6.


 俺は人生最大と言っても過言ではないほど戸惑っていた。このまま壊れ物のように眠っているジュリアから離れるのも心配だ。だからと言って、このままの状態でいいはずがない。ズボンのポケットからスマートフォンを取り出してみるものの、思えば生徒会の人間とは誰とも番号やメールアプリのIDのを交換していない。それどころか、俺はジュリアの本名さえ知らない。

 このまま久保会長を呼びに行こうかと躊躇っていると、生徒会室のドアが開いた。


「ジュリア、ここにいるのか?」


 この瞬間ではまさしく神に等しい久保会長の声とともに、足音が聞こえ、俺は思わず立ち上がった。


「久保さん……!」

「あ、ヤマモト君……、と、ジュリア……?」


 俺と同じく一瞬にして瞳に戸惑いを映した久保会長に、俺は視線を強く向けて声を重ねる。


「あの、ジュリアさんが熱……、熱が高くて……、意識が……」

「あー、眠っているだけだから。大丈夫、いつも無理してこんなことになるんだ。ちょっと俺、保健室に行って毛布と枕借りてくるね」


 ……俺と同じなんかじゃなかった。慣れた言い草に、俺の戸惑いが蓄積していく。


「あ、俺も行きます……」

「ヤマモト君はここにいて。ジュリア、目を覚ますかもしれないし」


 しどろもどろな俺に対して久保会長は優しい笑顔を向けた後、生徒会室を出て行った。俺はまた残される。ジュリアと久保さんの親しみを見せ付けられて、突き放される。久保さんの笑顔は、ジュリアの仮面と同じだった。

 ソファの上で、ジュリアが苦しそうに呼吸を繰り返し、少しうなされていた。


「ジュリアさん……」


 ジュリアの右手が宙を彷徨う。何かを探しているようだ。俺はソファの横に立て膝をつき、その手をそっと握った。


「久保……」


 ジュリアが小さな声で、でも確かにそう言い、俺はジュリアをまじまじと見てしまった。今更だが俺は久保さんではない。しかし彼女は目を閉じたまま、青白い頬はそのままだったが、どこか幸せそうな顔をして眠っていた。


「久保……、どんなことがあっても、あたしは、久保の味方だからね……」


 ゆっくりとジュリアは言葉を紡ぐ。俺はあっけに取られてその言葉を聞いていた。


「久保が、あたしを好きじゃなくても、あたしは、久保を、ずっと好きだから、ね……」


 彼女の言葉に耳を疑う。そのまま寝息をたてたジュリアを見つめ、俺はとてつもない絶望感と虚無感に襲われる。俺だけ蚊帳の外に残された気持ちになり、今すぐこの場から逃げ出したい気持ちになったが、かなわなかった。ジュリアの熱い手が俺を放さない。

 そこへ、再び生徒会室のドアが開き、俺はびくりと肩を震わせ、振り返る。


「ただいま、ジュリアはまだ寝てる?」

「あ・・・はい」


 きっと俺は嘘がばれたときの子供のような顔をしている。握られた手だけが熱を持つ。

 うなされたジュリアが求める張本人が、毛布を持って再び現れた。ジュリアが俺の手を握っているのを見て、久保さんは微笑んだ。


「ジュリアはよっぽどヤマモト君が好きなんだね」


 ――違うだろ!? 俺は声を飲み込む。ジュリアはあんたが好きなんだ。そしてきっとそれを知っているんだろ? 涼しい顔をして、何もなかったように接しているんだろ? 丁寧語という距離をジュリアに見せて、何をしたいんだ。

 腹の底にたまった熱い感情が言葉と共にこみ上げてきたが、俺は耐えた。こんなところでわめき叫んだところで、ただの嫉妬にしか聞こえない。そんな情けない立場にはなりたくない。

 久保さんは毛布をそっとジュリアの上に掛けた。壁にある時計を見ると、もう午後の授業が始まるまで五分しかない。


「あの、俺、授業に行かなくちゃいけないので……」


 俺が言うと、ソファーで眠っていたジュリアの瞼がゆっくりと開いた。


「……ヤマモト?」

「あ、ジュリア、気がつきました?」

「久保……。あ……、あたし、またやっちゃった……?」

「無理をするなと昔から言っているはずです」

「……ごめんなさい」


 しゅんとうなだれるジュリアははっとしたように俺から手を離した。


「あ……、ヤマモト、ごめんね……」

「……いえ。俺、もう行きます」


 後ろめたい解放感を味わいながら俺がジュリアに背中を向けると、ジュリアの細い声が返ってきた。


「行かないで、ヤマモト……」


 弱々しいその声に俺は驚いて、思わず振り返ってしまった。ジュリアは肩肘をソファーについた状態で少しだけ身体を起こして、母親に一人置き去りにされた子供のような目で俺を見つめる。


「ごめんなさい、でも行かないで……」

「ジュリア、ヤマモト君も困っているでしょう」


 久保会長がジュリアを宥める。その光景に腹を立て、俺は低い声で言う。


「久保さんの言う通りです。わがままもいい加減にしてください、ジュリアさん」


 ジュリアから顔をそむけた俺は低い声でそう言い放ち、生徒会室を出た。廊下はまるで別世界だ。昼休みのにぎやかな騒ぎ声。やっと現実に戻ってこられた。あのままジュリアの傍にいたら、俺はずっと夢うつつの狭間を彷徨っていた。これでよかったのだ。



 教室に戻るとあまり手をつけていない弁当が広げっぱなしで、少々落ち込んだ。またもや食いっぱぐれてしまったわけか。


「遅かったんだな。ジュリア様とやらの話はそんなに長かったのかい」


 満足に昼食も摂れなかった俺に同情でもしているのか、やたら神妙な顔で元木は言う。てっきりいつものにやけ顔で、ナニしていたんだと問われると思っていたのにな。不審がっていたら、更に眉をしかめて、元木は俺を見た。


「おまえ、大丈夫か……?」


 いつもの口癖ではなく、そこらにいる男子生徒と同じ口調である元木を俺は更に不思議に思い、逆に訊き返す。


「何が?」

「顔が真っ青だ」


 言われて、俺はまさかだと心の中で笑う。まさか熱があるわけでもあるまいし。

 しかし、授業が始まってからふと物思いに耽ってみれば、思い出すのはジュリアが倒れる瞬間だった。あれほどの恐怖はないと思う。あんなに細い身体がふらりと倒れて、目を覚まさないなんて、今でも思い出せば震えてくる。情けない。そして待っていた次の言葉。久保に対する愛情のセリフ。

 俺はどこか自惚れていたのかもしれない。ジュリアに声をかけてもらって、認められていると自負していた。狭い空間の中で、それでも必要とされているのが嬉しかった。ジュリアがありのままの自分を見せてくれることが楽しみだった。

 それなのに、最後の自分の言葉を思い出せないでいる。とてつもなく酷いことを言ったことしか覚えていない。

 放課後、生徒会室に行こうかとずいぶんと悩んでしまった。


「ヤマモト君、今日も生徒会の仕事あるの? 大変だね。でも羨ましいな、あのジュリアさんとお近づきになれて」


 ほうきを持ったクラスメイトの女子が掃除しながら俺にそう笑ってきた。俺は曖昧に返事をし、窓の外を眺める。雨は止んだようだけど、俺の心は晴れなかった。

 掃除が終わった後、重い足取りで生徒会室に向かったけれど、ドアを開けられない。ジュリアがあの後、授業に出たとは思えない。そして久保会長がジュリアを置いて授業を受けたとも考えられない。まだあの二人がこの中にいる気がして、俺が戸惑っていると、


「入らねーの?」


 後ろから軽く言葉がかかってきた。


「あ、川口先輩……」


 ジュリアと久保会長のツーショットが嫌いだと言ったこの人の言葉を思い出し、今ならうなずけると思った。


「さっきから不審だぜ、オマエ」

「あ……、すみません」

「なんで躊躇ってんの?」

「あの、ジュリアさんは……」


 思い切り固有名詞を吐いてから、しまったと思った。が、もう遅い。先輩は俺の言葉に首をかしげている。


「ジュリアがどうかした?」

「い、いいえ……」

「あの人なら帰ったらしいけれど。高熱で。久保が送って行ったって」


 川口先輩の耳にももう届いているんだと、どこかで予想していたことだが、やっぱり疎外感に襲われる。狭い中での人間関係というもの。俺が苦手としてきたもの、その原因が俺だと分かっていても怖がらずにはいられない。


「あ、じゃあ久保さんは……」

「いないから、オマエに伝言。とりあえず中に入ろうぜ」


 先輩は鍵を開けて中に入り、俺も後に続く。


「あの……、伝言って」


 俺はポットの電源を入れながら、先輩に訊いた。先輩はスマートフォンを取り出した。


「まずはケータイ番号とメアド。まだアイツの知らないんだろ?」

「あ、ありがとうございます……」

「まずは俺に番号教えろ。俺から久保の分とジュリアの分も送るから。……久保も抜けているよなぁ、ヤマモトが入ってからずいぶん経つのに、今時番号やメールも交換していないなんて」


 先輩が軽く笑い、ノートを開いている俺の顔を覗き込んだ。


「オマエ、大丈夫?」

「え……」

「顔青いけど。ジュリアに熱でもうつされた?」


 俺はスマートフォンをタップし、川口先輩に液晶画面を見せる。先ほど水を入れたポットの温度が沸騰したのを確認し、俺は川口先輩から逃げるようにしてトヨタのカップにインスタントコーヒーを注いだ。


「知ってるぞ、オマエがジュリアに頼られていることくらい。どうせ熱あるジュリアの傍にいたんだろ」

「で、でも!!」


 カフェインの香りが苦く胃の中に沈んでいく。


「ジュリアさんは久保さんを……」


 言いかけて、やめる。いつもこの繰り返し。この性格は他の誰よりも自分が一番愛想尽きているんだ。ジュリアの長い黒髪を思い出す。いつだって俺の前にジュリアがたたずんでいる。顔なんて知らない。脳裏に蘇るのはジュリアの声、そして……。

「なんだ、オマエ知ってんだ?」


 俺からコーヒーカップを受け取った川口先輩が、薄く笑う。


「あの、いや……。そこまで深くは知らないんですけれど……」


 ここまで言っておきながら、俺は否定の言葉を口にする。卑怯なのはむしろ俺だ。そう思っていると、川口先輩が挑戦的な瞳を向けてきた。


「知りたい?」

「え……」

「俺、あいつら二人のことなら話せるよ。知っておいたほうがオマエもあいつらと付き合いやすいんじゃね?」


 それはとても誘惑的な言葉だった。知りたい? ―――当たり前だ。

 本人から聞かされる事実以外を信じたくないという気持ちは本当なのに。

 もうあの二人に振り回されるのはごめんだった。無知ゆえに二人を傷つけることを二度としたくないんだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る