9.


 下駄箱にスニーカーを投げ込み、代わりに上履きを履く。いつもと同じ朝を迎えていたとき、後ろから肩を叩かれた。


「ヤマモト君、おはよ」


 振り返ると、唯先輩が微笑んで立っていた。


「……おはようございます」


 必然的に俺たちは並んで歩かなければならなくなった。いつも歩いているはずの教室までの道のりがやけに遠い。昨日の今日なので隣を歩くのが気まずくないはずがない。


「久保のことを責めないでね」


 俺の横で、今日も相変わらずポニーテールの唯先輩は柔らかく笑って、静かに言った。


「確かに久保にも責任はあるよ。でも……、久保だって大人でもなければ神様でもない。久保なりに一生懸命やってきたのよ」


 始業チャイムまであと十分という時間を残した朝の廊下の騒々しさの中でも、唯先輩の声が気丈に響いた。


「それは……、分かります」


 俺が答えると、唯先輩は立ち止まって、俺を見上げて微笑んだ。


「うん、あなたは優しいから、分かってくれると思った」

「別に俺は……」


 まっすぐな視線を向ける彼女に後ろめたさを覚えて、俺は目を逸らす。


「優しくなんかないです」


 廊下に響く騒々しさが遠く思えて、俺はジュリアのことを思い出す。昨日、あれからも我慢をしたように口を閉ざして帰っていったジュリアは、今日ちゃんと学校に来るだろうか。


「唯先輩……」

「なぁに?」

「久保会長がジュリアさんのことをあんなに構っていて、嫉妬しないんですか。付き合っているんでしょう?」


 俺が言うと、唯先輩は呆気にとられたように俺を見つめて、そしてそのまま大声で笑った。


「そんなこと心配してたの!?」

「いや……、あれから色々俺も反省していて……」

「あははは! おっかしー……。そうねー、嫉妬……嫉妬ねぇ」


 抱えている鞄を抱きしめて、文字通り腹を抱えそうな勢いで笑い続けていた唯先輩が、一息ついてから、やっと真面目な顔をして俺を見た。


「昔はね。わたしとジュリアちゃんのどっちが大事なのーって、子供っぽいこと考えていたけれど。今なら事情を知っているし、それで久保が悩んだのも知っているから……」


 そのセリフの節々には唯先輩の久保会長への信頼が見えて、余計にジュリアがいたたまれなくなった。


「やっぱりヤマモト君は優しいな」

「どうしてですか?」

「昨日会ったばかりのわたしのことまで心配してくれたの?」

「いや、心配っていうか……」


 先ほど述べたように、俺は俺で反省をしたのだ。部室で泣いたジュリアと別れた後、帰宅した俺は自室で悶々と様々な事を考えては狼狽えた。本人から聞いたわけでもない事実を、第三者である俺が口を挟んでいいわけではなかった。でも止められなかった。こうなってしまった以上、ジュリアの感情に寄り添う以外の方法を見つけられない俺はもう、唯先輩に同情はできない。




 俺の学校は二期制だった。あっという間に前期の中間試験が行われ、膨大な試験範囲と中学時代のような甘さが許されない厳しさの中、蒸し暑さと戦いながらなんとか主要科目のの試験が終わる。

 

「やっと試験は終わったけれど、あと一ヶ月近くも学校があると思うとうんざりするな」


 放課後の掃除も終わった後、同じ掃除当番だった元木がいつものように俺の前の席から振り向き、苦笑した。ちなみに今日は六月二十五日。授業中、返された英語の答案用紙を見て、俺は心底沈んだ。生徒会やっている人間がこんな点数をとっていいのだろうか。


「どうでもいいから早く梅雨が終わって欲しいよ」

「まったくだ」


 俺のぼやきに元木はうなずく。窓の外は今日も雨模様だ。


「でも君は梅雨が終わった後こそ忙しいだろう」


 意味ありげな笑みをもたらす元木を見て、俺は嘆息する。


「そうだな」

「やっぱり一年で一番大きなイベントは楽しみなものだよ」

「そうか?」

「そうさ。君たち生徒会が苦労して作り上げるものだろう?」


 机の中から答案用紙を出して、それを鞄に入れながら、何でもないことのように元木は言う。


「だからヤマモトのやることには全て、意味のないものなんてないと思うよ」


 鞄のファスナーを閉めて、元木はもう一度俺のほうを向く。俺が彼の言葉を脳内で読み取っているうちに、元木はもう一度口を開いた。


「いつだったか、数学の必要性について話しただろう? 一見何の意味もなさないようなものが、僕たちに大きな影響を与えてくれる。ヤマモトはそれをやってくれそうな気がするんだ」


 そう言って元木は鞄を持っていって帰っていった。俺はなぜか座ったまま動けない。不覚にも感動してしまったのだ。無力にもがいている俺を、誰かに認められた気がして。




「おはようございます」


 放課後、いつもの挨拶をしながら生徒会室に行くと、久保会長がソファに座ってノートパソコンを広げてキーボードを打っていた。顔だけこちらに向けて、


「おはよう」


 いつもと変わらない爽やかさで挨拶を返してくれたけれど、いつだって人間には裏があることを俺は知った。


「久保さん」

「うん?」

「昨日はすみませんでした」


 久保会長の前に立って頭を下げると、彼は一瞬何のことか分からないような目で俺を見た後、思い出したように笑った。


「ああ、いいよ。本当のことだから」


 俺の目をしっかり見て強く言い放ったあと、再びパソコンに目を向けた。俺の中ではその事実は不完全燃焼だ。


「昨日は言い過ぎました」

「というか、君にも事実は知って欲しいと思っていたから、そのくらいの覚悟はあったはずなんだ。俺は責められるべきだよ」

「でも、久保さんは優しいから……」


 ジュリアじゃなくても、人間には裏がある。だけど、久保会長が俺に向けてくれた優しさに偽りがあったとは思えない。


「優しくなんてないよ」


 指を止めないまま、今度は俺の顔を見ないようにして久保さんは自嘲した。


「何度も考えたんだ。どうすればいいんだろうって。僕もまだ子供で、それでもジュリアを大事だったけれど、大人の世界ってヤツが垣間見えた瞬間、急に恐ろしくなったよ。今までずっと手を繋いだはずのジュリアさえ怖いと思ったとき、自分を呪った。……だから俺は唯に縋っているのかもな」


 床に視線を落とすその姿は、重い重い圧力に押しつぶされまいと耐えている姿のようで、


「結局俺はジュリアを縛り付けてしまっただけだ。……一番してはいけないことをしてしまった。彼女をここまで追い込めたのも俺だ。与えた名前も今では人形のように先回りされて、ジュリアはまた孤独になってしまった。分かっていても、俺はもうジュリアの隣を歩けないよ。俺の父はジュリアの父親の部下で、俺にとってもジュリアは高嶺の花だったんだ。ジュリアのことはとても好きだよ。でもどうしても、恋愛感情は抱けない」


 俺は昨日の出来事を酷く恥じる。何も知らないで、ジュリアにだけ同調し、久保会長を卑怯だと思い、ののしってしまったことを。ロッカーの前にしゃがんで、ノートパソコンやファイルを取り出そうとする手が震えているのは、この罪悪感から報われようとする狡い俺の考えが拒否しているのだろうか。


「……こんなことを言ったら、君は更に僕を軽蔑するかもしれないけれど」


 少しだけ前置きを置いてから、久保会長はキーボードから手を離して、静かに言い出した。俺は自分の椅子に座って、電源を入れたパソコンから目を離して、まっすぐに久保会長を見た。


「僕は君に感謝しているんだ。僕はどうやってもジュリアを大事に出来ないけれど、君はジュリアの望みに応えてくれると思って」


 窓の外では相変わらず雨が降り続けている。静かな雨音の中で響いた久保会長の言葉に、俺は首をかしげる。ジュリアの望み?


「ヤマモト君がジュリアに優しくしているのを見ると、とても安心する。俺はとても勝手だな」


 大人に見えていた久保会長だって、ただの高校二年生だった。唯先輩の言う通りで、大人でもなければ神様でもなかった。

 静かな室温の中で、視線を落とす久保会長に俺が何かを言おうとした時、途端にドアの開く音が盛大に響いた。


「おっはようございまーす」


 バイオリンケースと鞄を軽々と持ったジュリア様のご登場だ。昨日の涙とは打って変わり、今日の彼女はとても明るい。だからと言って油断は出来ないけれど。


「久保ー。昨日はちゃんと仕事した? あのあと唯ちゃんと仲良く帰ったんじゃないでしょうね?」

「仕事しましたよ」

「そっかー。偉い偉い」


 満足そうにジュリアは笑い、俺に向いた。


「昨日はありがと」


 小さな声だったけれど、俺にはちゃんと聞き取れた。こんなに満足するのは何故だろう。――ジュリアの望み。昨日の会話を思い出す。

 俺はその望みとやらを叶えてやりたいと思った。


「二人にご報告ー。本当は川口がいるときに言いたかったんだけど」

「何ですか?」


 バイオリンケースを社長椅子の隣に置いて、勝ちきった顔をして俺たち一人ひとりを見た。


「わたくし、本日をもって管弦楽部を退部いたしましたぁ!」


 ピースサインとともに、ジュリアはこの世の幸せを掴んだような顔で微笑む。俺の横で久保会長が息を飲んだ。


「え……。退部って……、ジュリア、お父さんとの約束は……?」

「父なんて関係ない」


 ピースサインとそのポーズを辞めて、くだらないと言う風にジュリアは呆気に取られている久保さんを見下ろす。


「ありがとう、久保。父にはちゃんと説得したよ。どうしてもあたしは部活に溶け込めないし、オーケストラ向きではないから……、そう言ったらやっと納得してくれたの。その代わり、バイオリンを弾くことは辞めないって約束した。練習だってさぼらない」


 どこか開放感を見せて話すジュリアを見て、俺は複雑な気分になる。彼女を本当に縛っているのは久保さんではない。久保さんは一生懸命ジュリアを解放しようと努力したのだ。そんな久保さんにジュリアが恋焦がれてしまい、そこにとてもつもなく儚いラブストーリーが生まれてしまったけれど、誰も悪くなんてない。ただ変えられないルーツから始まって、そうなる運命だったのかもしれない。などと俺は柄にもなく運命論を信じてしまった。


「それならいいんですけれど……」


 どこか府に落ちないような顔で、それでもどこか安堵したように久保さんはつぶやいて、仕事に戻った。


「ヤマモトー」


 ジュリアが俺を呼んだので、俺は立ち上がってジュリアの前に立った。


「何ですか?」

「そんなわけだから、あたしはもう生徒会の仕事に専念できる。逃げ場所も必要ないと思うの」


 嬉しそうに語る彼女は、とても輝いていて、俺までなんだか嬉しくなる。


「よかったですね」

「うん。だから最高の文化祭を作ろうね」

「はい」

「今日は印刷屋に連絡してー……、それから……」


 仕事モードに変わった彼女を一瞥してから、俺は椅子に戻って仕事を再開する。外の雨はやまないけれど、少しずつ何かが変わる予感がした。それはとても幸せな方向へと。

 ―――ヤマモトには対等でいて欲しい。

 約束します。俺は声に出さずにつぶやいた。

 もうすぐ怒涛の夏がやってくる。

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