8.
壁にかかったシンプルな時計の音がやけに耳に響く。放課後だというのに、相変わらず部活の物音すらこの部屋には響かない。
「あ、あの……?」
見知らぬ女と二人きりで、微妙な空気に耐えられなくなった俺が口を開くと、彼女はぽかんと俺を見つめた。
「なに?」
「コーヒー、飲みますか? ……インスタントしかないけれど」
俺が思い切って言うと、彼女は控えめに、だけどとても面白そうに目を細めて笑った。
「それって久保の受け売り?」
「え……」
「あなたが噂の新書記さんね」
「あ、あの?」
「わたしのカップ、まだ残っているのかなぁ……」
感慨深そうに彼女がロッカーの上のマグカップたちに目を移したとき、ドアが開いて、俺は心からほっとした。今日も爽やか久保会長のお出ましだ。久保会長は俺に笑いかけた後、黒ソファーに座る人物の存在に気付いたようだった。
「あれ、唯。どうしたんだ?」
「久保。遅いじゃない。せっかく約束のデータを持ってきたのに」
「そんなの俺に直接渡してくれればいいのに」
「だってせっかくだから、生徒会室に来たいじゃない? 久しぶりにジュリアちゃんにも会いたいし」
「あー、アイツは部活だから、来るかどうか……」
軽やかに繰り広げられる会話を、突っ立ったまま俺はぼんやりと見つめた。この二人の空気を俺は知っている。川口先輩から最後に聞いた言葉。二人の会話から間違いないとすれば、この人は……。
「あ、ヤマモト君。ごめんね、驚かせて。彼女は前生徒会長の……」
「自己紹介もせずにごめんなさい。唯って呼んでね」
久保会長の隣に立って微笑む彼女は、ジュリアとは違うタイプだけど、清楚でとても凛としている。敢えて言えばジュリアの表の姿に似ているけれど、そこにわざとらしさは見えないし、多分これが彼女の本性なんだろうな。……ジュリアの裏を一発で見敗れられなかった俺が言うのも説得力がないけれど。っていうか先輩だったのか。それも三年生。あまりの童顔と初々しさに一年生だと勘違いしてしまったじゃないか。
だけど穏やかに笑う彼女は、久保会長の隣がとても似合う。二人はバランスが取れていて、とても釣り合っていた。
「ヤマモトです。まだ生徒会に入ったばかりで……」
「うん、すごい有能って聞いたよ。わたしは引退した身だけど、何か手伝えることがあれば何でも言ってね。久保じゃ頼りないでしょ」
「おまえ、さりげなく酷いこと言うんじゃないよ」
生徒会長というオーラも何もかもを捨てて、頭を掻いて笑う久保さんの姿は、誰よりも幸せそうで、今まで俺の見たことのない姿だった。川口先輩の気持ちが今なら分かる。彼は何度もこんな場面を目にしたんだろうか。久保さんに対してネガティブな感情を抱きそうになるほど。
「――唯先輩」
その場にはなかったはずの声に、俺はびくりと肩を震わせ、聞こえてきたドアの方へと顔を向けた。いつの間に戻って来たのか、そこには開いたドアに手をかけたまま、微笑むジュリアが立っていた。
「あ、ジュリアちゃん」
「お久しぶりですね。お元気ですか?」
「うん、元気よ。ジュリアちゃんは病み上がりでしょ? 無理しているんじゃない?」
「大丈夫です。心配かけてごめんなさい」
やたら余所余所しい態度で、ジュリアは表の顔で笑った。俺は眉をしかめる。以前前会長の話題が出たときは、「唯ちゃん」呼びで親しいんだとばかり思っていたのに、なんだこれは。
「でも久しぶりに唯先輩に会えてよかったです」
「本当? 例のデータを持ってきたの。役に立ててもらえたらいいんだけど」
「ありがとうございます。……あたし、部活あるし、行きますね」
俺が唖然としていると、ジュリアは礼をしてから、久保や俺に目もくれずに生徒会室を飛び出した。
久保会長の横で、唯先輩が大きくため息をついたのが分かった。
「……あの子、まだわたしに全然気を許してくれていないのね。知り合ってもう一年も経つのに、久保が話すあの子とは全然違う」
「それは……、仕方ないよ」
小さく落ち込む唯先輩を宥めるように久保会長がつぶやいたとき、俺の中の何かが切れた。
「……久保さんのせいじゃないですか?」
「え?」
二人が同時に俺を見た。俺は、俺より背の低い久保会長を睨む。
「ジュリアさんがあんなになったのは、久保さんの影響だってあるんじゃないですか。なのに仕方ないの一言で済まされたら、ジュリアさんはどうすればいいんですか」
俺の言葉に久保会長は眉根をしかめて、ゆっくりと口を開いた。
「……そうだね。僕が悪いよ。でも僕たちのことはきっと誰にも分からないし、俺たちの心情まで語って欲しくないよ」
ジュリアとの噂を辟易していると正直に言った久保会長が、本人からも聞きもしない情報に対して言及している俺に対し、静かに怒っている事に俺が気付く。それでも俺は久保会長から目を逸らせずに、黒いソファーにいる二人をまっすぐに見つめる。
「……すいません。失礼します」
こみ上げる気持ちは溢れるけれど、それらを耐えるように、俺もジュリアを追いかけるように生徒会室を出た。廊下に出ると蒸し暑さがじんと鼻の中に伝わってきたけれど、あの部屋の空気よりはましだった。
俺の足は自然とジュリアを探していた。彼女があの二人を見て、平然と出来るわけがないことを俺が誰よりも知っていると自負していた。性格を二つに分けられるのは、器用だからではない。そうやってしか生きていけないくらい不器用だからだ。
何度も頭の中で川口先輩の言葉が反芻する。
―――期待させるだけさせときながらあとで突き落とすなんて最低だ。自分はのうのうと前生徒会長と付き合っているんだからな。
管弦楽部の部室近くにある一階の教室。以前下校する俺にジュリアが声をかけたときにいた部屋を探すと、彼女はバイオリンも持たずに一人で窓の外を見つめていた。俺に声をかけてくれたとき、彼女は一体どんな気持ちで。あの時は窓越しだったけれど、今なら正面から彼女に向き合える。
「ジュリアさん」
そっとドアを開けて声をかけると、ジュリアはびくりと肩を震わせながら振り向いた。俺を見た瞳は水分を多く含んで、今にも溢れ出しそうだった。
「……ヤマモト」
弱々しい声で俺の名前を呼び、何を思ったのか慌てて目を逸らして俺に背中を向けてしゃがみこんだ。その拒否されたような行為に、俺は柄にもなく酷く傷つく。
「や、やだな。別になんでもないわ。コ、コンタクト……、コンタクトにゴミが入っただけ!」
「……ジュリアさん。裸眼2.0って言っていたじゃないですか」
呆れてつぶやくと、ジュリアは背中を震わせ、聞こえるか聞こえないかというくらいの小さな声で、言った。
「だって……、これ以上あなたに甘えられないわ。あなたは何一つ文句言わなかった。でも、もう我慢の限界でしょう……。あたしはあなたに甘えすぎだんだもの……」
背中越しでも分かる。溢れる涙を素手で拭い、それでも拭いきれなかった涙は彼女のスカートを濡らすのだ。
あの日の記憶がつい先ほどのことのように蘇り、俺は再び罪悪感で胸が痛む。
―――わがままもいい加減してください。
弱っている彼女を、言ってはいけない言葉で突き放した。俺はどうやっても償えない。これからも何事もなかったように普通に接するなんてもう出来ないのかもしれない。彼女は大勢の全校生徒の中から、俺を見つけてくれて、俺に仕事を与えてくれたのに。
「ジュリアさん、ごめんなさい」
「どうしてあなたが謝るの」
俺もジュリアの傍に立て膝になり、出来るだけ彼女と目線を合わせようとする。でも彼女は決してこちらを向かない。その距離がもどかしくて、俺は背中からジュリアを抱きしめた。
「ヤマモト……?」
「ごめんなさい。本当は違います。わがままなんて思っていないです。俺も、久保さんも
、川口先輩だって、みんなジュリアさんを必要としています」
突然抱きしめられたジュリアは驚いているんだろうけれど、それでも俺を拒否せずにただ涙を流した。小さな背中を持つ彼女の黒い髪の毛からシャンプーの匂いが漂って、俺は気が狂いそうになる。近くの部屋で金管楽器の音が響いている。それと自分の鼓動の音、それだけでいっぱいになるところに、彼女の嗚咽が聞こえて、俺は抱きしめる腕に力を込めた。
「ジュリアさん」
「なに……」
「それでも久保さんを好きですか」
俺が言うと、ジュリアは今度は本当に驚愕したようで、俺から逃れて振り向いた。涙で汚れたその泣き顔すらいとおしい。そんなことを考えた。
「……好きよ」
唇を震わせながら、ジュリアは濡れたまつげを伏せた。
「どうにもならないって分かっているけれど、好きよ。久保がいないと生きていけないと本気で思った。久保がいないとあたしは普通に生きていくことすら出来ないの」
「……そんなことないでしょう」
「嘘よ。その証拠に久保は唯ちゃんに振り向いた。唯ちゃんは完璧よ。あたしに無いものを持っている。久保が惚れるのも当たり前よね。……久保が悪いわけじゃないの。ようやくあたしは久保を解放できたんだって、どこかで喜べた。でも苦しい……、とても辛いよ」
そう言ったジュリアは、俺の胸に顔を押し付けて、泣いた。声をあげて泣いていた。そんなジュリアの背中に俺は震える手で腕をまわし、落ち着かせるように背中をぽんぽんと叩く。この際自分の胸の痛みは無視しておく。遠まわしにする。胃からこみ上げてきて、今にも口から飛び出そうとするこの思いを我慢すること。それが自分への報いだと思いたかった。
「何でも言ってください」
覚悟を持った俺の声が、誰もいない広い教室内の中に浮かぶ。嗚咽を漏らしたジュリアが、ゆっくりと顔をあげた。泣き顔も綺麗だと、この場にそぐわないことを俺は思う。
「え……?」
「普段言えないこと。色々抱えているでしょう。今なら俺以外誰も聞いていませんよ」
「……ヤマモトが聞いているなら意味ないじゃん」
俺の腕の中でジュリアは鼻をすすり、泣きながら笑い、そして大きく息を吐いた。
「……唯ちゃんが羨ましい」
近くの部室から、バイオリンやトランペットの音が響く。
「でもこれ以上久保を束縛したくないよ」
校舎の近くにある運動場からは、部活を行っている生徒の掛け声が聞こえてくる。
「生徒会の仕事、ちゃんとやらなくちゃ」
ここは、学校というひとつの世界の中で、俺達はその中で生きているのだと改めて思う。
「文化祭だってあるし、他にもたくさんイベントがあるんだし」
次第に小さくなっていくジュリアの声に、俺は背中を撫でながら、ただうなずく。
「……本当はあたしも、みんなと同じでいたい。友達たくさん欲しいし、持ち上げられたって何も楽しくない」
うつむくジュリアの本音が眠る、深くて静かな場所に沈んでいくように、俺は目を閉じる。少しでも彼女の近くにいたいと思う。
「なのに久保さえももう遠いどこかに行ってしまった。昔はこれでも対等だったの。親に隠れて山の探検をしたり、川でじゃれあったり、楽しかったなぁ・・・。でも駄目ねー・・・。いつまでも子供でいられないのね・・・」
涙を拭いながら、ジュリアは再び顔をあげ、真正面から俺を見た。澄んだ瞳が、俺を映す。
「ヤマモトには対等でいて欲しい」
意思の強い目で、俺をまっすぐに見つめた。そんな彼女だから、俺はラブソングをほら吹くことも出来ない。ジュリアは思ったほど弱くもない。俺が心配しなくても、きっと彼女は立ち上がれる。そんな予感がした。
それでも、今は。
俺は彼女を抱きしめる。
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