第二回 依存
藍を塗りたくったような、見事な晴れ空だった。
風は微かに吹く程度で、日差しも穏やかだ。
しかし、次郎八にとっては違った。陽の光が大川の川面に反射し、二日酔いで重い頭を抱える身には忌々しいほど眩しかった。
本所押上で万吉を始末した次郎八は、
相棒は
その為松に万吉を始末したと報告し、忍び装束から衣服を改めた後で痛飲した。為松は意外と料理達者で、それが余計に酒を飲ませる。
阿芙蓉と同じくらい、酒も好きだった。深い酔いは、不安や鬱屈など身の内に巣食う恐怖を紛らわす。そして阿芙蓉を吸えない寂しさを、酒だけが満たしてくれるのだ。いずれは、酒毒か阿芙蓉の毒で死ぬだろう。或いは、誰かに殺されるか。
鯨飲が祟ったのか、帰り道に二度も吐いた。それで幾分かむかつきは取れたが、嘔吐による口の中の不快感は如何ともし難い。
(あれは)
自宅がある
ひと月ほど前に引っ越してきた、浪人の子供だ。名前は
その才之助と目が合った。何か言うわけでもなく、無表情のままで鋭い視線を次郎八に投げかける。
(そういえば、こいつは愛想も無かったな)
微かな腹立ちも覚えたが、
「よう、日向ぼっこかい?」
と、声を掛けた。
「……」
しかし、才之助は返事もせずに、そっぽを向いた。
(いけ好かない
次郎八は肩を竦めて、才之助の前を通り過ぎた。
才之助の父親、
「ちょっと、次郎八さん。朝帰りかい?」
井戸端で世間話に花を咲かせていた女房連中が、声を掛けてきた。
「ああ、そうだよ。だからキンキン声で話さないでくれ。頭に響くんだよ」
「毎晩飲み歩いている次郎八さんでも、二日酔いになるんだねぇ」
与兵衛長屋でも、古株のお
「しかし、庭師ってのはそんなに儲かるのかねぇ? うちの
「儲からねぇよ。だから
と、壺を振る仕草を見せた。
次郎八の表の顔は庭師であり、もう七年ほど働いている。最初の三年は嘉穂屋の世話で、両国の
修行には自分でも驚くほど夢中になり、
「八の字、てめぇは細けぇ
そう言われ、柄にもなく照れたものだ。その縁で、今でも藤蔵の手伝いをする事もある。
庭師は嫌いではない。だが、あくまで本業は始末屋。故に、食えるだけの技能と〔庭師〕という肩書きを得た今は、
それで、近所では庭師の次郎八と認知されていた。今も庭師の
「ほんと、嫌な男ね。うちの
「へん、誰か誘うかってんだ。貧乏人と一緒にいたんじゃ
次郎八はお園たちに背を向けると、話は終わりだと言わんばかりに片手を挙げて、自らの棲家に引っ込んだ。
(疲れた……)
戸を閉めた次郎八は、深いため息を吐いた。
人ひとり
極度の無口さ故に、郷里では〔口無し〕と呼ばれたほどだったが、江戸へきて始末屋として働くと決めた時に、その性格を必死に改めた。
「裏稼業で生きていくのなら、普通に暮らさねばならないよ。無口で何をしているかわからない奴というのは、すぐに目を付けられるからね」
と、最初に世話になった
次郎八は、水瓶の水を柄杓ですくおうとした時、水面に映った自分の顔を見て、思わず手を止めた。
そこには、髭面の情けない中年男の顔がそこにあった。
昔に比べたら、かなり顔に肉が付いた。数日触れていない無精髭が、余計に太く見せる。
(情けない……)
次郎八は、柄杓で自分の顔をかき消した。
かつてに比べたら、嘉穂屋から受ける
喉の渇きを満たすと、布団も敷かずに横になった。
染みだらけの天井。細かい隙間があった、激しい雨が降ると雨漏りがする。望めば、もっといい棲家に変える事も出来る。谷中にも巣鴨にも、一軒家を買い受けるほどの蓄えはあるのだ。しかし、かつての自分を思えば、これだけでも贅沢なのだと思って引っ越しを出来ないでいる。
次郎八は、
かつて次郎八は、〔
里では、大きな屋敷で育てられた。自分のような孤児が二十人ばかり集められ、一緒に暮らすのだ。その子供たちも、厳しい修行の中で一人減り二人減り、十五歳になる頃には半分にまで減っていた。
破久礼衆の下忍として、独り立ちをしたのは十六の時だった。当時の藩主・
そうした中で、次郎八は主に国元での防諜を命じられた。密偵を探り出す他、裏切った藩士を洗い出す役目も担っていた。
初めて殺した人間は、西大平藩士だった。粛清しろと、命じられたのだ。同士討ちという感覚は無い。普段は山の中に住んでいる次郎八にとっては、どうでもいい存在だった。
後ろから組み付いて首を掻き切った時、
「人殺しとは、こんなものか」
と、思ったぐらいだった。ただ、浴びた生き血の温かさだけは、今でも思い出す事がある。
十八歳の時に、役目を替えられた。新たな役目は、暗殺だった。
「お前は殺しの才がある」
三蔵はそう言うと、破久礼衆が持つもう一つの顔を語ってくれた。
それは西大平藩の暗い世界を支配する、
そんな三蔵の下には、様々な願い事が舞い込む。その中の一つが殺しの依頼であり、次郎八がそれを担う事になったのだ。
ひたすらに命令を受けて、人を屠る日々。得られる報酬は、今思えば極端に少ない。今では一人殺すのに何十両も取っているが、あの頃は鐚銭で人を殺していたし、それが当たり前と思っていた。
好きな時に、好きなように働ける。嘉穂屋の下で始末屋をしているが、それは自分が望んで続けているだけだ。かつては、望む事すら禁じられていた。悠々自適とも言える生活をしている。これ以上、望むべき事は無い。
このまま死んでいくのだろう、と常々思う。何の変化もなく、身体が動く限り人を殺し、いずれは殺されるか、阿芙蓉か酒の毒で死ぬ。先が見える最期だ。
人殺しとして、自らが幸せになるという事は禁じている。妻帯をする気も無い。このまま、誰の記憶にも残らず死んでいく。何も残さずに死んでいく。
「まぁ、お園さんったら」
耳を劈くような笑い声が、次郎八の思念を断ち切った。
相変わらず、女房衆の井戸端会議がキャンキャン煩い。よくも毎日、話しの種が尽きないものだ。
(酒か、阿芙蓉か……)
無性に阿芙蓉の煙を喰らいたいところだが、長屋では駄目だと嘉穂屋に念を押されている。吸える場所は、嘉穂屋の寮に設けた〔
阿芙蓉は分限者の嗜み。次郎八も銭は貯め込んではいるが、真っ当な分限者ではない。阿芙蓉を贖う銭は、驚くほど血で汚れている。表向きは庭師である次郎八が吸っている事が知れると、公儀の眼に止まるかもしれないのだ。非合法な始末屋という稼業は勿論、阿芙蓉は幕府専売のご禁制である。
「次郎八さん、阿芙蓉というものはご存知ですかな?」
ふと、嘉穂屋の言葉を思い出した。
あれはいつだったか。五年以上は前の、冬の日だった。長い殺しの稼業が祟ってか、心の沈底に堆積した亡者の呻きに苛まれ、眠れない日が続いていた。幾ら酒を飲んでも、悪夢しか見ない。次郎八自身が亡者のような顔付きになっていた。
そんな時に、嘉穂屋から阿芙蓉を勧められたのだ。嘉穂屋は、玄界灘の抜け荷に絡んでいて、多くの阿芙蓉を仕入れている。故に、幕府が流通させる物よりも安い金額で用意出来るとも言われた。
次郎八は、その誘いに乗って試した。それは無上の極楽だった。もう阿芙蓉無しではいられないと思った頃に、嘉穂屋に止められた。そして阿芙蓉の毒を叩き込まれ、考えて使えるように仕込まれた。実際に廃人になった公家や花魁も目にした。阿芙蓉を吸えば極楽だが、いずれは地獄が待っている。
(酒だな)
次郎八は土間にぶら下げた瓢箪に目をやった。あの中には、酒が半分ほど入っている。しかし、動くのが億劫だった。少し手を伸ばしてみたが届くわけもなく、ゆっくりと迫りくる睡魔に身を委ねる道を選んだ。
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