第十二回 餞別

 目が覚めると、中庭だった。照りつけるような日差しだった。

 何をしていたのか、記憶は殆ど無かった。焚火を起し、酒を二口飲んだところまでは覚えている。しかし、それから先の記憶が曖昧で、首から下げたお守り袋も何処かに消えている。

 痛飲したのだろう。だが、頭は驚くほど軽かった。よく寝てすっきりした感覚に近い。

 境内の井戸で顔を洗い、庭師の装束に改めた。それから境内に穴を掘り、為松の首を埋めた。似正と小坊主の遺体は、いずれ役人なり檀家が始末してくれるはずだ。

 腹は括った。夢枕に為松が立った、というわけではない。何故か、死ぬなら典礼と刺し違えようと思えたのだ。それで糞虫に等しい走狗いぬの命も、才之助の役には立つ。

 出立前に、境内の隅に建てられた小屋に立ち寄った。五畳ほどの広さで、調度品の類は殆ど無い。表向きは寺男である為松は、この小屋で起居していたのだ。

 次郎八は、小屋の隅にある床板の一部を取り外した。床下には葛籠が隠されていて、中身は武具や忍び装束だった。

 忍刀・苦無・手裏剣・撒菱・鉤縄・目潰し・煙玉・鎹・吹き矢・毒・万力鎖。それらを忍び装束に包んで、背中に巻き付けた。

 妙義寺を出ると、その足を小石川へと向けた。

 嘉穂屋の寮へ続く森の小径を歩いていると、見張り小屋の前で声を掛けられた。


「何の用件かね?」


 浪人が二人が、道を塞いで訊いた。以前に相手をした男はいなかった。


「嘉穂屋さんに話がある。通してくれ」

「約束は?」

「無い。だが、急ぎなんだ」

「約束の無い者は通すなと言われている」

「相手が次郎八でもか?」


 そう言うと、次郎八は小指の無い右手を見せてみた。

 浪人二人が顔を見合わせる。どうやら、何かしらの指示はあったのだろう。それはつまり、こちらの来訪を予見していたという事だ。

 寮に入ると、滑蔵が応対に出てきた。


「急に押し掛けて申し訳ない」


 そう言うと、滑蔵は首を振った。


「旦那様は、次郎八さんがお越しになるのを待っておりましたよ」

「俺を待っていたのか」

「口では何も申されませんがね。死ななければ次郎八さんは来るはずと踏んでいたのです。だから外出もせず、誰にも会わず、見張りにも通せと伝えていたのでしょう」


 滑蔵の案内で、いつもの十畳に通された。暫く待たされたのち、嘉穂屋は滑蔵と一緒に現れた。


「為松が死にました」


 嘉穂屋が座ると、次郎八は口を開いた。


「そのようでございますね」

「和尚も小坊主も、死なせてしまいました」

「それも存じております。何しろ、あなたが阿芙蓉と酒で涅槃を彷徨い、何やら喚いていた間、あの寺に誰も踏み込ませなかったのは、私が滑蔵に命じて手を回したからですよ」


 部屋の隅に控えていた滑蔵が、軽く頷いた。だが、その時の記憶が次郎八にはすっぽりと抜けていた。


「あなたは生き延びてくださいました。それで十分です」

「生き延びたわけではございません。生かされたのですよ。小娘が、自分の一生を投げ出す事で」

「左様ですか」


 嘉穂屋の眼に、哀れみの光が宿っていた。

 江戸の両国を切り取るだけでなく、阿芙蓉の売買を独占するこの男には、今の自分は負け犬に映るのだろう。

 それならそれでもいい。嘉穂屋を訪ねたのは、後事を託す為なのだ。


「それで、今日はどのような用向きで?」

「別れの挨拶と、面倒な頼まれ事を二つお願いしようと思いまして」


 軽く頭を下げる。嘉穂屋の表情は変わらなかった。


「では、まずは頼まれ事からお聞きしましょうか」

「もし私が死んだ時、与兵衛長屋にある家の始末を一つ。なにぶん、私が頼める相手は死んでしまったものですから」

「いいでしょう。そして、もう一つは?」

「これも私が死んだ後の事ですが、これを天宮神社に届けてくださいませんか?」


 と、懐から書状を一通差し出した。


「天宮神社?」

「ええ。あの神社には、私の銭を預けていますので」


 書状の内容は、残った銭の使い方だった。預けた銭で為松の借金を返し、残ったものは理子に渡して欲しいと記してある。天宮神社は、次郎八のような裏の人間を相手にした闇の両替商。銭を預かるだけでなく、死後の銭の処理まで商いの一部として受け持っているのだ。


「それも承りましょう。大獄院仙右衛門とは昵懇ですからねぇ。しかし、先程から次郎八さんは死ぬ事ばかり申されますが、それが別れの挨拶という事なのですか?」

「ええ。私は典礼を斬ります」

「ほう」

「弟分をられたんですから。それがけじめというものでしょう」

「敵討ちでは、逆縁というものになるんですがねぇ」

「それは武士の間の決め事。俺たち裏の世界には通用しません」

「確かに」

「嘉穂屋さん。以前にあなたは典礼について色々調べてみると申されたが、何かおわかりになりましたか?」

「ああ、その件ですか……」


 嘉穂屋が一転して、バツの悪そうな表情を浮かべた。


「わかるにはわかりましたが」

「何か、不都合でも」

「まぁ、多少」


 と、嘉穂屋は苦笑いを浮かべた。


「実は、次郎八さん。典礼の後ろ盾になっているのは、益屋淡雲ますや たんうんという男でしてねぇ。この名前は、ご存じでございましょ?」


 次郎八は頷いた。

 益屋と言えば、根岸一帯を仕切っている首領おかしらだ。今の縄張りを先代から引き継いで以降、地味だが着実に勢力を伸ばしているという。

 また人の道に逸れた悪党を極端に嫌い、人道にもとる悪党を手下に命じて始末しているという噂は、次郎八も何度か耳にした事がある。

 裏の首領おかしらという悪党であるというのに、悪党を嫌い狩っている。欺瞞のように思えるが、それが益屋の声望を高めているのは確かだ。


「お恥ずかしい話ながら、私との関係がよろしくない」

「でしょうな」


 即答すると、嘉穂屋は驚いたような表情を浮かべ、そして苦笑した。

 益屋は悪党を憎む。一方の嘉穂屋は悪党の権化のような男だ。まるで、水と油。それ以外でも、商売上でもぶつかる事があるのだろう。嘉穂屋と同じく、益屋は幾つか手掛ける商売の中では、両替商に力を入れている。


「つい最近、坂田屋万吉と柳本庄九郎をおりになったでしょう。これは幕閣のとある筋からの依頼でしたがね、二人は益屋さんは非常に近しい関係でございました。故にお断りをしようかとも考えておりましたが、何せ相手が相手ですからねぇ。断りようがなく、それで無理を承知で次郎八さんに声を掛けたのですよ。しかも柳本が襲われる直前にいた賭場は、赤目の権蔵という益屋さんの妹婿が受け持っておりました。自分の賭場の帰りに襲われて死んだ事で、権蔵は益屋さんにお叱りを受けたそうで。次に典礼をあなたが斬れば、益屋さんは私から喧嘩を仕掛けられていると思う事でしょう」

「つまり、今は事を構えたくないと」

「そういう事ですな。いや、いずれはぶつかるでしょうがねぇ。その時は受けて立つつもりですが、今ではない。首領おかしら同士の喧嘩は、多くの血が流れますし」


 次郎八は、思わず鼻を鳴らしそうになった。

 しかし、これが嘉穂屋という男なのだ。不利益となるとわかれば、容赦なく切り捨てる。信じてはいなかったが、多少の期待はしていた。だから、腹立ちも僅かだった。

 それにしても、妙義寺で自分を我が子のように思っていると言った嘉穂屋の台詞を聞かせてやりたい。


「しかし、私は典礼を斬りますよ。誰が何と言おうと」

「それは、次郎八さんの勝手というもの。私には関係ございません」

「益屋は疑いませぬか?」

「疑うでしょうな。しかし、私が動かぬ限りは何とでも言い逃れが出来る。典礼が江戸の屋敷に入る今夜、私はこの寮で一人の手下も動かさずに息を潜めていればいいのですよ」


 そう言った嘉穂屋が、にやりと微笑んだ。


「屋敷の傍を流れる川に、猪牙舟がありましてね。船頭は、伝左衛門という名前だったでしょうか。今夜は牝鯉めごいを釣り上げると張り切っておりましたよ」

「そうなると、私は川に牝鯉を放流せねばなりませんね」

「左様で。牝鯉は座敷牢の生けに囲われておりますが、今夜にも俎板の上に載せられるでしょうなぁ」

「そこを私が攫うと」

「床下から川に出れるような仕組みになっておりましてねぇ。そこに放てば、伝左衛門が釣り上げてくれるでしょう」


 それで、次郎八は全てを察した。

 今夜、典礼は牛込の屋敷に入る。理子は座敷牢に捕らわれていて、今夜典礼の前に引き立てられる。そこを襲って、理子を床下から川へと逃がせば、永野伝左衛門が保護してくれるという事か。


「私が出来るのは、ここまですよ」

「十分です」

「では次郎八さんとのご縁も、今日限りでございます。私とお前さんとの間には、何の関係も存在しない。今世では、もうお会いする事もございますまい」


 そう言い残し、嘉穂屋は立ち上がった。

 嘉穂屋の袖から、書きつけが一枚落ちた。それが、典礼の屋敷の見取り図である事は一目でわかった。


「餞別ですよ」


 次郎八は希代の悪党に向かって、したたかに平伏した。

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