第2話 かたまりは小さくなる
俺は掃除の技術だけはあがり、近所のホームセンターでも顔を覚えられるくらいになった。夏に涼むために入り浸っていた公共施設で、掃除のおばちゃんのカートなんかを見ると、そのおばちゃんの臭いで、どれだけその人がプロフェッショナルかわかるようになった。強烈なカビ臭さを発するおばちゃんやフローラル臭がするのは素人。本物の掃除のおばちゃんは無臭だ。
知り合いになったピンクの服を着た掃除のおばちゃんは、この公共施設で飛び降り自殺があったことを一五〇回くらい話すのだった。飛び降りた後もまだ生きていてねえ。私と目があったのよ。そうですか、ははは、と俺は笑うのだった。地面にぶつかったとき、車がパンクするような音がしたという。人間もパンクするのだと知った。
ファミレスから家に帰る。かたまりは人がいないとしゃべらない。独り言がないので、床は綺麗なものだった。部屋履きとして長靴をはく。下の階に足音がうるさくないように気を使って歩いた。
俺の住まいは、よく見ると壁紙が薄墨色になってしまっていて、退去するときどれだけの費用を取られるか恐ろしいくらいだった。どうやらビニールについた汚れだけでなく、空気中にも微妙に黒いものが漂っているらしい。俺の肺は大丈夫なのだろうか。かたまりが持ち去った札束は相当な量らしく、汚した分は支払ってくれると言う。
ただ、問題は、このかたまりを怒らせたり、縁を切ったりすれば、金もなくなり、それから家賃も、いろんな支払いもぜんぶ俺の金で払わないといけないということだ。
今のところ、かたまりから支給される「かたまり掃除費用」が俺のバイト代だ。かたまりはあくまでお願いするほう。俺がされるほう。だが、一見主従関係のようには見えるが、よくよく考えると、俺はこのかたまりから逃れられないのではないか。いい加減、ちゃんとバイトをしたほうが良い……そう考えながら、幾月も経って「これでいいや」となるのだった。
もし、このかたまりの汚物掃除をやめてしまえば、俺はここを退去するとき、相当困ったことになるのは違いなかった。
俺はこのかたまりの汚物掃除をするために生まれたわけでもないし、この仕事をするために、いままで学校で勉強したわけでもない。なぜ、こんな日々が続いているんだろう。掃除が忙しいから、バイトやめて、このかたまりをどうしようか、異常な現象と向きあう日々に心の底からわくわくした時もあった。けれども、今では……。
いつか、いつか、自分がなんのために生きて、どこで働くかを決めるんだ……と言いつつ、もう二十七歳になった。かたまりを迎え入れて二年! もう二年か。二年間の思い出、なにかあったっけ。
「あったよ。覚えてないの? まず、ふられぎれ? あと、フリーゲーム実況にめっちゃはまった」
ふられぎれ。そうだそうだ。
俺は久々に笑った。ひひひ、と声が出たかもしれない。かたまりのほうは大笑いして、天井に黒いねっとりした液体が散らばった。ビニールの壁紙のわずかにたわんだところから、液体が入りこまないか心配だった。
ふられぎれ現象。これは、黒いかたまりがリビングに現れる超常現象よりも不思議なことだ。
サイゼリヤで出会ったバイトの子と、少しだけ良い感じの仲になった。俺は付き合いたかったが、家にかたまりがいるせいで断った。もうちょっとまってくれ、まってくれと言いながら、家に来させなかった。ある日、彼女から好意を寄せられる瞬間があった。告白に近い感じだ。俺はにこやかに、紳士的に、距離を置くようにして、断った。
その数日後、サイゼリヤに行って注文をすると、いつものなれなれしい調子はなくなり、冷たい口調になっていた。目もあわせないし、なぜこのレストランに来たの? という態度だ。バイトが終わるのを待って、一緒に帰ろうとすると、約二メートルほど距離をあけられながら帰り始める。とてつもない上の空の会話をする。返事すらまともにしない。飲みに誘うとか誘わないとかいうレベルではない。
え? なんで好意をふったら、友達以下になる?
断ったら、そこらへんのおじさんとか他人より下になる?
じゃあ、最初から好きにならないでくれよ! モテるモテない以前の問題だ!
俺はその現象を「ふられぎれ」と呼んでいた。
キャッチコピーは、友達以下にするくらいなら告白してくんな、だった。
「ぎゃはははは、おもしろいーおもしろいー」
タールのようなものがシャワーの様に部屋中に降り注ぐ。掃除のおばちゃんのように、俺はこの話をかたまりに一五〇回ほどしていた。かたまりは、何度も豪快に笑う。俺は笑ってくれていることが、嬉しかった。
それから、フリーゲーム実況の話だ。
これは、俺がかたまりの世話をしながら、午前中だけのアルバイトで、ある会社の書類整理やシュレッダー処分をしていた頃だ。単調な日々に退屈……というよりも、会社の隅にいる俺よりも若いか、同年代の人間が、一心不乱にパソコンと向きあって、プログラム、デザイン、プレゼンテーション資料作成、営業戦略、新企画を立ち上げようとしている。遥か高みにいる彼らを、うなり声をあげるシュレッダーのまえでただ呆然と座って、彼らの残りカスを処分する俺っていったい……となって、毎日意気消沈して帰るのだった。
帰宅後、インターネットで、フリーゲームの実況動画を見るのだった。ただ夢の中を女の子が徘徊するだけのオカルトゲームで、最後にその女の子は飛び降り自殺をしてしまうのだが、このゲームをいろんな実況主がプレイするところを見るのが、とてつもなく癒やしだった。
「なんであんなに癒やされたんだろうね。シンパシー? それとも」
たぶん、俺はあんな風にゲームを楽しみたかった。それを、俺の代わりに楽しんでくれている。今や、ゲームすら、自分で楽しめなくなった。楽しめる力も失ってしまって、人のプレイ動画を見てなんとか楽しむことで、生きている実感を得ている。
かたまりはしみじみと「そうだね」と言った。
あ、おまえ、昔ポケモンでみたベトベトンの口と目がないバージョンだ。
俺がそう言うと「黒いマルマインでいいじゃん。いや、ゲンガーかな。あ、手足がないか……」と笑うのだった。
しばらく沈黙がながれ「ガンツだ!」と同時に叫んだ。ビニール傘が吹き飛ぶほど黒い液体が出た。
少しずつ、ほんの少しずつだけれど、笑って楽しく過ごせば過ごすほど、黒いかたまりは小さくなっている気がした。
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