会において適応が難しいため、精神的ショックを受けやすい。そこからさらに他者とのコミュニケーションに大きな
そこで私たちはそんな患者と一対一で対話をし、その歪みを修正していく。そうして内面が変化することでその人が本来持ち合わせていた行動を蘇らせる。
私たちはこの療法を「
一つひとつの要素を並べてみれば、何も大騒ぎするほどのことかと拍子抜けする。人の心を再構築するだのとおおげさに並べ立て、無駄に緊張を強いたことを責めると彼女はまたけらけらと笑うと「良かったな」と私に言った。並木道から降り注ぐ細かな光の粒子が彼女を包み込む。きっと見る人が見ればその美しさに目を奪われることだろう。しかし、彼女は草間山硫花なのだ。私は ーぎろりと目を光らせ(る)ー て、「何がですか」と質問した。
「こんな機会そう滅多にないぞ。しかもその患者と相まみえるとなればそれはお前の特権だ。良かったな研究者としての道を歩まなくて」
「そもそもどうして私がその治療者に選ばれたのですか?そんなに大きな計画なら治療者にももっと適任がいるでしょう」
私は同研究機関に併設された病院の治療者の一人でしかなかった。そんな自分がなぜ選ばれたのか。
「あぁ、それはだな。ちょうどお前が空いていたから、ってところかな。あとお前女性受けいいしな。私からも推薦しておいたんだぞ。感謝しろよな」
彼女はそれが誇らしいことであり私がそれを褒め称えることは自明の理であるかのように鼻から大きく息を吐き出した。まさに子どもだ。
私はそんな理由で自分を選考し、あげくこんな人の鶴の一声によって通ってしまったことを嘆き、憂さ晴らしにと ー見下す目付きで大きくため息を吐(く)ー いた。それから彼女は施設に到着するまでただ賛美を待ち続けていた。
国立心理言語研究機関の入場ゲートでカードをかざす。
「 言語治療師
カードから私の情報を読み取り、ゲート上部のランプが青く点滅する。私がそのまま自分の部署へ向かおうとすると後ろから
「おい、根熊!今日は私と一緒に来てもらうから、ちょっと待ってろ!っておい、なんだお前。毎度毎度、何度も言わせるな!私は草間山硫花だぞ!」
と叫び声が上がった。
後ろを振り返ると警備員に止められた彼女が、その肩越しに私を呼び止めようと必死になっている姿があった。これはよくあることだが、彼女はゲートを通りぬける際に見た目を変更するのをたびたび忘れる。面倒だとか言っているようだが、ようは天才と豪語する自分が入場のたびに、その見た目を戻さなくてはならないことに納得がいっていないのだろう。
渋々折れたようで、「ったく、毎度毎度面倒だ」と言いながら彼女は私たちに背を向けると、手元で手鏡ほどの大きさの何かを取り出しいじり始めた。傍目からみればメイク直しをする普通の女性にしか見えないだろう。ここからの様子は何度か目にしたことがあったが今でも現実のこととは思えない。入力が完了すると彼女の肩くらいまでしかなかった黒髪は、シークバーを指で進めたかのようにずんずんと腰あたりまで伸び、その色も灰を頭から被ったように頭皮に近いところから脱色していくのだ。最後に長い髪をひとまとめに結ぶ瞬間に見える横顔には、研究者然とした雰囲気が漂い子どもらしさはどこかへと消えてしまうのだ。
「これで文句ないな?粗修!ついて来い」
威圧的に警備員の横を通り抜ける硫花の代わりに、お疲れ様ですと軽く頭を下げてから彼女の後を追った。
「どちらへ向かわれているのですか?」
「私たちが普段研究を行っている棟だ。お前たちが患者の治療を行う棟よりは小さくなるが、それでも臨床用の部屋もいくつか設備していてな。今日からお前にはそこで治療者として患者を診てもらう。わかったか?」
私は昨日の時点で机に残されていた書類の数々はどうなるのだろうか。突然の異動のことを他の治療者たちには説明してあるのだろうか。
諸々の不安を感じながらも歩を進めていると
「お前、不安じゃないのか?」
彼女が訝しげにこちらを見つめてきた。
ー心臓は冷めたように単調なリズムを刻むー
ー肺から口筋までに入っている力を普段通りにー
「不安がないといえば噓になりますが、私は言語治療師です。場所は変われど、相手が変われど私は自身の役割を果たすまでです」
「ははっ、なんだそれ。まるで治療者の鑑だな」
彼女は不安をそぎ落とされたような笑みを浮かべて
「お前こそまさに感情を失くした人間みたいだな。もしそうなら私が治療を行ってやるぞ。私に従順な子犬みたいにしてやる」
と付け加えた。
彼女は間違いなく天才だろう。だからこそ、彼女の手にはかかりたくないなと思う。ほんの少し、足取りが重くなった気がする。
ー追従歩行ー
目指す建物はもう目の前だ。
後戻りはできない。
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