五百万円
猿川西瓜
第1話 黒いかたまりと俺
自分は、自分が望んだところに、なぜ向かわないのだろうか。
遠回りする欲望に、ちゃんと心理学者は名前をつけてほしい。
そう思わないか?
「あー、まぁそうですねー」
タールのようなものが壁に飛び散る。俺はレインコートとビニール傘や長靴で汚れが降りかかるのを防いだ。ダイニングは透明なビニールシートを張り巡らせてあるので壁紙が取り返しの付かないほど汚れてしまう心配はない。
俺は、郊外の格安賃貸アパートで、黒いかたまりと共に暮らしていた。
かたまりはダイニングテーブルがまるごと入るくらいの大きさで、ゴムで出来た球体の様だった。
こいつは外に出ることもせず、ずっと俺の家にいた。
「あれですよ。夢から遠回りしちゃうのって、わくわくを取っておきたいんですよね。憧れていた仕事。いざ就いてみると、想像と全然違う。田舎暮らしは、田舎暮らしの夢を語っている時が一番良いっていうあれ」
この黒いかたまりは、見た目通り、重い。蹴り上げようにも、ゴムを何十にも重ねた感触があって、固い。ボロいフローリングのダイニングの真ん中で岩のように居座って、言葉を発するとランダムに黒い液体を飛び散らかすのだ。液体は無味無臭で、火を点けても燃えない。こいつは、ぺちぺちとビンタしても痛がらない。痛覚はないようだ。お腹も空かない。ただ、喋ると部屋が汚れる。
一人暮らしの俺にとって、日課は、こいつの出す黒い汚れを掃除することだった。そろそろ二年が経とうとしていた。
ビニールを剥がし、新しいビニールに貼り直すと、黒いかたまりの中から数千円が支給される。支給方法は、コンビニとかのビニール袋をかたまりに乗せればいい。ビニール袋をたちまち吸い込んで、体の中にある紙幣を袋に入れて体内から吐き出すように返してくれる。紙幣は新札のように汚れていないものがあったり、使い物になるかぎりぎりの真っ黒なものもあったりする。かたまりの内部で、どんな保管の仕方をしているかまるで分からなかった。
「ほら、今日の取り分。いつもごめんね、よごしちゃって」
このかたまりと、長い対話を繰り返した。こいつはもともとは人間で、専門学校だか、短大だか、大学だか、とにかく高校以上のところを卒業して、働きもせずにだらだらしていたら、だんだんと身体が黒くなっていき、しまいにはかたまりになってしまったそうだ。親からは恐れられて軟禁状態だったらしいが、家にあった金庫から有り金うばって逃げてきた。身体がスライムのようになっていたので、金庫の隙間から入りこんで容易に鍵を開けて見せたことを何度か俺に語った。
で、俺の家になんで来ているかというと、高校時代に、いじめられていたこいつを、俺が助けたからだそうだ。その恩をずっと感じていて、黒いかたまりになった途端、今返しに行かないといつ返しに行くのか、と思ったらしい。いじめを助けた……ぼんやりと……どころかまったく覚えていない。記憶なんて、よほど印象深く良い思い出以外は、ほとんどアルコールの海の底に沈んでいってしまった。高校を卒業して社会人になって、いよいよアラサーをむかえる年齢になった時まで、俺はどれだけ酒を飲んだだろうか。
「酒はこわいねえ」
しゃべるたびに、部屋の真ん中のかたまりは黒い液体をフローリングの床や天井に飛び散らせる。俺はかたまりからもらった千円札を財布に入れて、ファミレスに向かった。秋の夜空は、驚くほど星が綺麗で、コートを着ると汗ばむが、シャツだけだと寒い。でも、掃除したあとの身体なので、多少暖まっていて平気だ。
そのファミレス……サイゼリヤはビールもワインもパスタも馬鹿みたいに安い、楽園のようなレストランだった。少々客がうるさいくらいで、音楽を聴いていれば何ともない。
家に帰ると、壁中まっくろ……というわけでもなく、かたまりは寝ていた。
こいつはどうやら女であるらしい。寝顔は、ない。会話の端々に、人間であったころ、女として生きていたことを臭わせるものがあった。服を買いに行った話題と、父親に脅迫されたり、風呂場を覗かれたりしたことを語っていた。
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