第四回 血風
林道に入って十五本目の欅。目印は、木の幹にある僅かな傷。上を見上げると、枝に黒い風呂敷が括り付けている。風呂敷の中身は、忍刀と装束、そして種々の忍具だった。事前に次郎八が準備したものだ。跳躍して木の上に飛び乗って着替えを済ますと、ようやく忍びらしくなった。
「兄貴」
闇の中から声がした。下を向くと、白目だけが浮かび上がった。
「来たのか」
顔まで隠した忍び装束だが、それが為松だとはすぐにわかった。
次郎八は音も立てずに、下に飛び降りた。
「へぇ。思いの他、簡単に切り上げられたんで。兄貴の一両が効いたんでしょうね。奴ら上機嫌で帰してくれやした」
覆面越しに嬉々として語る為松も、元は忍びだった。その手腕は信用に能うもので、特に密偵働きは自分以上だ。これまでは他人と組まなかった次郎八であるが、為松なら安心して命を預けられる。
「そいつは良かった」
「ここからは俺も加勢しますよ。折角なんだし」
と、為松は懐から
鉄の輪に、分銅付きの鎖が三つ繋がっている暗器だ。これを投げたり振り回して使う武器で、為松が最も得意としているものである。
「お前の腕を疑ってはいないが、実戦は久し振りだろう」
為松が探索、自分は実戦と何となく決めていたところがある。勿論、全く密偵働きをしないわけではない。今回の
「久し振りって、去年の夏以来ですよ。それに、今まで
「そうかい」
為松は、熊本藩の忍びだった。厳しい掟に縛られた生活が嫌になり、抜け忍となった。当然激しい追跡に遭い、東へ東へと逃げていたという。
為松と出会ったのも、追っ手との戦いの最中だった。殺しの
五人は粛清の為に放たれた忍びだけあって、中々の手練れであった。しかし、始末屋として腕を磨いた次郎八にとっては、相手ではなかった。
それから為松を嘉穂屋の寮へ連れて行くと、嘉穂屋が熊本藩に掛け合って話をつけてくれた。お陰で為松は嘉穂屋に莫大な借金を作る羽目になったが、本人は狙われるよりはマシだと言っている。
自分らしくない真似とは思ったが、為松の姿にかつての自分を重ねてしまったのだろう。自然と身体が動いていた。
次郎八も抜け忍だったのだ。ある主命を果たした後、破久礼衆を抜けた。それは深く考えたものではない。殆ど、衝動的だったと言ってもいい。
次郎八も為松同様に、厳しい追跡だった。寝込みを襲われ、厠でも襲われ、立ち寄った茶屋で痺れ薬を盛られそうにもなった。今思えば、こうして生きているのが不思議に思えるほどだ。際限のない逃亡の日々で堆積した疑心が、自分を阿芙蓉に走らせたとも思う。
抜け忍としての日々は、突然終わりを告げた。江戸へ上っていた藤林三蔵を、闇討ちしたのである。
芯まで冷えそうな、雨が降る冬の夜だった。深川の料亭をほろ酔いで出てきた帰り道を、天水桶の陰から躍り出て襲った。厳しい追跡で精神が摩耗し、どうせ死ぬならと逆襲しようと決めてから一年後の事だ。三蔵を
噂によれば、三蔵を討たれた後に後継者争いに発展し、抜け忍どころではなくなったという事らしいが、本当のところは不明だった。
「そろそろ来やす」
為松が声を潜めて言った。
この林を抜ければ、柳本の別宅がある。何故、このような辺鄙な場所に構えたのか、次郎八には何かが感じるところがあるが、それは自分には関係の無い話だ。
「俺が柳本を仕留める。お前は足止めと露払いだ」
「ほい来た」
為松は胸を叩くと、跳躍し木の上の人となった。毛深い小男の為松の動きを見ると、まるで猿のようだ。身の軽さでは、為松には敵わない。次郎八は道を挟んだ、対面の茂みに潜む事にした。
気配を消し、草木と同化する。柳本は酔っているとはいえ、使い手である。少々の変化も見逃さないほどの腕はあるだろう。
足音が近付いてくる。提灯の灯り。胸が高鳴った。奥歯を噛み締める。殺しの前は、いつもそうだ。この緊張感だけは慣れる事が無い。そして、慣れてもいけないとも思う。
家人たちの声。今度ははっきりと聞こえた。笑っている。目の前を通り過ぎようとした時、次郎八は首から下げたお守り袋を握った。阿芙蓉。あともう少しで吸える。
鈍い轟音。為松が微塵を放った。柳本たちの低い呻き声が聞こえたと同時に、次郎八は茂みから飛び出した。
柳本が顔を押さえている。分銅が掠めたのか、鼻が潰れて血が噴き出している。
こちらに気付いた。目が合った。憤怒の色。慌てて刀を抜こうとするが、既に遅い。次郎八は柳本に殺到して忍刀を一閃させると、首筋から血飛沫が上がった。
「おのれ」
二人の護衛。刀を既に抜いていた。
「兄貴」
と、為松に名を呼ばれた。
治郎八は咄嗟に伏せた。すると再び微塵が放たれ、頭蓋を砕く鈍い音と共に、二人の護衛が斃れた。
◆◇◆◇◆◇◆◇
柳本を始末した次郎八は、忍び装束を解いて再び庭師となった。忍刀も装束も風呂敷に包んで、背に括り付けている。
駒込を足早に立ち去った次郎八が、湖面から伝う生ぬるい風と共に不穏な気配を感じたのは、
周囲を伺ったが、遠くに月明かりに照らされた
人を斬った後だ。敏感になり過ぎたのかとも思ったが、用心の為に次郎八は跳躍して生い茂る木の枝の中に身を隠した。
我ながら小心者だと思う。用心深さは忍びにとって美徳だとは思うが、そんな自分が殺しに向いていると言った林蔵は、何を見ていたのだろうか。
(しかし、何事も用心に越した事はないな……)
次郎八の読み通り、不穏な気配が激しい闘争のものに変わった時、
「おのれ、待て」
男の声が聞こえた。それは一人だけでなく、足音と声から四人はいるであろう。
次郎八が枝葉の中から顔を出すと、四人の武士が一人の男を取り囲んでいる。五人は既に抜いていて、闇夜に抜き身が妖しい光を放っていた。
(剣呑だな)
四人の武士はいずれも若く、一方の男は胡麻塩頭の初老である。おまけに何か所か傷を負っている上に、駆けて息を切らしたのか、両肩が激しく上下させていた。この調子では、死ぬのを待つだけの状況だろう。
何かしらの遺恨だろうか。武家の世界ではよくある事だ。次郎八も、遺恨に関わる
(面倒は御免だ。さっさと退散するか)
と、隣りの木へ飛び移ろうとした刹那、囲まれた男の背後に付き添う存在に目が留まった。
子供だった。前髪付きの武家の少年。歳は十歳にも満たないだろう。近所に住む、才之助ぐらいの年頃だった。
四人の武士が気勢を挙げ、斬りかかって来た。男も応戦して幾つかの斬撃を弾いたが、それでも肩と脇に浅からぬ傷を受けた。
「まだまだ」
傷だらけの男は崩れ落ちそうになるが、何とか踏ん張って正眼に構えた。
(あれは)
次郎八は、目を見開いて後ろ姿を凝視していた。
傷だらけの男は、持木九兵衛だったのだ。すると、傍にいる少年は才之助という事になる。
やはり訳ありの親子だったか。前々から臭うところはあった。仇持ちか、仇討ちの旅をしているのか。理由こそわからないが、ぬぐい切れないきな臭さ、影を抱えて生きる同種の臭いがあった。
「覚悟しろ」
今度は二人が斬り掛かる。持木の正眼が動いて一人の斬撃を防いだと思ったが、もう一人の刺突が脇腹を貫いていた。
「父上」
才之助が悲鳴を挙げた。小娘のような甲高い絶叫は、次郎八の耳ではなく胸を劈いた。
あの時と同じだ。あの夜もそうだった。俺が殺した、幼い娘と母親。宙に舞う首。才之助の悲鳴が、かつての光景を脳裏に蘇らせた。
「糞ったれ」
と、次郎八は背にした風呂敷の中の忍刀を抜き払うと、勢いよく飛び降りていた。
着地と同時に繰り出した
「貴様、何者だ」
勿論、答えるはずもない。自分自身、何者として関わっているのか皆目見当もつかない。
「構わん、
残った二人の武士が殺到する。交代で繰り出される攻撃を、次郎八は身体を逸らす事で躱していく。
腕は大した事は無い。剣は使えるが、道場剣法だ。人を斬った経験が無いのだろう。斬撃に腰が入っていない。だから持木も、あのように切り刻まれるのだ。使い手なら、一撃で仕留める。
模範を示すように、下から斬り上げて始末した。
「他愛も無いな。四人で寄ってたかって、爺さん一人を膾にするだけの事はある」
「糞っ」
最後の一人の顔が歪む。激情に駆られたかと思いきや、男は踵を返して逃げ出した。
(情けねぇ)
その背中に向かって、苦無を放つ。
一つ。二つ。そして、三つ目で、男が斃れた。
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