2.
足を組んで社長椅子に座るジュリアに、久保生徒会長がコーヒーを入れたばかりのカップを渡し、微笑んだ。
「お疲れ様です」
「本当に腹立つったらー。久保のクラスは時間よりも授業早く終わっているし! そういうのもむかつくのよー」
「それは僕のせいじゃありませんが」
慣れているのか、生徒会長は何事もなかったように笑う。俺はと言うと呆然とその光景を眺めながら、昨日に話したばかりの元木の言葉を思い出していた。女には何があるって?
「それよりジュリア、ヤマモト君がいらっしゃいましたが」
「あら、そう。気付かなかったー。よっぽど存在感ないのねぇ、あなた」
可笑しそうに笑いながら、ジュリアはカップを持ちながら立ち上がり、俺の座っているソファまで歩いてきた。な、な、なんて失礼な女だ! 俺がそう思っていることを分かっているかのように、ジュリアは俺の隣に座って微笑んだ。微笑だけは立派だ。完璧だった。
「わざわざご足労ありがとー」
「いえ……」
「何を驚いたような顔をしているのー?」
「いや、だって……、ジュリアさんのあんな姿は初めて見ましたので……」
しどろもどろに答えると、ジュリアは再び声をあげて笑った。
「あなた馬鹿ねぇ。あんなに完璧な『ジュリア様』が本当にいたら、それこそ神じゃん」
ジュリアはそう言いながらコーヒーを飲む。俺もコーヒーを飲むことに専念する。ピンク色のコーヒーカップを両手で抱えて飲むその姿は、なかなか間近で見ることのないレナなモノだろう。この機に及んで俺は何を考えているのだ。
「それでー?」
「え?」
「あなた、ここに何しに来たのか分かっているー? 返事は?」
「ああ、はい……。あの、俺はまだ入学したばかりで、生徒会の活動のこともよく知らなくて……、だからもう少し考えさせてもらおうと思っているんですけれど……」
俺が言うと、ジュリアは面白くなさそうに口を尖らせた。
「ヤマモトー」
「……はい」
いつの間にか呼び捨てになっていることに気付きながらも、俺は忠実に返事をする。
「あたしが誰か分かっているー?」
「えと、副生徒会長のジュリアさん……?」
未だに本名を知らないので、そう答えるしかない。するとジュリアは恐ろしいほどの微笑を俺に見せた。
「そう、あたしはジュリアよ。ヤマモトはジュリアの誘いも断るというのー?」
「え……」
「つまらないオトコー」
再び口を尖らしてこの世全てに喧嘩を売るような顔でジュリアは勢いよく立ち上がり、カップを生徒会長に渡す。
「ハンカチを落としたのはわざとなのよ」
俺に背を向けたまま、ジュリアはつぶやいた。
「今、書記が足りていないの。全校朝礼や廊下で時々あなたを見かけていたから知っていたよ。あたしはあなたを欲しかったのに・・・」
ちょっと待て! なにやらセリフだけでは違う意味に聞こえてくるぞ。危険だ!
俺の叫びも虚しく、ジュリアはそのまま振り返らずに生徒会室から出て行ってしまった。俺は急に訪れた静けさに困り、会長を見る。久保会長は困ったように少しだけ目を細めた。
「いつものことだよ」
「……ジュリアさんは、生徒会室ではいつもこうなんですか?」
「ストレス発散がこの程度なら、自由にさせてやりたいと思っている。……それより、ジュリアの言うことは本当だろう。ジュリアはああ見えても、人を選ぶんだ。実は人見知りもするしな。よっぽどヤマモト君がお気に入りに見えるけれど」
会長は肩をすくめて笑った。校内で誰よりもジュリアのことを理解している。そんな顔だった。
俺がお気に入りだと? ふざけるな。
少なくとも俺から彼女に対してアクションを起こしたのはハンカチ事件が初めてだったし、それ以外で彼女に目をつけられる理由なんて考えられない。
「どうだったんだい、生徒会室は」
昼休みに空腹で教室に帰った俺を待ち構えていたのは元木の好奇心による質問であった
。しかし俺はそれに答えられないほど疲労していた。弁当に手をつけようとすると、チャイムが鳴り、結局俺は空腹のまま午後の授業を受けなければならなかった。だけど意気消沈しているのは、空腹のせいではないことを俺は知っていた。
翌日、いつもと同じように早い時間に登校し、窓の外から正門を眺めていると、普段と変わらない様子でジュリアも登校してきた。そしていつもの如く多くの人に囲まれ、バイオリンケースを軽そうに持ち、そのまま校内へと入っていく。あれのどこが人見知りだというのだ。
「おはよう、ヤマモト。今日はいつになく悲壮感漂った表情を浮かべているが……、何かあったんだろう?」
俺の席の前に元木が座るなり言う。
「全てを話して楽になるのも一つの策だと思わないかい?」
計画的犯罪を完全にやり遂げたような顔をした元木を見て、俺は盛大なため息をつく。あのジュリア様が実は二重人格でした、なんて言えるわけがない。口を閉ざす俺を見て、元木は意味ありげに笑う。
「昨日昼休みが終わってからずっと君は調子がおかしかったからね。生徒会のことでも悩んでいるのが一番無難な回答だろう。……で、どうするつもりなんだ?」
「どうするって……」
中学の頃、俺は運動部に所属はしていたけれど、狭い空間での人間関係に疲れてしまったこともある。出来ればあまり狭い場所で人とのつながりを築きたくないというのが本心だった。
だけど断るための文句が見つからない。言葉を探せば、ジュリアの悲しい声が浮かぶ。理不尽を感じても、彼女を思うと何故か自分が悪い気分になってくる。このまま生徒会から逃げていても、きっと俺はこの瞬間を後悔することになりそうだ。
「君が直感で思うことをすればいいさ」
何でもないことのように元木は言う。
「高校生活はいわば青春時代の一ページだからね。僕は君を応援するからさ」
昼休み、俺は昨日と同じ廊下を辿って、同じドアを叩くことになる。
四時間目の授業が若干遅く終わったせいで、すでに廊下はにぎやかだ。ドアを叩くと、中から「はーい」と声がする。久保会長の声だ。なんとなく彼には好感を持てる。俺は胸を撫で下ろしながら、ドアを開けると、向こう側を向いている真ん中の黒いソファで弁当を食べている久保会長が、顔だけこっちに向けた。
「ヤマモト君、いらっしゃい」
「あの、失礼してもいいですか・・・?」
「気構えなくていいよ。もうこの部屋は君のもの同然だ」
昨日と変わる様子もなく、会長は気さくに笑う。俺がおずおずと足を踏み入れると、端の社長椅子に深く座って窓の外を仏頂面して見つめているジュリアが視界に入り、思わず後ずさりしそうになった。しかしそれを止めたのはジュリア自身の声だ。
「ちょっと久保ー、誰に断って侵入を許可するのー?」
「ジュリアだって本当は待ち望んでいたでしょう?」
黒いソファと社長椅子は、距離は離れているものの向かい合っている。しかし何故副会長が社長椅子に座っているんだろう。普通逆だろ。ついでにその言葉遣いもおかしいだろ。ジュリアも久保会長も同じ二年生のはずだが。
ジュリアも久保会長と同じように昼食中だそうだ。しかし会長とは違い、彼女は購買で売られているパンをかじっている。意外だ。彼女ならてっきり可愛らしい小さなお弁当箱に、またまた可愛らしく色鮮やかなおかずや、ハートや星の形の海苔をのせた白ごはんを入れていると思ったのに。
「ヤマモト、何しに来たのー?」
昨日とは大違いで、邪魔者を見る目つきでジュリアは俺を睨んだ。美人が怒ると怖いと言うことを、俺は生まれてこのかた十五余年で知ることとなる。
「あの……、俺、本当に生徒会のこととか、書記のことについて分からなくて……。先輩方にご迷惑をおかけするかもしれなくて……」
「ヤマモト君」
震える俺の声を、今度は生徒会長が遮る。
「君は何をそんなに不安がっているのか知らないけれど、最初は誰だって出来ないこともある。それでも俺たちは君を頼りたいと思うんだ」
「……俺の何を知っているんですか」
俺が言うと、会長は意表を突かれたように笑い声をあげた。
「僕はジュリアを信頼しているだけだよ」
ならジュリアに聞けばいいと思うのだが、俺はしかめ面を直さないジュリアに同じことを問う勇気もなく、そして正直に言えば会長の言葉にびっくりしてそんな余裕もなかったのだ。信頼という言葉を使っている人間を俺は初めて見た気がする。
ジュリアはゆっくりと椅子から立ち上がる。そのたびに俺はびくりと肩を震わせる。年下とは言え一介の男子高生をビビらせるなんて、今更ながらにやはりジュリア、只者ではない。
「ヤマモトー」
「は、はい……」
「昼ご飯食べた?」
ジュリアは俺の目の前までやって来て、黒目の含有率が高い丸い瞳で俺を見上げた。態度は態度でも、俺よりもずいぶんと背が低かった。百六十センチ・・・、あるんだろうか。
「い、いいえ……」
「じゃあコレあげる」
ジュリアは手に持っていたクロワッサンを俺に押し付けた。
「お腹一杯だから、もういらない」
「あの、ジュリアさん」
俺に背を向けて、昨日と同じように部屋から出て行こうとするジュリアを、俺は引き止める。ジュリアは二年三組の教室にいるときとは違った雰囲気を持ったまま、ゆっくりと俺に振り返った。
「……何ー」
この世の全てをつまらないと見せた色の瞳が俺をぼんやりと捕らえる。
「あ、パ、パン……。ありがとうございます」
俺が言うと、ジュリアは意外だというような表情を浮かべ、俺から目を逸らした。黒いソファに座ったままの会長を見ると、面白い試合観戦でもしているような顔で、俺たちを見ている。
「ヤマモト、これをやっておいて」
ロッカーの隣にあった本棚からノートパソコンとリングファイルを持ってきて、ジュリアは言う。
「別に一両日中にとは言わないけど。でもこれはあなたの仕事。分かったー?」
「……これは?」
「あなた書記でしょ? そんなことも分からないのー?」
「ええと……」
「仕事はここですればいいよー。ああ、あなた用の椅子、近いうちに揃えておかなくちゃね。どういうのが好きー?」
「……どういうのって?」
とんとんと話が進んでいくことに対して眉根を寄せる俺をつまらなさそうに一瞥したジュリアは、「いいわ」と一言放ち、今度こそ部屋を出て行った。
俺は手に持たされたノートパソコンとリングファイルとクロワッサンをまじまじと眺めた。
「本当に素直じゃないな、アイツ……」
肩を震わせて苦笑しながら会長は言った。
「それはこれからの年間行事表。ファイルにとじられているのは去年までのもので参考資料だ。予算なども含めて、君にそのノートパソコンで作ってもらおうと思うんだけど」
「えっ、俺がですか!?」
驚いて思わず声をあげた俺に、会長は当然だとうなずいた。
「もちろん僕たちも拝見するし、必要があれば手直しもするよ。でもきっとやりがいになる。好きな場所でやってくれて構わないけれど、ここでよかったら是非放課後もこの部屋に来てくれたらいい。あ、コーヒー飲む? パンにはやっぱりコーヒーだろ?」
慣れた手つきで会長はカップにインスタントコーヒーを注ぐ。どこまで抜かりがないんだこの人……。
渡されたカップは昨日と同じ、某文房具屋のロゴ入りであった。もちろん綺麗に洗ってある。誰が洗うんだろう。少なくともジュリアじゃないよな。ってことはこの会長か? そういえば会計ってまだこの部屋で見たことはないな。
「そのカップは一応客人用だし、今度から自分専用のカップでも持っておいでよ」
この際エルメスでもマイセンでもいいしさ、と会長は恐ろしい冗談を述べてくださった。そんなに俺に気を遣って面白い冗談を引っ張って来なくてもいいです。
それから急に俺は多忙になってしまった。放課後の授業が終わるや否やファイルを持って生徒会室に向かった。
あらかじめ会長から預かっておいた鍵でドアを開ける。会長は放課後に用事があるとかなんとか、俺より来るのが遅くなるらしい。なんとなくこの場所に慣れない俺は侵入者のようなドキドキ感で部屋の中に入り、ロッカーからノートパソコンを取り出してパイプ椅子に座って作業を始める。長机にはもう俺が飲んだカップはなく、ロッカーの上に敷かれたタオルの上に置かれていた。きっとあの後会長が洗ってくれたのだろう。どこまでいい人なんだろう。この際会長を辞職して、執事にでもなればいい。
会長に言われた作業は意外と簡単だった。この学校は創立されて一年や二年ではない。十年近くのデータが出力されてファイルに詰まっていたし、それらを見比べてもほとんどがマニュアルとなっていた。それらを参考にしながら、ノートパソコンに打ち込んでいく。
しかし、その地味な作業は思っていたより時間のかかるものだった。年間行事すら把握していない俺にとっては、なかなか難易度が高い。
「ヤマモト君、働き者だね。部活入っていないの?」
ドアが開くのと同時に会長の爽やかな声が降りかかる。俺はドアのほうに振り向いて、お疲れ様ですと言った。そのままノートに視線を戻した俺に、会長はもう何も言うことはなく、黙ってコーヒーを入れて俺の机に置いた。
「あまり根詰めないで。今日中じゃなくていいから」
会長は微笑み、そのままロッカーからノートパソコンを取り出し(この部屋にはいくつのパソコンが保管されているんだ!)、黒ソファに座ってキーボードの音を鳴らし始めた。
キータッチの音以外、静寂さが部屋を漂う。だけど嫌な感じはしない。とても不思議だ。そうしていると時間が経っていくのを忘れていく。目の前のことに、一直線に集中できる。
どのくらいの時間が経っていただろうか、ガラリと大きな音を立ててドアが開いた。
「あんたたち、いつまでやってるのー? もうとっくに六時過ぎたんだけどー」
バイオリンケースを肩に担いだジュリアのお出ましに、俺ははっと我に返った。今度はジュリアに対してではない。例えるなら、姉の声によって不思議の国から現実世界へと呼び覚まされたアリスのように、俺は何が夢で何が現実なのか境目の輪郭が分からなくなっていた。
「ヤマモト、もう下校時間過ぎているしー。早く帰りましょ」
ジュリアは何の断りもなく、さっきまで俺が使っていた資料やノートパソコンをロッカーの中に片付け、帰り支度をした俺をさっさと部屋から追い出した。
「あ、あの……、会長もまだ仕事をしていたんですけれど……」
「久保はああ見えて生徒会長よー? 仕事量は半端ないの。とにかくあたしたちは帰らなくちゃ」
少しだけ疲れた顔で、ジュリアはつぶやく。ジュリアと二人で並んで歩くのはとても緊張した。だけどもう校内には人がいないので、目撃されなくて済む。
外に出たらもう空は暗かった。つい昨日知り合った人と、しかも校内で一番の有名な女と二人で歩いているのは夢のようだった。俺は何か変な夢でも見ているんじゃないだろうか。
「星が綺麗ー」
ジュリアは自前の語尾を延ばした言い方で、空を見上げた。五月の空は綺麗だとは思わない。それでも負けずに瞬く星。
遠い空を思う。これからのことを考える。そして、俺はもう一度隣にいる人間の横顔を見つめる。
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