第六回 巣窟
嘉穂屋の寮は、
寮全体を鬱蒼とした木々が覆っていて、それが伝通院と周辺の塔頭寺院とに繋がっているようで、遠くから見ると一つの大きな森に思える。
寮へと続く
良い森だと、次郎八は此処を通る度に思う。
森は手入れをしていなさそうで、ちゃんと枝打ちは定期的にしている。手入れをしていない森というものは、すぐに人が通れない酷いものになるのだ。一見して管理をしていなさそうにして、ちゃんと手入れをしている。その塩梅が絶妙で、これを手掛けているのが、次郎八の師匠である藤蔵だった。
次郎八が庭師として頼まれるのは、母屋の庭である。この森の手入れを任される事がない。そこに藤蔵への篤い信頼があるのだろう。
歩きながら、大きく息を吸い込んだ。静かで、何もない。名も知れぬ野鳥が鳴き、水分を含んだしっとりとした木々の匂いが、阿芙蓉と酒で穢れた身体を浄化してくれそうな気がする。
(しかし、悪党にしては悪くない趣味だ)
両国広小路で両替商を営みながら、暗殺・買収・暴行・恐喝・誘拐・密売と悪徳の限りを尽くして、江戸の裏でそれなりの勢力を築いた強欲な
その途中に掘っ立て小屋があり、軒先に置かれた長椅子に腰かけた浪人二人が、将棋を指していた。
二人とも三十そこそこ。身なりこそ小綺麗にしているが、その視線には深い翳りがある。いとも容易く人を斬れる、自分と同種。彼らは、嘉穂屋の用心棒である。
寮への入り口で、侵入者を見張っているのだ。勿論、迷い込んだだけではどうこうする事は無い。大体は、凄んで終わりである。嘉穂屋はこういう浪人者を何人も抱えていて、昼夜を問わず守らせている。
「おう」
次郎八の顔を見て、浪人の一人が将棋を指す手を止めた。嘉穂屋との面会で、何度か会った事がある男だ。
「久し振りじゃねぇか、八の字」
そう言って、男が腰を上げた。相手は馴れ馴れしく話しかけてくるが、この男の名前が思い出せない。
「そうだな」
「嘉穂屋さんに聞いているぜ、難しい
「まぁね」
「どうりで朝から上機嫌なわけだ」
「そうかい」
そんな態度をしていると、隣りに座っていた浪人が次郎八をひと睨みした。町人の分際で、と思っているのかもしれない。
「やめろ。こいつは俺の恩人だ。口数が少ねぇ野郎だが、悪い男じゃねぇよ。それに、べらぼうに強ぇ」
そう言った男が行けと言わんばかりに首をしゃくったので、次郎八は片手を挙げて再び歩き出した。
俺を恩人と言った。何かしたかな? と思ったが、すぐにある日の光景を思い出した。
次郎八が嘉穂屋の依頼を受けるようになった際に、一度だけ腕試しをやらされた。その相手が、先程の浪人だったのだ。それも、この寮の庭で行われた。嘉穂屋と数名の用心棒に見守られる中、竹刀を手に取り素面素籠手の三本勝負だった。
まず次郎八が一本を取った。前に出て来るのを待って、胴を抜いた。二本目は小手を取られ、三本目は長い膠着の末に次郎八が男を投げ飛ばし勝利した。
勝とうと思えば勝てた。しかし、完勝してしまえば男は職を失うかもしれないし、変に恨みを買うかもしれない。彼の顔を潰さぬように、わざと負けてやったのだ。
立ち合いの後に名乗り合ったが、やはり最後まで名前を思い出せなかった。
寮の母屋への小径は、まだ続いている。
ふと、与兵衛長屋に残してきた才之助の事が頭を過った。
持木か才之助を訪ねる連中が来たら、知らないと言ってくれ。お園だけには、そう伝えていた。
「それはいいけど、あんたは何処に行くんだい?」
「俺かい? 手慰みっと言いたいところだが、ちょいと馴染みの
「かぁ、あんたって人は。子守りをほっぽり出して、女遊びなんざ最低だね」
「へへ。どうにもこうにも治まらねぇもんがあるんだよ。なんなら、お園さんが相手してくれてもいいんだぜ?」
「もう、馬鹿言うんじゃないよ」
そう口では言うが、頬を赤らめた四十路前の小太り女は、満更でもなさそうだった。お園の豊満な身体は、吸いつき甲斐がありそうだ。この手の女を好む男には堪らないものがあるかもしれないが、生憎自分の好みではない。
「しかし、あの子に何があるってんだい?」
「持木の旦那は、
などと言って、興味津々なお園に幾らか握らせた。
我ながら適当な嘘だと笑いたくなったが、どうせ持木は死んでいるし、才之助がお園たちに身の上話を聞かせるとは思えない。
だが話を聞いたお園は、握らされた銭を一瞥すると鼻を鳴らし、
「この長屋にゃ、あたしだけじゃないからねぇ。お喋りな女も多いし、その子たちにも頼まなきゃならないよ」
と言うので、更に銭を掴ませると、嬉々として「任せときな」などと胸を叩いた。
お園は、それなりに信頼は出来る。銭を握らせれば、尚更だ。
そうこう考えていると、小径は途切れれ僅かな畠に出た。嘉穂屋が戯れに始めた農園だった。幾つかの野菜がなっているが、特に目もくれずに進むと、母屋から三人の男たちが出迎えのように現れた。
「ようこそお出でくださいやした」
そう言ったのは、嘉穂屋の片腕と言われる
歳は自分と余り変わりがない。一見して商家の番頭のように見えるが、その本性は中々えげつないものがある。人を殺すのも、痛めつけるのも、女を手籠めにするのも平然と出来る類の男だ。その点では、表の用心棒と変わらない。つまり、嘉穂屋の周囲には、そんな悪党ばかりしかいないのだ。当然、その中には自分自身も含まれてはいる。
「為松から話を聞いております」
「嘉穂屋殿は?」
「おりますよ。当たり前じゃございやせんか。大きな
この男の口調は、どこまでも丁寧だった。それ故の凄みというものもある。それだけではなく、その手腕も白眉だ。事実、滑蔵が老齢の嘉穂屋に代わって裏の仕事の細部を見ているのだ。
◆◇◆◇◆◇◆◇
客間に通された。
十畳ほどの広さで、床の間には黄色の花が生けられ、山水画の掛け軸が飾っている。それ以外に、調度品は無い。
品の良い客間だ。品が良すぎて、生活の臭いがしない。嘉穂屋は、表向きの稼業を婿養子に譲ってからは殆どの時間を寮で過ごし、両国広小路の自宅に戻る事はないと聞いていた。それにしては、人が暮らしの中で発する生活臭というものを、この寮から感じた事が無かった。
「やや、次郎八さん。お待たせしたね」
嘉穂屋が現れたのは、客間に通されてから幾分か経った後だった。まだ、待たされたという感覚も無い。
総白髪の、身体が小さくなった老爺だ。皺が深く垂れ、
こんな枯れ切った老いぼれが、両国一帯の裏を取り仕切るだけでなく、玄界灘を経由して流入する阿芙蓉を捌いている。剥き出しの野望を抱く男には、どうしても見えない。しかし、それが嘉穂屋という男だった。
「いやはや、ちょっと急な来客がありましてねぇ」
「いえ」
嘉穂屋ほどの男になると、会いたがる者も多いだろう。幾ら滑蔵が出来る男だと言っても、嘉穂屋が顔を見せて収まる話もある。
「次郎八さん、ようやってくださいました」
「まぁ、為松には手伝ってもらいましたが」
「いやはや、それでも見事なもんですよ。短い間に立て続けに」
一度に二件の殺し。そんな
「お前さんなら、見事に成し遂げてくださると思いましたよ。依頼人もさぞ喜んでいるでしょうねぇ」
と、そこまで言うと、両手を二度叩いた。
すぐに滑蔵が、三方を持って現れた。今回の報酬だろう。袱紗で隠してある。
「滑蔵、次郎八さんに」
「はっ……」
滑蔵が次郎八の目の前に置き、すぐに客間を出て行った。
「今回の報酬です。どうぞお収めください」
次郎八は小さく頷いて袱紗を取ると、黄金色の塊が目に入った。
今回の報酬の半金。四十両。にしては、少し多い気もする。
「無理をしていただきましたから、それなりの色は付けておりますよ」
「それはありがたい。……それで、これが」
次郎八は、今回の報酬の中から二十両を嘉穂屋に差し出した。
「ああ……」
嘉穂屋がその二十両を見つめ、思い出したように呟いた。
「それで足りますかね?」
「ええ、十分でございますよ。最近はやや売買を緩めましたから。市井に流す量を押さえたら、思いの他に値が高騰しまして。それはそれで儲けが出るのでいいのですが、同時に売れなくなってしまいます」
全て阿芙蓉の事だ。依頼の報酬を受け取る度に銭を渡し、決まった量を受け取るようにしている。
「ですが、今回はこちらで」
と、嘉穂屋は二十両から半分の十両だけを受け取った。
「よいのですか?」
「ええ。これも今回のお礼という事で。無理をしたのですから、お疲れでしょう。〔窟〕の準備もしておりますよ。しかし、やり過ぎはいけませんぞ。中毒で死ぬ事もございますからねぇ」
再び滑蔵が現れ、油紙に巻かれた上に紐できつく縛られた塊を持ってきた。
最後に吸ったのは、いつだろうか。今回の
だが、今は自分を縛るものは無い。見ただけで、吸いたくなる。全身が
そうした衝動を抑えて、手に取る。そして懐に仕舞おうとした時、才之助の顔が頭をよぎった。
すれ違って声を掛けても、何の返事もしない不愛想な顔。父親を斬られて、大粒の涙を浮かべる顔。そして、今朝の顔。今まさに、次郎八の帰りを待っているであろう才之助の顔。
それに、夕暮れまでには戻ると言ってしまった。〔窟〕で吸ってしまえば、帰りは明日になる。
(糞ったれ)
どうして、俺はこんなにも甘いのだ。奴は他人だ。無視してもいいし、放り出してもいい。持木の頼みなぞ聞いてやる義理も無い。
しかし――。
「嘉穂屋さん」
と、次郎八は手に取った阿芙蓉を、嘉穂屋の前に返した。
「これはどういうつもりですかね?」
深い皺に隠れた眼が、一瞬だけ光ったような気がした。それは、数々の修羅場を踏んだ次郎八でさえ、たじろいでしまうような強い光だった。
「嘉穂屋さんが預かってくださいませんでしょうか?」
「ほう。それはよろしいですが、何故?」
「いや、深いわけはないのですがね。嘉穂屋さんが言った通り、阿芙蓉は快楽を得られるが、その代わりに身体には良くない」
「然り。だから私はしないのですよ」
「今回の
「それはいけませんな。次郎八さんはこれからが働き盛りだ」
「ですので、暫く控えようと。なに、全く止めるというわけではないのですが」
すると、嘉穂屋は腕を組んで、二度ばかり頷いた。
「よろしいでしょう。なら、この嘉穂屋が責任を持ってお預かりしますよ。万が一、吸いたくなっても、この私が頷くほどの
嘉穂屋は半ば冗談交じり言うと、闊達に笑った。
次郎八も合わせて笑ってみせたが、内心では自分の甘さへのやり場のない怒りが沸いたが、暫くは阿芙蓉も酒も控えようと決めた。
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