第二回 依存

 藍を塗りたくったような、見事な晴れ空だった。

 風は微かに吹く程度で、日差しも穏やかだ。今川町いまがわちょうから佐賀町さがちょうへ抜けていく人々の足取りも、妙に軽い。

 しかし、次郎八にとっては違った。陽の光が大川の川面に反射し、二日酔いで重い頭を抱える身には忌々しいほど眩しかった。

 本所押上で万吉を始末した次郎八は、猿江さるえにある相棒の家で一夜を明かした。

 相棒は為松ためまつという名で、主に密偵として働いている男だ。取り分は次郎八が七で、為松は三。これを基本として、働きによっては色をつける事もある。本当は半分ずつでもよかったが、為松が固辞したのだ。働きに応じた額でいいと。だから、相棒にしたというところもある。

 その為松に万吉を始末したと報告し、忍び装束から衣服を改めた後で痛飲した。為松は意外と料理達者で、それが余計に酒を飲ませる。

 阿芙蓉と同じくらい、酒も好きだった。深い酔いは、不安や鬱屈など身の内に巣食う恐怖を紛らわす。そして阿芙蓉を吸えない寂しさを、酒だけが満たしてくれるのだ。いずれは、酒毒か阿芙蓉の毒で死ぬだろう。或いは、誰かに殺されるか。

 鯨飲が祟ったのか、帰り道に二度も吐いた。それで幾分かむかつきは取れたが、嘔吐による口の中の不快感は如何ともし難い。


(あれは)


 自宅がある霊岸島れいがんじま塩町しおまち与兵衛長屋よへえながやに戻ると、木戸門の傍に少年が立っていた。

 ひと月ほど前に引っ越してきた、浪人の子供だ。名前は才之助さいのすけ。歳は十になるかどうか。母親は死んだのか、父親と二人暮らしである。粗末な恰好なりをしていて、遊び盛りだというのに、色は白く無邪気さが無い。身体の線も年の割り細く、見るからに軟弱だった。これでは長屋の悪たれどもに虐められるだろうと思ったが、この少年は他の子どもと関わる事がない。日がな一日、父親と二人で過ごしているのだ。他人ひとの事は言えた身分ではないが、何とも気味が悪い。それでいて、訳ありの臭いを感じていた。

 その才之助と目が合った。何か言うわけでもなく、無表情のままで鋭い視線を次郎八に投げかける。


(そういえば、こいつは愛想も無かったな)


 微かな腹立ちも覚えたが、子供ガキ相手にムキになる事もないと気を取り直し、


「よう、日向ぼっこかい?」


 と、声を掛けた。


「……」


 しかし、才之助は返事もせずに、そっぽを向いた。


(いけ好かない子供ガキだ)


 次郎八は肩を竦めて、才之助の前を通り過ぎた。

 才之助の父親、持木九兵衛もちぎ きゅうべえは才之助の父親とは思えぬ好人物だ。貧乏浪人ではあるが最近までは主家持ちだったのか、浪人特有の野卑た臭いを漂わせてはいない。挙措は武士らしさに溢れているが、威張るような真似はせずに、長屋の者には笑顔で腰を低くして付き合っている。だからか、長屋の連中には好かれていて、夕餉の菜を何度かお裾分けされているのを見た事がある。


「ちょっと、次郎八さん。朝帰りかい?」


 井戸端で世間話に花を咲かせていた女房連中が、声を掛けてきた。


「ああ、そうだよ。だからキンキン声で話さないでくれ。頭に響くんだよ」

「毎晩飲み歩いている次郎八さんでも、二日酔いになるんだねぇ」


 与兵衛長屋でも、古株のおそのが言った。肥えた女で、声も大きくがさつだが、何かと気が付く女で、長屋のおっ母さんのような存在だ。


「しかし、庭師ってのはそんなに儲かるのかねぇ? うちのひとなんて、徳利の底まで舐めるように飲んでいるのに」

「儲からねぇよ。だから賽子コレなのさ」


 と、壺を振る仕草を見せた。

 次郎八の表の顔は庭師であり、もう七年ほど働いている。最初の三年は嘉穂屋の世話で、両国の藤蔵とうぞうという親方の下で修業し、四年前に独立した。

 修行には自分でも驚くほど夢中になり、


「八の字、てめぇは細けぇはさみ使いは言う事ねぇよ。後は刈込を伸ばせば一端に食っていけるぜ」


 そう言われ、柄にもなく照れたものだ。その縁で、今でも藤蔵の手伝いをする事もある。

 庭師は嫌いではない。だが、あくまで本業は始末屋。故に、食えるだけの技能と〔庭師〕という肩書きを得た今は、仕事ヤマを踏んでいない時に依頼を受けている。

 それで、近所では庭師の次郎八と認知されていた。今も庭師の格好ナリである。しかも博打好きのやくざ者を装っているので、始末屋稼業での収入で散財しても怪しまれる事はない。


「ほんと、嫌な男ね。うちのひとを誘わないでよ」

「へん、誰か誘うかってんだ。貧乏人と一緒にいたんじゃツキが落ちるってもんよ」


 次郎八はお園たちに背を向けると、話は終わりだと言わんばかりに片手を挙げて、自らの棲家に引っ込んだ。


(疲れた……) 


 戸を閉めた次郎八は、深いため息を吐いた。

 人ひとりした後、痛飲した挙句に全身を刺すような日差しの中で、女房連中とのおしゃべり。本当に疲れた。特に喋る事は、本来は無口な次郎八にとって苦痛以外の何物でもなかった。

 極度の無口さ故に、郷里では〔口無し〕と呼ばれたほどだったが、江戸へきて始末屋として働くと決めた時に、その性格を必死に改めた。


「裏稼業で生きていくのなら、普通に暮らさねばならないよ。無口で何をしているかわからない奴というのは、すぐに目を付けられるからね」


 と、最初に世話になった首領おかしらから言われたのだ。

 次郎八は、水瓶の水を柄杓ですくおうとした時、水面に映った自分の顔を見て、思わず手を止めた。

 そこには、髭面の情けない中年男の顔がそこにあった。

 昔に比べたら、かなり顔に肉が付いた。数日触れていない無精髭が、余計に太く見せる。


(情けない……)


 次郎八は、柄杓で自分の顔をかき消した。

 かつてに比べたら、嘉穂屋から受ける仕事ヤマは緩いものだ。故に、太ってしまうのだろう。だからとて、昔に戻りたいとは思わない。

 喉の渇きを満たすと、布団も敷かずに横になった。

 染みだらけの天井。細かい隙間があった、激しい雨が降ると雨漏りがする。望めば、もっといい棲家に変える事も出来る。谷中にも巣鴨にも、一軒家を買い受けるほどの蓄えはあるのだ。しかし、かつての自分を思えば、これだけでも贅沢なのだと思って引っ越しを出来ないでいる。

 次郎八は、走狗いぬだった。いや、今でも走狗いぬかと問われたら否定は出来ないが、少なくともかつては自分の意志で生きる事は出来なかった。

 かつて次郎八は、〔破久礼衆はぐれしゅう〕と呼ばれる三河みかわ西大平藩にしおおひらはんの忍びだった。元々は足軽の子だったが、三つの時に破久礼の里に引き取られた。売られたのか、乞われたのかはわからないが、物覚えがついた時には既に忍びとしての修行をしていた。父母の顔もわからない。足軽の子というのも、元服した時に頭領である藤林三蔵ふじばやし さんぞうに聞かされたに過ぎないのだ。足軽の子というのも、確証はない。そもそも、自分の本当の名前すら知らない。

 里では、大きな屋敷で育てられた。自分のような孤児が二十人ばかり集められ、一緒に暮らすのだ。その子供たちも、厳しい修行の中で一人減り二人減り、十五歳になる頃には半分にまで減っていた。

 破久礼衆の下忍として、独り立ちをしたのは十六の時だった。当時の藩主・大岡忠宜おおおか ただよしは、幕府の大番頭を務めるだけあって何かと敵が多く、江戸にも国元にも政敵が放った密偵が溢れ、足を引っ張る材料を探っている状況だった。

 そうした中で、次郎八は主に国元での防諜を命じられた。密偵を探り出す他、裏切った藩士を洗い出す役目も担っていた。

 初めて殺した人間は、西大平藩士だった。粛清しろと、命じられたのだ。同士討ちという感覚は無い。普段は山の中に住んでいる次郎八にとっては、どうでもいい存在だった。

 後ろから組み付いて首を掻き切った時、


「人殺しとは、こんなものか」


 と、思ったぐらいだった。ただ、浴びた生き血の温かさだけは、今でも思い出す事がある。

 十八歳の時に、役目を替えられた。新たな役目は、暗殺だった。


「お前は殺しの才がある」


 三蔵はそう言うと、破久礼衆が持つもう一つの顔を語ってくれた。

 それは西大平藩の暗い世界を支配する、首領おかしらとしての役割。三蔵は忍びでありながら、藩の許可を得て西大平の裏に手を伸ばし、忍びの力を駆使して一つにまとめ上げたのだ。

 そんな三蔵の下には、様々な願い事が舞い込む。その中の一つが殺しの依頼であり、次郎八がそれを担う事になったのだ。

 ひたすらに命令を受けて、人を屠る日々。得られる報酬は、今思えば極端に少ない。今では一人殺すのに何十両も取っているが、あの頃は鐚銭で人を殺していたし、それが当たり前と思っていた。

 走狗いぬだった。命じられたままに動く、走狗いぬ。あの頃に比べたら、今の生活は極楽のようなものだ。

 好きな時に、好きなように働ける。嘉穂屋の下で始末屋をしているが、それは自分が望んで続けているだけだ。かつては、望む事すら禁じられていた。悠々自適とも言える生活をしている。これ以上、望むべき事は無い。

 このまま死んでいくのだろう、と常々思う。何の変化もなく、身体が動く限り人を殺し、いずれは殺されるか、阿芙蓉か酒の毒で死ぬ。先が見える最期だ。

 人殺しとして、自らが幸せになるという事は禁じている。妻帯をする気も無い。このまま、誰の記憶にも残らず死んでいく。何も残さずに死んでいく。走狗いぬの末路にはお似合いではないか。


「まぁ、お園さんったら」


 耳を劈くような笑い声が、次郎八の思念を断ち切った。

 相変わらず、女房衆の井戸端会議がキャンキャン煩い。よくも毎日、話しの種が尽きないものだ。


(酒か、阿芙蓉か……)


 無性に阿芙蓉の煙を喰らいたいところだが、長屋では駄目だと嘉穂屋に念を押されている。吸える場所は、嘉穂屋の寮に設けた〔くつ〕と呼ばれる場所だけだ。

 阿芙蓉は分限者の嗜み。次郎八も銭は貯め込んではいるが、真っ当な分限者ではない。阿芙蓉を贖う銭は、驚くほど血で汚れている。表向きは庭師である次郎八が吸っている事が知れると、公儀の眼に止まるかもしれないのだ。非合法な始末屋という稼業は勿論、阿芙蓉は幕府専売のご禁制である。


「次郎八さん、阿芙蓉というものはご存知ですかな?」


 ふと、嘉穂屋の言葉を思い出した。

 あれはいつだったか。五年以上は前の、冬の日だった。長い殺しの稼業が祟ってか、心の沈底に堆積した亡者の呻きに苛まれ、眠れない日が続いていた。幾ら酒を飲んでも、悪夢しか見ない。次郎八自身が亡者のような顔付きになっていた。

 そんな時に、嘉穂屋から阿芙蓉を勧められたのだ。嘉穂屋は、玄界灘の抜け荷に絡んでいて、多くの阿芙蓉を仕入れている。故に、幕府が流通させる物よりも安い金額で用意出来るとも言われた。

 次郎八は、その誘いに乗って試した。それは無上の極楽だった。もう阿芙蓉無しではいられないと思った頃に、嘉穂屋に止められた。そして阿芙蓉の毒を叩き込まれ、考えて使えるように仕込まれた。実際に廃人になった公家や花魁も目にした。阿芙蓉を吸えば極楽だが、いずれは地獄が待っている。


(酒だな)


 次郎八は土間にぶら下げた瓢箪に目をやった。あの中には、酒が半分ほど入っている。しかし、動くのが億劫だった。少し手を伸ばしてみたが届くわけもなく、ゆっくりと迫りくる睡魔に身を委ねる道を選んだ。

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