海辺の町、それぞれの夏

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それぞれの、2020年夏。

 2020年8月……今年の夏も、うだるような暑さが続いている。

 豊原とよはら学園高校3年生である副島冴香そえじまさえかは、一人、リュックサックを背負い、サイクルジャージとレーサーパンツ姿で競技用のロードバイクにまたがり、海沿いに真っすぐ続く道路をひたすら無心に漕ぎ続けた。


 やがて冴香の目の前に、「ここから礒江いそえ町」という標識が目に入った。

 この町には友人も、親戚も住んでいない。全く見ず知らずの町である。

 知り合いもいない、未だ訪れたことも無い所に行ってみたい、単にそれだけの理由でやってきた。

 みじめな気分から、目を逸らしたい一心で……


 目の前に広がる海原は波も穏やか、海面は真上から太陽に照らされ、キラキラとまぶしく輝いていた。

 冴香は、ロードバイクを降りると、ガードレールを跨ぎ、砂浜に一人降り立った。

 砂に足を取られながらもゆっくりと歩みを進めると、やがてゆっくりと白波が足元まで打ち寄せてきた。

 冴香は、時折子どものように歓声を上げながら、波と戯れた。

 ウエアがずぶぬれになっているのもお構いなしに……

 しばらく我を忘れて楽しんだ後、冴香は砂浜に戻ったものの、あまりにも羽目を外して波遊びをしてしまったため、着ていたものは全てずぶ濡れになり、下着にも沁み込んでいた。


「あはは……やりすぎちゃったかな?」


一応、汗をかいた時のために着替えを持ってきた冴香は、着替えが出来そうな場所を探したが、近くにはトイレやコンビニエンスストアも見つからなかった。

 やがて、白い壁が特徴的な民家が立ち並ぶ街並みが見えてきた。

 ほとんどが民家であるが、何軒か「旅館」という字が記された看板を見つけた。

 しかし、どの旅館もカーテンを閉め切っていたり、「当面休業」の看板を下げていたり……と、開いている様子がない。

 新型コロナウイルスの影響は、この田舎町も例外ではなかった。

 そんな中、冴香は1軒だけ、営業中とみられる旅館を発見した。

「旅館中谷なかたに」という木製の看板が入り口におかれ、玄関にカーテンも敷かれておらず、入り口が少しだけ開かれていた。

 冴香は、ひょっとしたらここならば……と思い、引き戸をギギギ、と音を立てながら開けた。


「ごめんください!開いているんですか?開いてたら、着替えさせてほしいんです!」


 しばらくたつと、体格のいい中年男性が奥の部屋から出てきた。男性はしきりに冴香の全身を見つめ、訝し気に尋ねた。


「着替かい?ずいぶんびしょ濡れだね。ついでだから、風呂に入っていったら?」

「え?い、良いんですか?」

「良いよ。今日もお客さんいないし、遠慮しないでどうぞ。おーい、佳吾けいご!お客さんを浴室まで連れて行ってくれるかい?」

「佳吾さん?」

「俺の一人息子さ。ゆくゆくはここを継いでもらうつもりだけどね」


 すると、坊主頭の少年が、ショートパンツのポケットに手を突っ込んだまま、冴香の前に姿を見せた。この少年が、宿主の言う佳吾であろう。

 佳吾はブスっとした表情のまま、冴香の方を向き、手招きをした。

冴香は、佳吾の背中を追いながら、廊下を歩いた。

歩くたびにミシミシと軋む音が響く中、廊下の突き当りのところで、佳吾は右側の部屋を指さした。


「この部屋に風呂があるんだ。もう沸いてるから、入りたければ入って」


そう言うと、佳吾はプイと向きを変え、冴香の傍を通り過ぎていった。

何というぶっきらぼうな対応なのだろうか?冴香は少し腹が立ったが、やっと着替えができる上、風呂まで入れるとあって、文句は言わずありがたく利用することとした。

風呂は2,3人入れば十分な大きさの家族風呂であったが、沸かしたばかりのお湯はとても気持ちがいい。

しばらく湯船に浸かるうちに、冴香の中でそれまで抑えつけていた気持ちがモワッと湧き上がり、胸が苦しくなった。

やがて冴香の目にはじわじわと涙が溢れてきた。


「どうして……どうしてなの?」


独り言のようにつぶやきながら、とめどなく落ちる涙を拭いた。


やがて気持ちが落ち着いた冴香は、風呂から上がって着替えを済ませ、廊下に出ると、すぐ近くに佳吾の姿を見つけた。

冴香の姿に気づいた佳吾は、極まりの悪そうな顔で、廊下を走り去ろうとした。


「ちょっと、何でここにいるのよ?」

「だって、お前が風呂の中でずーっと泣いてるの、廊下まで丸聞こえなんだもん」

「え!?」


冴香は口を押さえた。

確かに、冴香はずっと湯船に浸かりながら泣いていた。

その声が、ドア越しに佳吾に聞こえてしまったようであった。


「何で泣いてたんだよ?」

「な、何でもないよ。見ず知らずのあなたに話したくはない」

「ふーん……俺には話したくないんだ。じゃあ、良いけど」


佳吾は再び歩き去ろうとしたが、その時冴香は、少しずつ胸中の気持ちを語り始めた。


「私、すごく今、辛くて心が潰れそうなんだ。突然夢を奪われて、自分は今まで一体何のために頑張ってきたんだろうって思って。私、高校の自転車部でロードレースをやってたんだ。こう見えても、全国大会で結構入賞とかしていてさ。昨年のインターハイはあと一歩のところで優勝できなくて、だから、今年のインターハイは、何が何でも優勝したかった。土日も無く、死ぬ気で練習してきた。それなのに……」


すると、佳吾はフフッと口元で軽く笑うと、ボソッと小声でつぶやいた。


「コロナのため、インターハイが中止になりましたあ!チャンチャン♪っていうオチなんだろ?」

「そ、そうだけど、何よ!オチって。人の不幸を笑いのネタみたいに言わないでよ」


佳吾は、必死に訴える冴香の言葉をあざ笑うかのように、大声で笑い転げた。


「ハハハハ、残念だったな。こんなオチになるんだったら、その練習時間をカッコいい男を探したり、受験勉強でもしていた方が、もっと有意義だったし、悔しい思いもしなくて済んだろうな」

「ちょっと、あんた!いい加減にしなよ!」


すると佳吾は、大笑しながら、廊下を踏みしめつつどこかへと歩き去っていった。


「話すんじゃ、なかった……」


冴香は今のみじめな気持ちを忘れようと思ってこの町に来たのに、佳吾の心無い言葉で傷口に塩を塗られたような気分になり、思い切り泣き喚きたいほど胸が締め付けられた。


冴香は旅館を出ると、ロードバイクにまたがり、自宅へ向けて元来た道を再度走り出そうとした。

その時、後ろから誰かが叫びながら、全速力で冴香を追いかけてきた。

そのスピードは、自転車に乗っている冴香の速度に負けるとも劣らない位だった。


「佳吾さん!?……は、速いっ!」


佳吾は、綺麗なフォームでぐんぐんスピードを上げ、あっという間に冴香に追いついた。


「ひとつ、あんたに言い忘れたことがあってさ」


佳吾は、息を弾ませながらしゃべり始めた。


「何よ、また私の心をいたぶるつもり?」

「違うって。俺もさ、今年、インターハイに出る予定だったんだ。200m走でね」

「ええ?ほ、ホント?」

「ああ。俺、1年生の時からずっとインターハイに出てる。今年のインターハイで、俺、陸上を引退しようと思っててさ。一生懸命練習したんだけど、まあ……しょうがないな、世の中こんなもんかな?って思ってね」

「引退、しちゃうの?」

「うん。うちの親父、元気そうに見えるけど、実はがんの治療中で、正直これ以上は仕事続けさせるのが辛くてね。だから俺、陸上を引退して親父の跡を継ぐことにしてたんだ。正直、全力を出し切らないまま終わっちまって、悔しいけど、これも運命だと思って、今は少しずつ手伝いをしながら、いつでも跡を継げるように準備してるんだ」


そう言うと、佳吾は鼻の辺りをこすりながらフフッと笑い、再び冴香に背中を向けた。

「俺、あんたがちょっとだけ羨ましいよ。インターハイは終わりだけど、これから続けようと思ったら、大学でも社会人でも出来るだろ?これから自転車をやめるかどうかは勝手だけど、もし続けられるんだったら、続けろよ。悔いのないようにな」


そう言うと、佳吾は手を振りながら再び旅館へと走り去っていった。

綺麗なフォームで、速度をぐんぐん上げながら、冴香の視界から遠ざかっていった。


自宅に帰った冴香は、スマートフォンで、友達で元陸上部だった井上さりなに電話をかけ、佳吾のことを尋ねた。


「ねえさりな、佳吾っていう名前の陸上選手のこと、知ってる?」

「え?佳吾って、中谷佳吾のこと?」

「まあ、名字は知らないけど、確か、旅館の名前が中谷だったかな……」

「え?それってやっぱり中谷佳吾じゃん。インターハイの200m走で去年まで2連覇してたんだよ。オリンピックの強化指定選手で、大学や社会人から引く手あまただったのに、今年のインターハイが中止になった後、本人が全部断って陸上界から引退したって、私たちの仲間内では有名な話だよ」

「そうだったんだ……」


佳吾のことを思い出しながら、冴香は自分のことを恥じた。

どうしてインターハイが無くなった位で、自転車競技をやめようと思ったんだろう?自分には佳吾のようにやめる理由なんて何もないのに、これから自分の力を試せる場所はまだ沢山あるのに……

その時、さりなが電話の向こうから問いかけてきた。


「そう言えば、冴香はどうするの?こないだ、もう自転車競技をやめたい、って言ってたけど」


冴香はその問いかけに対し、しばらく無言で考えた。

心の中で自分の気持ちをもう一度問いただし、その後ようやく口を開いた。


「色々悩んだけれど、もし続けられるなら、続けてみようかなって。今から間に合うか分からないけど、大学か社会人の推薦、受けられるならば受けてみようかなって」

「その言葉、待ってました!今の冴香なら、まだまだやれると思ってる。応援してるからね」

「ありがと。じゃね!」


電話を切ると、冴香の心の中に渦巻いていた悲しみは、いつの間にやら消え去っていた。

自分にはこれからまだ、やるべきことが沢山あると、強く確信を持った。

佳吾のためにも、そして自分のこれからの人生のためにも。

(おわり)

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