最終話 清掃のバイトへ
ふられぎれをはじめとした、女性の悪口は鉄板で受けて、なぜ外人の隣にいる日本人女性はあんなに道を歩くとき真っ直ぐを向いて颯爽と歩くのか。微妙に顎がしゃくれているのか。化粧が同じなのか。そういったことを語ると、家中真っ黒になる。こんなバカげた差別的な話題に、あわせて笑ってくれているだけなんだろうと思う。それは俺にとってありがたかった。
彼女の一部であったものがこびりついた黒く汚れたゴミは、大きなゴミ袋のなかに入れて、可燃ゴミとして廃棄する。
臭いが特にないことが、俺にとっては救いだった。よく嗅いでみると、人間の皮膚に近い臭いがするのが不気味だった。
お前、金庫の札束持ってくるくらいだから、実家が恵まれてたんじゃないか? と聞いた。
「あんたは覚えてないだろうけれど、私の家は金持ちだったよ。だからよくたかられたのよ。誰も助けてくれなかった。あなただけだよ、助けてくれたのは。ソレを本当にずっと覚えてて、いつかあんたのところにお礼に行こうと思ってた」
いくら持って逃げてきたんだ?
「五百万円」
そっか……でもそういう金もいつかは。
「なくなる。でも、なくなるのは怖くない」
その身体は、笑ったから小さくなっているのか。それとも、お金がなくなっていくから小さくなっているのか。
気が付けば、かたまりの身体は、乗用車のタイヤほどになっていた。
会話が終わり、掃除をし終えると、あいつの身体から十五万円ほど出てきた。
今日はよく話したからか? まるでホストだな。
「違う。ここの退去費用。たぶん、トータルでそんぐらいになると思う」
ぷるぷると震えるかたまりは、せっかく綺麗にした部屋をよごさないように、黒いものがでるのを必死に堪えているようだった。が、飛び散るものは飛び散るのだ。
ある日、そういえば、そんな子がいたかもしれない、と、俺はサイゼリヤで、辛口チキンと白ワインを飲みながら、思い出した。アルコールの海の底に沈んだものは、アルコールでできた潜水艦で拾い出すのだ。
高校時代の昼休み、体育館の裏の自転車置き場だ。トイレから出て、ものすごい音がしたから、のぞきに行った。数台の自転車が横倒しだった。男二人女二人の四人組がその子に絡んでいた。いじめられていたその子は、目が細くて、顎が長くて、美人とはいいがたい。華奢な身体で、見るからに喧嘩が弱そうだった。
気が付けば止めに入って、自転車弁償しろやとかいって、脅して下がらせたんだった。こいつに絡んだら、お前ら五〇〇万だからな。わかってんだろうなあ。
一人一〇〇万として、四〇〇万だろう。だが、俺はあまり人と喧嘩をしたことがなかったので、興奮して計算を間違えたのだ。
時が過ぎ、とうとうボウリング大になったかたまりに、そのことを思い出したと話すと、「微妙に違いすぎる」と言う。どこが違うのかというと、放課後であること、男一人女三人、それから私の目は細くない、顎も長くない、喧嘩は頑張れば強い、といったところだった。
俺は急速に小さくなりつつあるかたまりに、残り何万円なんだ? とは聞けなかった。
たぶん、残酷なことなんだろう。
俺はかたまりに、名前は? とも、聞けないでいた。あいつが俺の名前を聞かずに、「助けてくれた人」とだけ言うからだ。聞いてこないなら、俺は聞かない。
だが、俺は図書館で、行方不明の女性のデータを探しまくった。今頃になってだ。高校に問い合わせても不審者扱いされる。卒業アルバムは捨てていたし、片っ端から2年以上前のデータを調べまくる。が、出てこない。警察に届け出をしていないのか。人間の時ですら邪魔者だった娘が、黒い化け物になって家を出て行ったことで、親はせいせいしているだろうねと、かたまりは言っていた。新聞になければ、どうやって名前を知ればいい? 家の住所を聞いたって、かたまりは教えてくれそうになかった。それに教えられても、訪ねることはしないだろうと思う。したところで、どうにもならない。
「最近遅いね、夜」
ああ、図書館で勉強していた。
「いよいよ、近道するんだね。夢にむかって。図書館で勉強して。えらいよ。私も図書館とかに行って、もっと勉強していれば良かった……」
ないよ、別に。近道もないよ。もう追いつけないよ。あいつらに。会社の、あいつらに。別に悔しくない。悔しくない。
「そりゃそうだ。二度と来ない、二年間、汚物掃除にあけくれたんだから」
汚物じゃない。
「……汚物じゃなければなんなの」
わからない。ただ、お金をくれてありがとう……。それしかいえない。
やがて、かたまりは大きなゴマ豆腐くらいなった。俺は部屋中にビニールを張り巡らせる必要がなくなり、彼女のまわりに少しだけビニールを囲うように置くだけだった。
しゃべって、少しわらって、そうして身体がだんだんとなくなっていく。
大きな黒い山で、困った頃が懐かしかった。
意識はどうだ?
「はっきりしてる」
今は?
「はっきりしてる」
もうすぐ消えると思うか。
「思う。予感がする」
言い残したいことは。なにか、俺にできることはないか。
「ボランティア」
馬鹿野郎。
溶けきったかたまりは、最後に、一息つくようにどろりとひろがった。
俺はかつてかたまりだったそれに、手を突っ込んだ。
手ですくっても何もなかった。ただの、言葉と共に散らばっていた液体と同じになっていた。指の隙間から無機質にお前が落ちていく。
「本当に使い切りやがった……」
手のひらには小銭一つ残らなかった。
それから、数年かけて、彼女の住所を割り出したことがあった。対応してくれたのは母親だった。母親は、俺に日記まで見せてくれた。娘のことを悲しんでいるかはわからなかった。ただ、金庫の話は嘘で、彼女は母親に、育ててくれたお礼として五百万円をベッドの下に残して、死のうと思っていたという。その日記の一文を俺に見せながら、母親はさすがに「五百万円、残してくれたら良かったのに」とは言わなかった。俺も、あなた達の五百万円を使ったのは俺です、と言わなかった。それから、学生証も見せてもらって、俺とは高校が別だったとわかった。かたまりから出る空気中の彼女の一部が、俺の頭の中に入り込んだせいかもしれない。記憶が混ざってしまったのだ。あのかたまりが、彼女が、それを分かっていたかどうかは、分からない。
今も、彼女を喧嘩から救い出したエピソードに得意げになっている自分を思い出して、清掃のバイト中、笑ってしまうことがある。
五百万円 猿川西瓜 @cube3d
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