7.


 川口先輩の喋った事実は、それこそ書記として書き記し残したいほどの衝撃を伴った。




  ジュリアが金持ちだという噂はあるけど、本当なんだよ。昔からあるナントカっていう名家のお嬢様でさ。ジュリアには兄もいるけれど、ジュリア自身にもものすごい抑圧があったわけだ。何せ名家のお嬢様だもんな。外にいても家の中にいても、いつだって気が抜けなかったらしい。あ、ジュリアってああ見えて、家の中ではものすごい常識人らしいぜ。おとなしくて、内気なんだってさ。信じられねーだろ?

 元々おとなしかったジュリアは輪をかけて人と関わりたがらないようになり、ジュリアの両親とお手伝いさん……って言うの? そういう奴らが困り果てたとき、ジュリアの父親の部下が近所のマンションに引っ越してきたんだよ。それが久保の家族。ジュリアの父親は久保の父親に頼んで、同い年の子供同士を会わせたんだ。その頃幼かった久保は、当然だけど、壁なんか作らずにジュリアに接したわけだ。思えば、ジュリアにはいつだって名家の重みがあったから、ジュリアは対等に話せた友達なんかいなかったんじゃないかな。最初は極度の人見知りで、久保にも打ち解けられなかったみたいだけど、徐々に久保に心開くようになったんだ。

 だけど、俺はそれを異常だと思う。何せジュリアは、それまで通っていた私立の小学校を辞めて、久保と同じ公立の小学校に転校したんだぜ。久保に対する執着心はちょっとオカシイよな。だけど、周りはそれを許しちまったし、ジュリアにはそうするしかなかったんだろうな。そもそもがオカシイ世界を形作っていたんだからな。

 けど、転校した小学校でもジュリアは友達を作れなかった。子供は分かっちまうもんなんだな、お嬢様のオーラを。どこかで敬遠され、やっぱりジュリアには久保しかいなかった。その頃、落ち込んでいた景気とは真逆にジュリアの家の事業は右肩上がりの成長振りを見せて、ますますジュリアに対するプレッシャーがかかったんだ。

 ジュリアはもう学校にも行けなくなった。だけど久保は毎日ジュリアの家に通ったらしいぜ。そして、久保はジュリアに名前を与えたんだ。名家のお嬢様を表す本名をではなく、『ジュリア』という名前で、そのお嬢様を呼んだ。ジュリアはその名前を気に入ったんだ。本当の自分を表す名前だと。自分はお嬢様なんかじゃなくていいからって。

 でも皮肉なもんだよな。今やその名前すらも持ち上げられてしまった。久保は中学に入ってから自分とジュリアの格式の違いに気付いて、ジュリアに対して丁寧語を使うようになった。そんな事でジュリアが不登校になることはなかったようだけど、久保との距離にいつも不安を抱いていたんだ。あいつには久保しかいなかった。それ以外なかった。だからこそ、恋愛感情が芽生えても仕方ないよな。その存在が一番でかいんだから。

 でもさ、それって歪んでいると思わねぇ? なんで久保は軌道修正してやらなかったのかな。




 俺はスマートフォンをもう一度タップする。初めて見る女の名前と、電話番号が記された液晶画面。どう考えたってその固有名詞こそがジュリアの本名だった。

 だけどジュリアはジュリアだ。誰が名づけたとしても、俺にとってはただ一人のジュリアだ。

 椅子にまたがって座っている川口先輩を見た。彼も複雑そうな顔をして、窓の外を見つめている。先輩はこの話を誰に聞いたのだろう。久保会長から直接聞いたのだろうか。そんな状況よりはマシだと俺は自分に言い聞かせて、口を開く。


「でも……」


 言いかけて、俺は何が言いたいのか分からなくなり、それでも唇は勝手に動いた。


「久保さんは、ジュリアさんのことを姉か妹にしか思えないって……」


 訴えかけるように言った俺を先輩は物珍しそうに見た。


「オマエ、それ本人から聞いたのか?」

「え? あ、はい」

「すげーね。そんなことまで俺は聞き出せねーな」


 軽く笑いながら、やっぱりな、と先輩はつぶやく。


「だから言っただろ? 久保は卑怯だって」


 先輩の言葉に納得しながらも、どこかで腑に落ちない自分がいる。逆説的な接続詞ばかりが俺の頭を駆け巡り、スパークする。

 久保さんのあの態度こそがジュリアに対する軌道修正なんじゃないかな。なんとなく思っていると、それを否定するように川口先輩が言う。


「あんなに依存心を持たせて、一生ジュリアの相手をするわけでもないのに、期待させるだけさせときながらあとで突き落とすなんて最低だ」


 苦虫を噛み潰したような顔で、その話が全て事実であるならば本当に辛いのはジュリアだというのに、まるで先輩自身も傷ついたようにまつげを伏せた。




 その夜、俺は電話をかけた。コール音六回で、電話は繋がる。


『もしもし』

「あ、久保さん……。ヤマモトです」

『ああ、ヤマモト君。わざわざ電話ありがとう。川口から伝言聞いてくれたんだね』

「はい……」


 俺はスマートフォンを持ったままベッドに座り込み、ベッドの横にある窓のカーテンに手をかけた。窓ガラスには無様な表情をした俺が映り、慌てて閉め直す。


『そっか。よかった。考えてみれば番号も教えてもらっていないなんて、僕も抜けているよね』

「いいえ……」


 外では風が吹いているのか、窓ががたがたと小さく音を立てる。


『まぁそれも、ヤマモト君が欠かさず生徒会室に来てくれていたから、不便さを感じなかったんだけどね』


 久保会長の声と、川口先輩から聞いた話がリンクする。会長は卑怯だ。でも、人間の気持ちを縛ることなんで誰にも出来ない。


「久保さん」

『ん、何?』

「あの……、川口さんから色々聞きました」

『……ああ、伝言でしょ?』

「他にも、色々です」


 俺が言うと、会長が息を飲み込んだのが分かった。

 卑怯なのは俺のほうなのかもしれない。噂を好きじゃないのだと、本人以外から聞く話など興味がないのだと、豪語した口で、それでも沸き上がる気持ちはおさまらない。


『……そう』


 スピーカーの向こうで、いつもと変わらない声を努めて会長は笑うように言った。


『それじゃ、おやすみ。また明日』

「……失礼します」


 通話を切り、俺はベッドの上に転がった。最後に聞いた川口先輩の言葉が胸を圧迫させる。ジュリアのことを考えると、地球の終わりを見た超能力者のようにどうしようもなく足掻きたくなる。

 俺は恋愛に対してマニアックな嗜好を持っていない。そんな悲劇のヒロインに焦がれることなんてあってはならないのだ。

 だけど傷だらけのジュリアに酷いことを言ってしまった事実で、俺はいつまでも胸が痛んでいる。





 翌日の放課後、重い足取りで生徒会室を覗いた。


「あ、ヤマモト……」


 ドアが開くや否や、ジュリアの声が響いた。いつもの社長椅子ではなく、ロッカーの前で立て膝になって何かの資料を読んでいた。


「おはよー」


 何事もなかったような明るい声で、ジュリアは俺に笑顔を見せた。


「……おはようございます。体調はもういいんですか」

「うん、もうばっちりー。でも仕事溜まっちゃったなー。久保はあたしがいないのをいいことに仕事サボるしー」


 そのセリフに俺は乾いた笑い声をあげ、その裏腹でジュリアから会長の名前が出ることに動揺していた。あんなに弱々しい場面を見てしまったのだ。意識が混濁した中でも必死になって、久保に思いを告げるジュリア。その出来事はきっと初めてではないのかもしれないと俺は根拠もなく確信する。


「ヤマモトー。この書類をまとめておいてくれるー?」

「あ、はい」


 ジュリアが俺にプリントを渡す。俺が受け取ったとき、ジュリアの手がびくりと震えたのを俺は見逃さなかった。表面上では笑っていても、結局彼女は俺の暴言を許していないのだ。俺は酷く落ち込んだ。自業自得だというのに。

 しばしの気まずい沈黙のあと、ジュリアが震える声でつぶやいた。


「あ、あたし。部活に顔出してくる……。でもすぐ戻ってくるし、久保に伝えといて」


 俺の顔も見ずに、ジュリアは教室を出て行った。パタパタと廊下を駆ける軽やかな音が聞こえる。

 俺は静まり返った生徒会室の中で頭を抱え、罪悪感に苛まれていた。胸の奥がキリリといたんで、軋んで、壊れちまいそうだ。  自分用の椅子に座り、震える指で書類を整理し、大きくため息をついたとき、ドアが開いた。てっきり久保会長だと思い、顔を上げると、見知らぬ少女が立っていた。


「……失礼します」


 小柄で、おどおどとした表情で俺を見つめていた。誰だ、この女。俺が首をかしげると、彼女はこちらが驚くほどびくりと震え上がった。そのとき、後ろに束ねていたポニーテイルが可愛らしく揺れる。その初々しさからして、俺と同じで一年生だろうか。


「あの……、く、久保……会長はいますか……?」

「いいえ。まだ来ていませんけれど」


 つられるようにして俺も物腰低く答えると、彼女は盛大に息を吐いて、困ったように俺を見つめた。いや、見つめられても困るんだけど。それでもこのようなタイプの女を相手にしたことのない俺は、慌てて言葉を探した。


「あ、よかったら部屋で待っておきますか。多分会長はすぐに来ると思うし」

「わぁ、ありがとう」


 彼女は心からの感謝を込めたようににっこり笑って、慣れた足取りで生徒会室に入った。しかし小股で歩き、歩くたびにひょこひょこと揺れるポニーテールは見ていてとても可愛らしい。態度のでかいジュリアとは大違いだ。

 それにしても久保会長の黒いソファに座り、窓の外を見つめる彼女は一体誰なんだ?

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