第五回 朝餉

「この子を、守ってくだされ」


 それが持木が残した、最後の言葉だった。

 燃えるような眼で、懇願された。気圧された次郎八が頷くと、才之助に視線を移して微笑み、そして息を引き取った。

 誰から? という、次郎八の問いには答えぬままだった。

 残された才之助は、両眼に大粒の涙を浮かべていた。男のくせに、とは思わなかった。男とて、泣く時もある。


「立て。話は後だ」


 次郎八は才之助の腕を掴むと、乱暴に引き立てた。この少年にどんな事情があろうと、長居は無用である事には変わりはない。

 しかし、才之助はそれを拒んだ。腕を振って強引に解き、死んだ持木の傍を離れようとはしない。まるで駄々をこねる幼子のようだ。


「何があったか知らんが、いつまでも留まっていていい場所じゃない。親父さんも逃げろと言ったろう」


 才之助が首を振る。糞ガキめ。そもそも、自分が守ってやる謂れはない。ご近所の義理は、四人を始末する事で果たしている。後は好きにしろ。俺には関係の無い事だ。

 次郎八は踵を返して立ち去ろうとしたが、脳裏に持木が才之助と二人で引っ越しの挨拶にやって来た時を思い出し、足を止めた。

 晩春の昼下がり。持木と才之助は、荷物を抱えて与兵衛長屋へやってきた。才之助は不愛想だったが、持木は腰の低い男だった。次郎八にも、卑屈と思うほど頭を下げていたのが印象に残っている。そして、挨拶の品とばかりに差し出した煮豆。甘くて、旨かった。

 次郎八は大きく舌打ちをして、振り返った。


「来い、いいから来るんだ」


 才之助を、肩に担ぎ上げた。暴れるかと思ったが、才之助は観念して、


「歩く」


 と、だけ短く言った。

 この夜は、次郎八の長屋に才之助を泊めた。才之助が口を閉ざしたままだったので、次郎八は何も言わなかった。というより、聞き出す気力が無かった。一晩で五人も始末したのだ。こんな経験は、破久礼衆の時にも無かったと思う。

 才之助を布団に寝かせ、次郎八は畳に横になった。


「疲れた……」


 思わず呟いていた。

 阿芙蓉が吸いたい。でなければ酒だ。酒はまだ瓢箪にあるはずだ。

 そんな事を考えながら、次郎八は瞼を閉じた。


◆◇◆◇◆◇◆◇


 炊飯の心地よい香りが次郎八の鼻腔を凪ぐと、あれほど重かった瞼がゆっくりと上がった。

 目が覚めると、炊かれた飯の匂いがするなど、何年振りの事だろうか。少なくとも、江戸に来てからは一度もない。破久礼衆の里で、他の孤児たちと一緒に暮らしていた以来だろう。大きな屋敷で、孤児たちは共同で暮らしていた。その世話をしていたのが、寡婦となった女たちで、覚えているだけで三人はいた。

 彼女たちは、交代で飯炊きや洗濯をしてくれた。忍びの修行から戻ると、女たちが温かく迎えてくれた笑顔を今でも覚えている。

 しかし妙だ。自分には女房もいないし、飯炊きも雇ってはいない。これは夢なのか? とも思ったが、それも違う。

 その異常さに気付いた次郎八は、慌てて布団を蹴り上げて身を起こした。

 土間に才之助が立っていた。目が合うが、才之助は微笑みもしなければ、「おはよう」とも言わない。ただ、次郎八の眼をじっと見つめるだけだ。


「お前」

「お米は、わたしの家から持ち出しました。薪とか道具はお借りしましたが」


 才之助の声は、幾分が高い。声変わりはまだなのだろう。


「……そうか」


 いや、違う。他に言う事があるだろうと思いつつ、次郎八は無言で立ち上がると手拭いを持って外に出た。どういうつもりかは、後からでも訊ける。それよりまずは、完全に活動していない頭を覚す方が先だ。


(しかし、俺も鈍くなったものだな)


 思わず自嘲したくなる。同じ部屋で才之助があれこれと動いているのに、全く目を覚まさなかったのだ。以前なら微妙な変化を察知して、すぐに目を覚ましていたというのに。阿芙蓉と酒が身体を蝕んだのか、或いは老いというものか。兎も角、これでは忍びは失格であるし、始末屋としても先が知れている。

 外へ出ると、陽は高かった。溝板をガタガタ言わせながら井戸に行くと、女房衆が飽きもせず井戸端会議に花を咲かせている。

 与兵衛長屋は貧乏人ばかりだが、亭主は真面目な働き者ばかり。その稼ぎだけで暮らしていけるので、女房衆も暢気なのだ。


「ちょっと、治郎八さん」


 案の定、捕まった。しかも、その相手は一番煩いお園だ。

 次郎八は、軽く挨拶をして桶の水で顔を洗った。


「さっき、ちらっと見掛けたんだけどね。どうして、あの子が次郎八さんの所にいるんだい?」

「あの子?」

「しらばっくれるんじゃないよ。持木様のお子だよ。あの子があんたの家に入っていくのを見たんだよ。重そうな荷物を抱えてね」

「ああ、あれは米だ」

「ちょっと、あんたまさか」


 お園がそう言ったので、取り巻きの女房達が顔を見合わせて大仰に驚いた。


「おいおい、かどわかされた奴がまだ戻ってくるかよ。しかも米を持ってさ」

「じゃ、米持ってこいと脅したとか?」

「馬鹿言うんじゃねぇよ。俺はそんなに困ってねぇ。毎日飲み歩いているぐらいだぜ?」

「確かに……」


 しかし、これからどうなるかわからない。持木は死んだ。その持木から守ってくれと託された。何からかわからないし、それに従う義理はない。しかし、事実として才之助が家にいる。その言い訳は必要だろう。


「頼まれたんだよ、持木の旦那に」

「へぇ、あんたに。なんて?」

「留守にするから、見てやってくれとね。あの旦那、浪人者で他に家族はいないらしいし、この長屋で独り身は俺だけだからね。そりゃ、あんたらに預けた方が安心だろうが、亭主と子供ガキを抱えた上に他人の子供ガキまで見れんだろうという、旦那の深慮さ」


 我ながらよく喋る。そんな事を思いながら説明すると、お園たちは簡単に納得してしまった。

 家に戻ると、才之助が朝餉の準備を終えようとしていた。

 炊いた飯と古漬けの沢庵。そして、豆腐の味噌汁。どうやら、米の他に食材と食器まで、自分の家から持ってきたようだ。


「どういうつもりだ?」


 土間に立ち尽くす才之助を素通りした次郎八は、吊るした瓢箪を手に取って、五畳の上りに腰かけた。

 次郎八は、庭師・次郎八の口調には改めなかった。昨夜、才之助は裏の顔を見ている。ならば、本来の次郎八を隠す必要はない。


「お礼です。昨夜の」

「そうか」


 そう言って、次郎八は瓢箪の酒を二口呷った。


「あの」

「何だ?」

「あっ……ありがとうございます」

「そんな事より、礼を食わせてくれ」


 そう言うと、才之助が頷き準備に取り掛かった。

 その様子を黙って眺めながら、次郎八は不思議な気分に襲われた。俺は何をしているのか。いや、これは俺なのかと思えてくる。

 膳という上品なものは無いので、食器をそのまま畳に置いて、二人で朝餉を摂った。

 味は悪くない。味噌汁がやや薄いと感じたぐらいだ。沢庵は太めに切る方が好きだが、以前に持木から貰った漬物は薄く切られていた。つまり、料理は親父に仕込まれたという事が伺える。持木が袖を絞って飯を作っているところを、朝帰りをする次郎八は何度か見掛けた事があった。

 こうした才之助の料理を肴に、瓢箪を呷った。朝から酒を飲む次郎八を、才之助が目を丸くして見ている。


「これか? 酒だよ」


 と、言ったら慌てて俯いた。

 浪人の子ではあるが、あまり世間というものを知らないらしい。世の中には、朝から酒を飲む怠惰の者もいるのだ。


「それで」


 全てを平らげた次郎八は、箸を置くと口を開いた。才之助は既に食べ終えている。


「何があったんだ?」

「……」

「夢だったなんては言わせんよ」


 才之助は口を真一文字にして、黙ったままだ。


「だんまりを決め込んでも、状況が良くなる事はない。お前は誰かから追われている事はわかる。今日にも奴らが来ないとも限らん。俺はお前の親父に、お前を守ってくれと言われた。それを律義に果たしてやる義理はないが、ご近所様の縁なので、考えてやらん事もない。だが、お前を何から守るのかさっぱりわからん」


 そこまで言っても、才之助は口を開こうとする素振りは無い。


「お前、俺が追っ手を始末したのを見たろ?」


 才之助が小さく頷く。どうやら耳は聞こえるようだ。


「ならわかるだろ?俺とて、色々と秘密がある人間だ。少々の事では驚かぬし、人に言う事もない」


 才之助に、口を開く素振りはない。修羅場を目にして、しかも目の前で父親を殺されてもなお、言おうとしない。頑なに喋らず押し黙ったままというのは、それだけ闇が深いという事だ。


「まぁいい。俺はお前がどうなろうと知った事ではない」


 次郎八は立ち上がると、素早く身支度を済ませた。最後に戸棚にしまっていた匕首ドスを取り出し、腰の後ろに差した。


「俺は出掛ける。お前は好きにしろ」

「え?」

「日暮れまでには戻る」


 座ったままの才之助を無視し、上りに腰かけて草鞋を履いた。

 これから、嘉穂屋に会わなくてはならない。昨夜、別れ際に嘉穂屋への伝言を為松に頼んでいた。為松に嘉穂屋を紹介したのは次郎八だが、今では為松の方が嘉穂屋に近しい。勿論それは、為松が嘉穂屋に莫大な借金をしているので、それを返す為に細々とした使いをしているという事もある。


「あの」


 才之助が、初めて自発的に言葉を発した。


「どうした?」

「わたしは、この家にいてもよろしいでしょうか?」

「ほう。喋らないのに、家にはいらせろとはな」

「……」


 また、才之助が下を向く。まったく、面倒くさい子供ガキだ。


「俺の所にいようが、自分の家に帰ろうが、俺がいないのでは変わらんと思うがな」

「ですが」


 それ以上は、才之助は何も言わない。次郎八は溜息を吐くと、腰の匕首ドスを才之助に放った。


「何かあれば大声で叫べ。そして振り回せ。近所の連中には、俺が言っておく」


 そうは言ったものの、与兵衛長屋の連中に何と言おうか。お園はあれでも、妙に勘が働く女だった。

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