【番外編】ラストラブソング(前編)


「あたしたち、付き合うことになりましたぁ!」


 放課後の生徒会室にて、ドアが開くと同時に威勢のよい明るい声が響き、僕(生徒会長)は思わずコーヒーをこぼしてしまいそうになった。


「……今更分かりきったことを聞きますが、『あたしたち』というのは誰を指しているのかお訊ねしたいところですが」


 僕が嘆息と同時にそんなセリフをこぼすと、笑顔爛漫なジュリア(副生徒会長)の後ろには居心地悪そうにヤマモト君(書記)が呆然と立っていた。あー、なるほどね、なんて今更驚くことも納得することもない。この感慨を言葉にするならば、やっとまとまったのかという一言だ。

 怒涛の文化祭が先週の土曜日から二日間続き、月曜日と火曜日は代休だった。今日は水曜日で、文化祭が終わってから初めての学校だ。意外に早いなというのが僕の正直な感想だった。二人のことだからモタモタしているうちに僕たちが先に卒業してしまうかとも予想していたのだ。


「ジュリアさん……、いきなりそれはどうかと思いますけれど……」


 真っ赤な顔をしたヤマモト君はこれでもかというほど恐縮しまくっている。勘違いしないで欲しいけれど、僕は別にジュリアの父親でもないし、そんなに緊張することもないんだけどな。とヤマモト君に忠告したところで、きっと彼は耳も傾けないんだろう。そういう彼を僕はとても気に入っている。

 二人分のコーヒーを入れながら、まるで走馬灯のように、僕はジュリアのことを考えた。むかしむかしの出来事。僕はジュリアの幼馴染だ。



 そう言ってしまえば聞こえがいいけれど、そんなに単純なものでもなかった。


「久保ー」


 当時、僕と同じくらいの身長で、子供向けブランドのTシャツにチェック色のスカートを合わせ、頭にはベージュ色の小さなリボンを控えめにつけた幼い彼女が、大きな瞳を僕に向けた。


「久保ってばー、なんか今日は様子が変よー?」


 学校が終わった放課後、彼女は心配そうに横から僕の顔を覗き込んだ。僕の家のリビングよりも広い彼女の部屋の片隅のソファに座り、僕は考えをめぐらせる。


「……『ジュリア』なんてどうだろう」

「え、何?」


 彼女が不思議そうな顔をした。今まで用いたことがないような単語を聞いて、意表をつかれた顔だ。


「んーと、だからおまえの新しい名前。ジュリアなんて呼びやすそうだ。全然似合わないけれど」

「……新しい名前?」

「だっておまえ、嫌いだろ?」


 ソファの背に寄りかかったまま僕が言うと、隣に座っている彼女はしばらくの間、呆気にとられたような眼で僕を見つめた後、そのまま泣きそうな顔になった。


「……パパに怒られるわ」

「俺は怖くないよ」

「あたしは怖いよ。久保が嫌な思いをするなんて、絶対に許せない。パパを許せなくなるわ」


 そのまま涙を流す彼女の髪の毛に触れ、僕はそのまま抱きしめた。ほのかな花のような香りが鼻腔をくすぐり、もどかしい気持ちになった。


「許さなくていいよ、ジュリア」


 同じくらいの身長で、ジュリアの肩に顔を押し付けるようにして僕はつぶやいた。


「俺はおまえをそんな風にしたあの父親も、母親も、兄も、全部許さない。おまえが許しても、俺は一生忘れない」


 今までは僕たちは同じ学校に通っていたはずなのに、小学五年生の二学期になってから、彼女は学校にも行けなくなってしまった。その原因を僕はなんとなく知っていた。それを許せるはずがなかった。

 耳元でジュリアの嗚咽が聞こえて、僕は顔を上げた。急に不安が押し寄せて、思わず口を開いた。


「あ、もしかしたら違う名前のほうがよかったか!?」


 思わず間が抜けたことを聞いた僕に、ジュリアは涙を流しながらも思い切り首を横に振り、

「うれしい……」


 一言つぶやいた。



 いくら幼馴染で、親同士が同じ会社にいるからって、普通の小学五年生の男女がずっと二人きりの世界を形どっている景色は、周りから見て異常だったのだ。その後、ジュリアが学校に戻ってからも、からかわれることが増えた。ただでさえ僕たちがいつも二人で登下校しているその姿も目立っているのに、彼女は家が嫌いで、だから僕たちはいつも学校が開く時間から登校していた。窓の向こうのグランドには物好きな生徒が朝からサッカーを楽しんでいるが、僕たちはそんな目的もなく、ただ誰もいない朝の教室を楽しんでいた。それらの要素に加え、何よりジュリアが僕以外の人間と話せないことから、余計に僕たちが他の生徒からからかわれる要因は多々あった。だけど僕もジュリアもそんなくだらないことには動じなかった。

 僕はジュリアよりは社交的だったし、他にも友人はいたけれど、ジュリアと一緒にいるほうが心が休まった。僕が他のクラスメイトと他愛のない談笑をしていれば、ジュリアはいつだって一人だ。

 僕にはジュリアが、ジュリアには僕がいる。それだけでいいと思っていた。そう思いながら月日は流れ、中学一年生も終わる春、その事実は僕を震わせた。

 ジュリアの父親は思っていた以上の権力者で、ジュリアは想像以上に僕とは別の世界の人間だった。何故今までそれに気付かなかったのか、愚かな自分に僕は背筋が寒くなった。


「おはよー、久保」


 春休みが終わり、久しぶりの制服をきちんと着こなした彼女が、いつもと同じように僕のマンションの前に立っていた。その笑顔を見て、僕は苦しくなる。息が詰まりそうになりながら、それでも彼女の瞳を見つめた。


「ジュリア」


 静かに呼ぶと、彼女は何かが違うことを感じたのか、眉根をひそめて僕を見た。


「なに……?」

「俺……僕は……、態度を改めます」

「な、何よ突然……。そんな余所余所しい態度……」


 冗談みたいにジュリアは笑うけれど、僕には冗談でもなんでもなかった。僕は最低だ。涙が出そうになった。始業式だからと学ランのボタンを締めた身体が窮屈で、僕はちっぽけな人間で、思わず涙ぐんでしまった。


「ごめん、ジュリア。ごめんなさい」

「……あなたまで離れていくの?」


 きっと彼女も僕と同じ顔をしている。それでも僕にとってジュリアはかけがえのない女の子で、いつだって傍にいたいと思った。

 背後では仕事に急ぐ会社員や朝から爽やかに笑い声をあげる女子高生が、僕たちなんて最初から世界にいなかったかのように通り過ぎていく。僕たちは置き去りにされたようだ。そのほうがどんなによかっただろう。


「それでも俺は、傍にいる。ジュリアを守ります」

「だけどそれでは意味がないわ……」


 睫毛を伏せるようにしてつぶやいた後、ジュリアは僕を置いて早歩きで学校へ向かっていった。長く伸びた黒髪が風になびいている。本当にあの美しい人は、もう僕の世界の人ではなかった。それを見せ付けられた気がして、僕はしばらく動けなかった。



 一時は凍りつくかと思われた僕たちの仲だったが、意外なことにその後のジュリアは今までとは何も変わらず僕に接した。


「久保ー、喉が渇かない? 帰りにコンビニ行こうよ」

「添加物たっぷりのジュースを家に持ち込んで、叱られないんですか?」

「ちゃんと捨てて帰るってばー。それにあたし、高くて甘くもないジュースよりも、コンビニのジュースのほうが好きよ」


 鞄を持ちながら大きくあくびをして、僕たちは穏やかに帰路を辿る。たまには寄り道をしたり、ゲーセンに寄ったり、ごく普通の中学生が終わり、僕たちは同じ県立の高校に進学した。今度こそ彼女の父親は彼女に高校を用意していたのだが、彼女はそれすらも受け入れなかった。昔は父親を畏怖していた彼女も、どこかたくましくなり、自分の芯を持っていた。

 そしてやがて、僕たちは今までの関係性に機転を迎えることとなる。


「そこの爽やか少年、生徒会にキョーミはない?」


 高校に入学してから一ヶ月が経った頃、下駄箱で靴を履き替えているとき、頭に大きなお団子を作った童顔の女子が僕のほうを向いて言った。


「……僕に言っているんですか?」

「キミ以外に誰がいるのよ。今人が足りないの。書記と会計。よかったらどう?」

「どう……って、そういうのって公正で決めるものでは・・・」

「この学校では生徒会長だけが選挙で決められて、あとはその生徒会長に人選を委ねられるのよ。今年はわたしがこの権限を勝ち取ったの。つまりわたしが生徒会長」


 僕よりも年下に見えるその彼女は自信たっぷりと微笑んだ。


「予言しようかな」


 僕の目をまっすぐ見つめて、人差し指で僕を指し、彼女は言い切った。


「キミは一年後、わたしの後を継ぐ」


 その予言が当たることになるのはもっと後になるのだが、彼女の予言を助けるかのように僕は生徒会に入った。驚いたことにその数日後、ジュリアも生徒会に入った。僕の友人だからと生徒会長が気に入ったのだ。


「よろしくお願いします」


 初めての生徒会発表の挨拶、広い体育館の舞台の上でジュリアは凛とした表情で微笑みを見せた。今までも僕以外には猫を被ってきたジュリアだったが、ここまで完璧な仮面を見たことはなかった。これがジュリア様の伝説の元となるなんて当時の僕が想像する由もなかった。


「久保くんたちは付き合っているの?」


 生徒会に入って少し経ったある日、学校とは思えないような部屋の真ん中のソファで、書類に目を通しながら生徒会長がつぶやいた。偶然副生徒会長やジュリアがいないときだった。


「いえ……、よく勘違いされますけれど、そういうのはないです。幼馴染ですよ」

「ふぅん……」


 どこか腑に落ちないような顔をしながら、それでも特にコメントを残さないままうなずく。今日の彼女の髪型はツインテールで、余計に幼く見えた。美人系のジュリアとは全く違う人種だと思った。そして生徒会長としては立派である彼女だけど、それでも僕の世界の人と同じだと思えた。

 だけどそれは僕の間違いだった。

 生徒会の活動をしていくうちに僕は思い知ったのだ。今までいかにジュリアと二人だけの世界を築いていたのか。それは僕の大きな罪であり、責任だった。僕がジュリアの父親を責められるはずがない。

 僕はジュリアを守っていたのではない。ジュリアを更に世界から遠ざけてしまった。だけど僕がこうして気付いてしまったように、ジュリアも知ったはずだった。いや、もうずいぶん前から分かっていたのかもしれない。僕たち二人は世界のほんの一部で、世界はずっと広くて、僕たちはこんな場所で閉じこもって嘆いていただけだった。

 生徒会の仕事が長引いて、ジュリアと帰っている途中、どうしようもない気持ちが胸を押し上げてきて、僕は立ち止まった。


「久保ー?」


 僕だけには甘い声で話す彼女。彼女が学校で微笑むたびに僕の心が痛んだ。僕はジュリアにあんな仮面を被せたかったわけではない。別世界の人間にしたかったわけではない。対等に、ただ一人の人間として、尊重して、傍にいるだけでよかったのに。それすらも出来なかった。


「久保、どうしたのー?」


 初めて彼女をジュリアと呼んだ日と同じように、僕はジュリアを抱きしめた。あの時は身長差がなくて僕は彼女の細い肩に顔を押し付けていたけれど、今は彼女が小さくて、そうすることが出来なくなっていた。あれからの日々を思った。後戻りは出来なかった。


「どうして俺はこうなんだろう……」


 閑静な住宅街で、小さな明かりに灯されていることにも気付かず、僕は小さくつぶやいた。


「どうしてこうなってしまったんだろう……。ジュリア、僕はあなたを束縛したかったわけでもない。ただ幸せになって欲しかっただけなんです……」

「…………」


 ジュリアは黙ったまま僕の言葉を聞き、そして静かに僕の背中に手をまわしてトントンと叩いた。


「大丈夫よー、久保。あたしは今とても幸せよ」


 僕の腕の中でジュリアは言う。


「どんなことがあったって、あたしは久保の味方よ。何があってもあたしは久保を好きよ」


 それはとても優しい声で、僕から少し離れてからジュリアは今までにない表情を見せた。


「だから苦しまないでいいのよ。あたしは久保に会えて、とても幸せなんだから」


 はにかみながら言うジュリアを見て、今までの歩いてきた道が少しずつ歪んでいくのが分かった。駄目だ、ジュリア。叫びたいのに声が出ない。それでも彼女が愛しくて、離れたその小さな身体が名残惜しくて、僕が手を伸ばそうとすると、


「じゃあ……、ここからは一人で帰れるから。また明日ねー」


 ジュリアは手を振ってから僕に背中を向けて家へと帰っていった。その背中姿を見て、いつも僕はジュリアの後を歩いているんだと思った。思考が遅れていて気付けなかった。何よりも大切だったのに。



 普段の生活と生徒会と、そして彼女との生活は、心身ともに僕に疲労を与えていた。その横でジュリアはいつも笑っていた。僕以外の人間とは話せなかった女の子が、今ではいつも誰かに囲まれていた。

 だけどそれは仮面だ。

 それがジュリアのストレスになっているのは明らかだった。分かっているのに、もう何も口出しできなかった。僕たちは関わりすぎてしまったんだ。

 そんな日々が続き、クタクタになって、逃げるように生徒会室の黒ソファでうたた寝をしていると、


「わたしのソファで眠れる態度デカイ男はどこのどいつですかぁ?」


 ほっぺをつねられ、まだ覚めない脳をフル回転させながら目を開けると、丸顔生徒会長が笑っていた。


「大丈夫?」

「……はい、すみません」

「最近疲れているみたいだけど」

「………」


 僕は欠伸をしながら慌てて立ち上がると、めまいがして再び座り込む。

「ほらもう、無理しないで」

 無理やり彼女に寝かされて、僕は彼女を見上げた。今日の髪型もチェックしながら、不思議な人だと思った。同じ世界にいるはずなのに。


「馬鹿ねぇ……」


 優しく微笑みながら僕を見下ろした彼女は、いつしか僕の救いとなる。僕は最低だった。こんなときもジュリアより自分を守ってしまった。




 文化祭明けでさすがにたいした仕事はないので、ヤマモト君は先に帰ってしまった。というか、ジュリアのせいで居心地が悪いんだろう。


「あまり彼をいじめては駄目ですよ、ジュリア」


 立ったまま僕が窓の外を見ながらつぶやくと、ジュリアは笑い声をあげた。

 ジュリアもいつもの椅子に座ったまま空を見つめていた。少しの沈黙の後、僕はジュリアを見た。


「まさかと思いますけれど」


 僕が口を開くと、ジュリアもきょとんと僕を見た。


「何ー?」

「ジュリア、僕が彼を気に入っているからと言って彼と付き合うわけではないですよね?」


 僕が言うと、ジュリアは一度僕から視線を逸らし、眉を寄せたまま怒ったような表情で僕を睨んだ。


「何それ……。あたしが久保に気を遣っているとでもいうの……?」

「違います。だけど、俺は……」


 言いながら言葉が空回りして、息継ぎが上手く出来なくなりそうだった。それでも僕は言わなければならない。


「……僕は、あなたに自由に生きて欲しいだけだ。家族にも僕にも縛られないように」


 言い切ると、ジュリアは戸惑ったように瞳の色を変え、そのままうつむいた。


「久保。あんたって本当に分かっていない。今まで一緒に生きてきたものをあたしがどれだけ大切にしていると思っているの? それはあたしの独りよがり? ……久保に言われなくても、あたしは自由よ」


 ジュリアの言葉に、僕は何も言えなくなる。きっとそう言い張っても、僕たちにはまだ未知なものがたくさん溢れていて、その度に僕らは怯え、苦しむのだろう。だけど、未知が恐怖の元とは限らない。ヤマモト君の存在がそこにあるように、ゆっくりと僕らの関係性も変わっていくのだろう。

 空は青く輝いていた。窓から入る太陽がジュリアを灯す。まるで後光を浴びた女神のように彼女は笑い、一粒の涙をこぼした。

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