四、桜の花言葉を知っていますか?

 班目和泉という大切な友人を失ってから一年と少しが経ち、遅咲きの桜が満開を迎えていた。日差しが強く風は生温い。

 東京大学への進学を諦め、高校の付属大学である桜花大学へ進学した。両親は桜花大学ではなく、東京大学の進学を望んでいた。理由は明白だった。一族から認目られていないという事だ。僕は、学業と作家を両立する為だと説得した。居候している玉姫神社の六花さんの屋敷からも徒歩圏内で通えるので理に適っている。


 今日から一週間ほど六花さんと兄さんと四葉さんは京都にある姫依の本家で春の宴に出席するため三人が留守の間、神社は人の姿に化けている小梅と小春に任せてある。家事は僕の役目だが時間がある時に出来るだけ書き留めておきたい。

 講義を終えると大学の敷地内で見つけた秘密の花園で定期的に執筆をしている。

 大学のキャンパスから少し離れた裏庭には門がある。

 門を抜けると広大な池の向こう側には桜の木で埋め尽くされ満開に花が咲き誇る。水面に架けられた橋は池の中央に浮かぶ東屋に繋がっている。池の水は透き通り、桜が反射した水面は桃色に染まっている。

 橋を渡り東屋へと歩きを進めるとベンチに座る人影が見えた。

 声をかけようか引き返そうか迷っているうちに気付かれてしまった。

「こんにちは。たまたま通りかかったら素敵な場所だったので。おやつでも溜めながら講義の復習をしようかなと思って」

 テーブルの上には水筒と紙コップ、桜餅が置かれている。

「僕は文学部一年の神条冬野です」

 彼女は一瞬目を見開き、戸惑いを見せたが、すぐに笑顔になる。

「私は、医学部一年の琴桐桜と申します。ここで出会えたのも何かの縁です。ご一緒にどうですか?」

 神条が小説家、柊流であることは世間一般には知られていない。執筆を進める為に来たのだが、これでは執筆ができない。

 断るのも失礼な気がした。

「じゃあ、少しだけ。僕も、講義のノートをまとめておきたいので……」

「決まりですね」

 琴桐さんは水筒から温かい飲み物を紙コップに注ぎ、僕の前に置く。

「レモンティーです。よかったらどうぞ。温かいですけど」

「ありがとう」

 一口飲むと甘酸っぱく、ほっとする。

 どこかで似たような味のレモンティーを飲んだことがある気が……。 

 風になびく髪が邪魔だったらしく、髪留めでくくる、彼女の横顔に胸の鼓動が跳ねた。

「神条君、桜の花言葉を知っていますか?」

 遠い目をして投げかけられた予期せぬ問いにすぐには堪えられなかった。

 心の中を見透かされているような視線に戸惑った。

 急用を思い出したと嘘を吐き、その場から逃げるように走り出した。気になって後ろを振り返ると小さな背中が寂しそうに見えた。


 気が付けば、屋敷の前まで来ていた。胸がはち切れそうだ。苦しくて、呼吸が荒い。


 玄関を開けると、真白さんが驚いた顔をして立っていた。

「冬野さん、おかえりなさい。どうしたんですか? そんなに息を切らして」

「ちょっと、確認したいことがあって……」

「そうですか。今日は私が夕餉の支度をしたので、冬野さんはゆっくりしてください。今、お茶を淹れますね」

「ありがとう。執筆もしないといけなかったから、本当に助かるよ」

 僕は靴を脱ぎ、広間へと向かった。


 広間で寛いでいると真白さんが入って来る。手にしていたお盆に二人分の茶碗と茶菓子が乗っていた。

「冬野さんのお茶、茶柱が立っていますよ。何かいいことがあるかもしれないですね」

「原稿の締め切りが延びて欲しい」

 真白さんがくすくすと笑う。

「何か変かな?」

「いえ、気分を害されたなら謝ります。冬野さんがあんなに慌てる姿は初めて見た気がして、ちょっと嬉しかったです」

「うれしい? 何で?」

 真白さんは茶碗に視線を落とす。

「だって、冬野さんは頭脳明晰で鏡花さんと似て顔立ちも整っていて、非の打ちどころがないじゃないですか。完璧な人間が存在するんだって思っていました。でも、今日の冬野さんを見て、やっぱり人の子だなって」

「買いかぶり過ぎだよ。僕は間違ってばかりだし、今日だって……」

「今日だって……。何ですか?」

 詰め寄る真白さんの顔が近い。

「まさか、彼女さんが出来たんですか?」

 突拍子のない言葉にお茶を吹き出しそうになる。

「違うよ。たまたま、大学の敷地内で知り合った女子がいて、初対面のはずだけど、その子に貰ったレモンティーがどこか懐かしくて。いきなり『桜の花言葉を知っていますか?』って聞かれて……ごめん、何言っているんだろ」

「それで、逃げてきてしまったと……」

 情けなくて顔が熱くなっていく。

「彼女のお名前は?」

「琴桐桜さん。医学部一年生って言ってた」

「では、私たちと同期生で、四葉さんの後輩ですね。音楽科のキャンパスは少し離れていますが、今度、お会いしてみたいです」

 真白さんが茶碗を置く。

「桜の花言葉はいくつかあるんですよ」

「僕は花については疎い方だからな……。作家としてあるまじきだよね。今度調べておくよ」


 僕は自室の本棚から辞書を取り出し、花言葉を知らべる。

 桜の花言葉は……。真白さんの言った通りだ。全般の花言葉は精神美、優美な女性、純潔、だけど桜の種類にもよるのか。枝垂れ桜には淡泊、ごまかしとある。

 ごまかしか……。僕は僕自身を誤魔化していないだろうか。時々、怖くなる。

 彼女の質問は何だったのだろうか? 今度、会えた時に聞いてみよう。

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