5.


 二人で濡れた格好で生徒会室に戻ると、さすがの久保会長も仰天した。


「なぜ雨が降りそうだと分かっていて傘を持っていかないのか不思議ですけれど、ジュリア」


 やはり某スーパーの文字が入った白いタオルを何枚かジュリアと俺に渡しながら、呆れた表情を浮かべた久保会長はそう述べてくださった。おっしゃるとおりです。というか、なんでも揃っているんだな、この部屋は。タオルで髪やブレザーやズボンを拭きながら、俺は嘆息する。俺の隣でジュリアは仏頂面だった。


「だって折畳み傘も持っていないし、雨降っていないうちからコウモリ傘なんて持ちたくないよ!」

「コウモリ傘って……」


 苦笑している久保会長を横に、川口先輩は退屈そうに帰り支度をしている。


「でもこんな雨じゃ、帰るに帰れないよな。朝は晴れていたから傘持ってねーし」

「部屋にあるコウモリ傘使えばいいじゃん」


 肩にタオルをかけたまま、ジュリアは黒板の横に立てかかっていた三本の傘を手に取った。それは確かにジュリアののたまうコウモリ傘という代物なんだろうけれど、単なるビニル傘だ。


「でもそれ、三本しかねーし」


 川口先輩が目に見えた事実をジュリアに突っ込む。なんて怖いもの知らずなんだ、先輩! 生徒会長でさえジュリアに対しては丁寧語だというのに……!


「元々はちゃんと生徒会員分の四本あったのよー? なのに唯(ゆい)ちゃんが私物化したまま生徒会辞めちゃったからー」


 唯ちゃん? 聞き覚えのない固有名詞に首をかしげていると、


「前生徒会長だよ」


 俺の隣で現生徒会長が教えてくれて、納得できた。ということは、現在三年生か。


「まあいいわー。あたしと久保は相傘するしー、川口とヤマモトは一本ずつ使えばー」


 ジュリアは当たり前のように俺と川口先輩に傘を渡す。久保会長は呆れながら、ため息をついた。


「必然的に、また俺はジュリアを家まで送っていくことになるのでしょうか」

「いいじゃない、どうせそんなに遠くないんだし。いつもの事じゃん」


 もう一度丁寧に髪を拭いたジュリアは、久保会長の苦労なんて関係ないという風に笑う。その光景を見て、俺は元木が言っていた噂を思い出した。やっぱりこの二人が付き合っていてもおかしくないんじゃないだろうか。

 ジュリアの決定は絶対だ。俺達は生徒会室のドアの鍵をしめて、四人で正面玄関の昇降口に向かう。人とは不思議なもので、連なる人数が多くなればなるほど分割される。例えば、四人でいる場合は二人ずつに分かれやすいのはなぜなのだろうか。

 

「俺はあのツーショットを見るのが一番嫌いだな」


 靴を履き替えて帰路を辿る俺と川口先輩の前で、一本の傘を分け合って肩を寄せ合った恋人にしか見えない二人を目の当たりにしながら、俺の隣で川口先輩が小さな声でささやいた。


「ツーショットって……、ジュリアさんと久保さんですか?」

「ああ。オマエはなんとも思わねーの? 俺は久保もジュリアも嫌いじゃないけれど、あのセットが嫌いだから生徒会は好きじゃないな」


 そう言い切る先輩に、俺は疑問が浮かぶ。どうしてそこまで嫌なんだろう。確かに二人の関係性は疑いたくなるけれど、そこを気にしなければ俺はどうってことない。だからといって、この川口先輩はやみくもに人を嫌うような人間にも見えないし、何か理由はあるのだろう。

 傘に落ち続ける雨の音が、波を打つようにじわじわと広がっていく。それはよくない方向に体の中に浸み込んでいく気がして、俺は危うさを覚える。


「ジュリアの小悪魔ぶりにもウンザリだけど、なんと言っても卑怯なのは久保だよな」


 川口先輩がため息と一緒に愚痴を漏らしたとき、前に居た二人が同時に振り返ってこちらに向いた。こういう時も揃った動作で、二人の関係を思い知る。川口先輩の声は俺にやっと聞こえるくらいのもので、雨音に消されていったので、二人には聞こえていないはずだった。


「じゃあ、あたしたちは駅に行くしー。二人とも気をつけてねー」

「また明日」


 同じような笑顔を浮かべた二人は、肩を並べ帰路を辿っていった。俺には詳しい事情は分からないけれど、心中穏やかではないのは何故だろう。

 五月の春雨の中。濡れた制服のズボンの裾。足元が少しずつ冷えていく。それから川口先輩は、二人について言及する事はなかった。



 翌日、学校に行くと俺がジュリアと手を繋いで歩いていたという噂で持ちきりだったが、俺は気にしなかった。しかし、やはり騒ぐ奴は騒ぐものだ。その一例として。


「ヤマモト、君はいつスキャンダルな人になってしまったんだい?」


 にやにやと薄笑いを浮かべながら、元木は開口一番嫌味を言ってきやがった。こいつは俺の脇役になることで退屈な高校生活を楽しんでいるんじゃなかろうか。


「そんなものになった覚えはないが」

「巷では三角関係説が流れているようだが。せめて生徒会長とジュリアが付き合っているのかどうかくらい解明してみるのはどうだい? 君なら簡単なことだろう」

「知らないね」


 ぶっきらぼうに言い捨てて、俺は席につく。俺だって知りたいさ。昨日の放課後、傘が三本しかないと途方にくれた時の久保会長のあのセリフは、今までも何度もジュリアを家まで送ったことのある言い草だ。


「生徒会の仕事はどうだい?」


 話題に飽きたのか、いつもいいタイミングで元木は話の腰を折る。そういう機転の利く奴だから、俺はコイツの友達をやめないのだろうな。


「ああ、昨日は学園祭のスポンサー巡りで疲れたよ。途中雨に降られるし」

「もうすぐ梅雨だしね」


 窓の外を見ながら、元木は深く息をついた。俺も気になって空を見る。灰色の空は、今日も冷たい雨を降らせていた。そのまま視線を落としたが、ジュリアはまだ登校していないようだった。



 昼休み、廊下で偶然会った久保会長から聞いた一つの知らせに、俺は驚いた。


「え、ジュリアさんが休み……?」

「ああ。昨日の雨にやられたのかな。風邪をひいたらしい」

「そんな……。俺のせいで……」


 俺は昨日のスポンサー巡りについて思い出す。突然振り出した雨の中、あの時こそ俺とジュリアは本当の意味で二人だけの時間を過ごせていたのかもしれなかった。


「ヤマモト君は気にしないで。アイツが傘も持っていかずにヤマモト君を連れまわしたのが悪いんだからな。どちらかといえば、君が被害者だよ」


 親しさをむき出しにする久保会長に、俺の中に再び疑問が芽生える。俺はどうかしている。久保会長はこんなに親切でいい人なのに。


「……久保さんとジュリアさんって、とても仲がいいんですね」


 俺が低い声でつぶやくと、久保は意表を突かれた顔で俺を見た後、いつものように爽やかな表情を浮かべて、小さく笑った。


「ああ、長い付き合いだからね。でも勘違いしないで。俺たち、別に付き合っているわけじゃないから」


 質問をする前に先に回答を得るのはいい心地がしない。先にそれっぽい言葉を投げたのは俺の方で、自業自得だというのに、俺の心中を全て見透かされた気分で、胸の中がざわざわとした。


「せっかくジュリアがいないから仕事をさぼりたい気分だけど、昨日のスポンサーをまとめて欲しいんだ。放課後、生徒会室に来てくれる?」

「はい……」


 結局、上手く言いくるめられたような心地悪さだけを残し、俺は久保会長と別れた。



 その日もいつもと同じように生徒会室に寄り、昨日借りたコウモリ傘という名のビニル傘を返し、さっさと仕事を片付けていつもよりも早く帰ろうと思った。社長椅子の横に置いてあるバイオリンケースが無言で俺に視線を向けているようだ。そういえば昨日、会長と相傘するのに当たって、邪魔だからという理由で持って帰らなかったんだったけな。


「ヤマモト君、僕はこう見えてもよくない噂を気にしてはいるんだ。君はどうなんだ?」


 お決まりのソファでノートパソコンの画面をじっと見据えながらそう言う会長の質問の意図が掴めず、俺は少し考えてから口を開く。

「……本人から直接聞いた話以外あまり鵜呑みにしないようにしていますけれど。正確な情報は必要だと思っています」


 俺が馬鹿正直に答えると、久保会長は喉の奥で声を殺すような笑い方をした。川口先輩は久保会長を卑怯だと言う。それはどんなところか知りたかった。


「あの……、久保さんはどうなんですか」

「俺? 俺は、そうだな。自分やジュリアに関する噂には辟易しているけれど」


 二人の交際説のことだとすぐにぴんと来た。だから先ほど、俺が聞くまでに否定したんだろうか。


「……久保さんはジュリアさんのこと、どう思っているんですか」


 言ってから、しまったと俺は思う。直球で何を言っているんだ! しかも口では勝てないような人間相手にだ。久保会長は意外そうな顔をして俺をじっと見つめる。……その数秒がどれほど長く感じただろう。生徒会室は運動場から離れているため、部活中の掛け声なども聞こえる事もなく、部屋の中はとても静かで、俺は生唾を飲み込む。俺の心中、漏れないように俺は無表情を保って久保会長の視線に圧倒されないように、それだけで精一杯だ。果たしてどれほど耐えられたか自分でも疑問だが。


「きょうだい、のようかな。姉だと思える節もあるし、妹のように可愛いときもある」


 意味ありげに微笑を浮かべる久保会長は少し不気味だ。ジュリアよりもよっぽど奥が深い。こういうところを卑怯だと俺は呼ばないけれど、日頃好感を持てる分、どういう感情を抱けばいいのか分からなくなる。


「ヤマモト君は?」


 仕返しとばかりに訊き返され、俺は目を見張った。この二週間程度でジュリアを語れるほど、俺は出来た人間ではない。答えに困っていると、久保会長は肩をすくめてから俺に帰るように促した。


「お疲れ様。ジュリアが復帰したら続きを働いてもらうから。よろしくね」


 微妙な空気から逃げるように、俺は生返事をして生徒会室を出る。



 question.ジュリアのことをどう思っていますか?

 answer.ただ一人といないジュリアそのものです。


 雨の日が続いている。日々は繰り返され、再び迎えた朝、俺は自分の黒い傘から鞄がはみ出ないように歩き、学校に着く。雨はあまり好きではない。ズボンの裾やスニーカーを気遣いながら歩かなければならないし、ジュリアじゃないけれど俺だって憂鬱にもなる。

 ジュリアの風邪が気にならないといえば嘘だ。やはり俺に責任があるんではないかと考えてしまう。教室の窓際から正門を見下ろしていると、ジュリアが登校してくるのが見えた。俺はほっと安心する。風邪が長引かないでよかった。生徒会室に置きっぱなしにしているバイオリンケースを持っていなくても、彼女の姿はとても目立っている。人に囲まれている彼女は、いつもと同じように人々に笑顔をもたらしているのだろう。

 昼休み、教室で元木と他愛ない話で談笑しながら弁当を食べていると、一人の女子が俺のところにやってきた。


「ヤマモト君、ジュリアさんが呼んでいるけれど」


 控えめに告げた茶髪の女子の言うとおり、ドアから覗くように俺を探している。俺は元木に一言詫びを入れてから、ジュリアの元まで駆ける。


「ジュリアさん! どうしたんですか?」

「ヤマモト君」


 公用の微笑で俺を見上げるジュリアの頬は青白い。大丈夫なんだろうか。そう思っていると、ジュリアは俺のブレザーの裾を持った。


「生徒会室に行きましょう」


 ここには周りの野次馬がいる。いやいや俺とジュリアの仲なんて全然怪しくないですからね! 心の中の叫びも空しく、俺は生徒会室まで引っ張って行かれた。ジュリアが俺の教室に来たのは初めてだ。

 生徒会室の鍵を開けたジュリアが先に室内に入った。社長椅子ではなく、久保会長用のソファに座り、俺に隣に座るように促した。俺はためらいながらもジュリアの横に座る。このシチュエーションは初めてではないのに、緊張してしまうのはどうしてだろうか。


「ジュリアさん、風邪はもう大丈夫ですか」


 俺はジュリアの横顔を眺めながら、質問をする。馬鹿みたいだ。ジュリアの顔を見れば、そんな答えはすぐに分かる。ジュリアが学校を休んだのは二日だけだった。昨日は俺も生徒会室に寄らずに帰った。生徒会にはジュリアが絶対不可欠だという気分になる。久保会長が何を思っているのかも分からないけれど。


「もう大丈夫……。二日も休んじゃって、情けない……。ヤマモトが心配してくれたって、久保に聞いて……」


 風が強いのか、窓の外の雨が強まっているようだった。まるで春の嵐だ。

 ソファの背に縋るように寄りかかり、青白い顔でジュリアは無理やり笑う。こんなときにまで笑わなくたっていいんだ。俺が唇を噛むと同時にジュリアの平衡感覚が狂い、身体が俺のほうに倒れてきた。


「え、ジュリアさん……?」


 その動きはまるでスローモーションのようだった。ゆっくりと倒れてきたと思ったら、ジュリアの全体重が俺にかかって、思わず俺も一緒にソファに倒れそうになった。


「ジュリアさん……?」


 彼女の身体が熱い。大丈夫なんて嘘だ。助けを呼ぶにも、意識のない人間は更に重く感じるし、この体勢では動くのも一苦労だ。それでも俺は腕力を使って起き上がり、ジュリアをそっと黒いソファに寝かせる。


「ジュリアさん、しっかりして下さい!」


 返事はない。呼吸をするのも苦しそうなジュリアを見るのは痛々しい。あの雨の日がなければこんなことにはならなかったのに……。突然の恐怖に襲われる。目の前で誰かが意識をなくすなんて経験は、これまでには皆無だ。

 社長椅子の上から取ってきた白いショールをジュリアの細い身体にかけてみたが、きっとこんなんじゃ足りない。熱が上がるのならもっと寒くなるはずだ。俺は途方にくれた。

 窓の音を鳴らす雨は、まだ止まない。

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