第七回 夜襲
嘉穂屋の寮を出た次郎八は、その足で
応対に現れた巫女に用件を伝えると、若い禰宜が本殿の方から出てきた。いずれこの神社を継ぐ、宮司の息子である。社務所と渡り廊下で繋がった一間に案内され、証文と嘉穂屋から受け取った報酬を渡した。
「確かに、三十五両お預かりいたします」
禰宜は次郎八の目の前で丁寧に銭を数えると、部屋を出て行った。
暫く待たされた後、新しい証文を持って戻って来た。社務所にいる宮司から一筆貰ったのだろう。次郎八は、証文に記された文言・額面・名前・印鑑を確認して頷いた。
「随分と貯まっておりますよ。ちょっと働き過ぎかもしれませんねぇ」
そう言われ、次郎八は苦笑を浮かべて応えた。
特に何の為にと思って貯めている銭ではない。阿芙蓉と酒、生きる為の経費を差し引けば、残りは余分なものなのだ。
「しかし、そうでもしてくれないと、私らの商売は成り立ちませんな」
「それはおかしい。禰宜さんの商売は、祭祀だろう?」
「いえいえ、次郎八さんが働けば、それなりに神葬祭が必要になるのですよ」
「なるほど、そういう事か」
「左様。我らは一蓮托生なのでございますよ」
そう言うと、禰宜が不敵な笑みを見せた。
天宮神社は
浪人を雇い入れて警備させるだけでなく、次郎八のような忍び崩れも使って、賊の侵入を防いでいる。更に江戸でも随一の実力を誇り、〔江戸の親父〕と呼ばれては親しまれている、浅草一帯の
何かにつけて縄張りを拡大しようとする裏の
(誰か
そう感じたのは、天宮神社の境内を出た時だった。
両国や日本橋に比べて人通りは少ないが、神社の周囲には寺社が多く、参拝客もそれなりにいる。当然、門前には甘味茶屋や種々の商店が軒を連ねている。そんな中で、妙な気配に気付いたのだ。
振り向いても、追跡者らしき人影は無い。ならばおびき出そうと、小径に入って誘っても乗ってこない。間違いなく、玄人の仕業である。
人殺しを商売にしている次郎八にとって、敵の存在は珍しい事ではない。虫けら同然の命だが、それを奪わんと欲する者は片手では数えきれない。これも始末屋の宿命と受け入れているが、今の次郎八には才之助に由来する尾行だと思えてならない。
(随分と鼻の良い奴らだ)
ともすれば、才之助の身が危ない。真昼間から踏み込む事はないだろうが、このままでも不味い。
しかし、奴らだという確証も無い。俺と才之助を繋ぐものは何も無い。保護している所は、誰にも見られていないはずだ。知っているのは、お園と長屋の連中ぐらいか。
(まさかな)
ならば、わざわざ俺を尾行する意味は無い。連中の目的は、才之助であって俺ではない。兎も角、早々に尾行を巻いて戻るべきだろう。その為には、無言の追跡者との駆け引きに勝利しなければならない。
その尾行は、浅草から本所深川へ抜ける事で何とか振り切る事が出来た。相手は相当な手練れだ。才之助を狙う奴らではないにしても、気を引き締めなければならないだろう。
江戸の街並みが茜色に染まろうとする頃、やっと次郎八は与兵衛長屋に戻る事が出来た。
この時分になると、与兵衛長屋もすっかりと落ち着いている。井戸端でたむろするお喋り雀どもは、愛する家族の為に自らの巣に戻り、せっせと夕餉の支度に追われているはずだ。
無口な雀も巣に戻ると、そこには無口な上に不愛想な雀が待っていた。相変わらず挨拶一つしないが、そんな才之助の顔を見て、ホッとしている自分に次郎八は驚いた。
その才之助が、夕餉の支度をしていた。
「お前は、俺の飯炊きになったのか?」
次郎八の問い掛けに、才之助は口を開かない。お喋りよりはましだが、これでは何も進まない。
「何か変わった事は?」
首を振って応えたが、すぐに何かを思い出したのか、
「あのっ」
と、続けた。
「先程、お園さんが来ました」
「何をしに?」
「夕餉の菜のお裾分けだと思います……」
「他に何か言ってなかったか?」
「事情は次郎八さんに聞いているから安心しなって」
「そうか」
六畳の小上りに腰かけると、才之助がすかさず水を張った盥を運んできた。不愛想だが、この辺りは気が利くようだ。父親に仕込まれたのだろうか。
「ありがたいが、お武家がする事じゃないな」
「すみません……」
「冗談だ。それより腹が減った」
「すぐに用意します」
六畳に腰を下ろした次郎八は、まだ幼いというのに飯の支度をせかせかとしている才之助を眺めて、不思議な気分になった。
忍びとして働き、里を抜けてからは執拗な追っ手を躱し続け、遂に里の首領を討ち果たした。そして、今は凄腕の始末屋として働いている俺が、因果を含んだ前髪付きと暮らし、飯の支度までさせているとは。
それにしても、才之助の横顔は娘のような柔らかさがある。次郎八にその道の趣味は無いが、もし持木を助けたのが男色家であったらと思うと、才之助はもっと感謝してもいいはずだ。
夕餉が用意された。飯と味噌汁。そして漬物。これは今朝と変わらないが、夕餉は
「これは、お園さんが」
「へぇ、ありがたいな」
次郎八が味噌汁に手を伸ばすと、才之助はそれを待っていたかのように手を合わせて箸を取った。
小癪なほど、飯は旨い。飯や味噌汁は言うに及ばず、鰯の塩加減も焼き具合も丁度いい。
視界に土間に吊るした瓢箪が目に入ったが、
(料理の腕だけは、俺以上だな)
そもそも、次郎八は味に頓着はしないので、自分で作る飯も腹が膨れればいい程度にしか考えていなかったし、そこに楽しみを見出すような生き方はしなかった。
ふと、次郎八は才之助に目をやった。
飯を頬張る時だけは、硬い表情もやや和らいでいるように見える。その才之助が潤目鰯に口をつけようとした時、次郎八は衝動的と思えるような動きで、才之助の腕を掴んだ。
「待て。まだ食うな」
「まさか」
才之助は馬鹿ではないのか、次郎八が言わんとする事をすぐに察した。
「用心の為だ」
「しかし、もう一匹は既に……」
「今になって気付いたんだよ。それに俺のものに毒が仕込まれていないと言って、そちらに毒が無いとは限らない。お前が食って死ねば、それでよし。俺が食って死ねば、お前など簡単に始末出来るからな」
「そんな」
「覚えておくといい。敢えて、一匹に毒を仕込むってやり方は、毒使いの常套手段だ」
覚えておいて、何の役に立つのだ。次郎八は思わず自嘲したくなった。思えば、破久礼衆で学んだ事の殆どは、堅気の生活では役に立たないものばかりである。江戸の裏で生きているからこそ活きているが、自分は何の為に生まれたのだと思う事もある。
「ですが、これはお園さんが」
そう言う、才之助を次郎八は無視した。お園が追っ手である可能性は無いに等しいが、誰かに頼まれたかもしれないし、才之助の口に入るよう仕向けられたかもしれない。それはそうとして、才之助に身辺への注意を促す意味もある。
次郎八は、潤目鰯を切り分けて、色や臭いを確かめた上で恐る恐る口に運んだ。
「あっ……」
という制止も無視した。
舐るようにして、味を吟味する。破久礼衆で毒についても学んでいて、口に入れる時の注意も身に付けている。
「大丈夫そうだ」
そう言って、細切れになった鰯を才之助に手渡した。流石に才之助は苦笑いを浮かべたが、その顔は少女のように涼し気でもあった。
◆◇◆◇◆◇◆◇
その夜は、寝巻にはならなかった。
才之助は筒袖と袴。次郎八は腹掛けに股引。手甲から脚絆に足袋。庭師装束のまま。いつでも動ける格好で、布団も敷かずにごろんと横になっている。
「次郎八さん」
初めて才之助に、名前を呼ばれた気がした。
真っ暗な部屋の中。眠ったと思っていた。
「まだ寝ていないのか?」
次郎八は、天井の染みを見つめながら答えた。才之助も上を向いている。
「話があるんです」
「言ってみろ」
「私に剣を教えてくださいませんか?」
「悪いが、俺は剣客ではない」
「しかし、続け様に何人も」
「不意討ちだ」
「それでもいいのです。わたしは」
「親父の仇を討ちたいのか?」
「はい」
力強い声だった。出会ってから、初めて耳にする強い意志だ。
「なら、全て話せ」
「……」
「俺が親父の仇討ちをしてやる。だから話せ」
「話せば、次郎八さんも巻き込んでしまいます」
「お前も勘付いているだろうが、俺は堅気ではない。裏街道をずっと歩んできた人間だ。常に厄介事を抱えている身の上なのだ。今更、一つや二つ」
才之助を横目で一瞥した。両眼はきょろきょろと動き、話すべきかどうか逡巡しているように見えた。
「あの……」
才之助が意を決して口を開いた時、次郎八は身を起こして
「待て」
と、制した。
肌を刺すような殺気。気配は遠いが、確かにある。足音は多数。隠しているようで、隠しきれていない。昼間の連中では無さそうだが。寝巻にならなくて、本当に良かった。
次郎八は枕元に置いていた
「これからって時に、無粋な奴らだ」
「まさか」
「奴らが来やがった。俺の敵かお前の敵かわからんが、どちらにせよ逃げるのが先だ」
次郎八は、
外で待ち構えていた一団があっと驚き、慌てて刀を引き抜こうとする。四人。全員、頭巾で顔を隠してる。次郎八は、
三つの呻きと、刀が落ちる音。しかし、もう一人は無理だった。
抜き打ちの光が見えた。才之助を押しのけ、左肩で受けた。傷は深くはない。それだけを、次郎八は確認にした。
「ほう。今のを躱すとは、やるではないか」
低い、それでいて熱感が微塵も無い声だった。
「躱しちゃいない」
「首を狙ったつもりが、肩を軽く掠めるのが精一杯だった。つまり、躱されたようなもの」
「全盛期なら、最初の一撃でお前を
逆手に
「その娘を放せ。さすれば、お前だけは見逃そう」
「娘?」
思わぬ一言に、次郎八は虚を突かれた。男が斬り込む。
才之助の悲鳴。夜の静寂を切り裂く声は、やはり娘のものだった。
「騒ぐな。小指の一本ぐらい屁でもない。それに、俺は左利きだ」
目の前の男の後ろには、三人が刀を拾って控えている。腕に傷を負わせたつもりだったが、どうやらまだ戦えるようだ。
「次郎八と言うそうだな? 庭師とは聞いていたが、中々どうして」
「ただの庭師さ」
「最近の庭師は、殺しも教わるのか? その構えといい、只者ではない」
「それを問う、お前らは何者だ?」
そう語り掛けながらも、次郎八の頭は独楽のように回転していた。
この状況をどう打破すべきか。四人を打ち倒す事は無理だ。撃退も至難。或いは、逃げるか。逃げるなら、何処へ? ならば、火事だと叫ぶか? 長屋の連中が出てくれば、流石の連中も引き上げるだろう。しかし、それからの説明が面倒だ。
「話すわけがなかろう」
男がさも当然かのように吐き捨て、正眼に構えた。
見事な構えだ。如何にも道場で鍛えました、と言わんばかりの構えだが、板張りの剣術を馬鹿には出来ない。これからは、失った右手の小指がそれを教えてくれるであろう。
「そうだろうな」
と、次郎八は懐に忍ばせていた、煙玉を地面に叩きつけた。
白い噴煙。それは、目に染みるほどの猛烈な悪臭を放つ煙だった。
「逃げるぞ」
次郎八は、才之助の手を引いて駆け出した。
手の感触。娘と思えば、そう思えなくもない。
「おのれ」
「逃がすな、追え」
激しく咳き込むも、四人が追ってくる。与兵衛長屋がある
「待て」
四人が食らいついてきている。次郎八は、懐の
「死ぬ気で走れ。息が切れたら、俺が担いでやる」
才之助は、必死でついてきている。お前がいなければ、もっと速く走れるし、何なら跳躍して屋根の上も駆ける事が出来る。本当にお前と言う奴は。
川が見えてきた。
次郎八は、すぐに察しがついた。嘉穂屋の寮からの帰りに、
左右に四人。そして、背後から四人。計八人か。こいつは、いよいよやばい。
影が跳躍し、舞い降りて来る。それは高度に調練された忍びの動きだった。
「我慢しろ」
次郎八は、駆けながら才之助を抱えた。
頭上からの斬撃。躱そうとしたが、幾つか受けた。背中に何かが刺さる。構わず駆ける。目の前には川。大川の支流・
次郎八は、漆黒の川面に迷わず飛び込んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます