走狗(いぬ)の名は
筑前助広
第一回 仕事
男女の睦み合う声が激しさを増すと、上下に軋む床の振動も次第に大きなものになった。
江戸の郊外。
忍び装束に身を包んだ次郎八が、その床下に潜んで一刻ほどが経とうとしていた。
夜。四つにはなるだろうか。視界には暗闇しかないが、昼であっても床下はこんなものだ。それに夜目が効くので、何の支障も無い。
先ほどから、万吉が女を執拗に責め立てている。それは床から伝わる振動だけでもわかった。責めながらも、
「ここは、こうするのだ。ああ、いい塩梅だよ」
などや、
「堪らないねぇ。お前は筋がいい」
と、鳥肌が立つような囀りで、女に手練手管を仕込んでいる。
(せいぜい、今のうちに愉しむ事だ)
万吉は、あと四半刻もすれば人生の幕引きを迎える。そして、その幕を下ろす為に自分はこの場所にいるのだ。
次郎八は、銭で殺しを引き受ける始末屋である。今回の
江戸には嘉穂屋のような
女の声が大きくなった。違う男の名を呼んでいる。正確に聞き取れないが、万吉の名ではないのは確かだ。
別の名前が出たのは初めてだった。間男でもいるのか。諍いが始まるのかと思ったが、万吉の動きもお路の歓喜も激しいものになっていた。
女は、お
そのお路は、
そうした事を調べるのも、仕込みの一つだった。相手の生まれから家族構成、性格・趣味・女や男の好みまでを、じっくり丁寧に調べ上げ、極力危険を排した上で殺す。それによって、殺しを
こうした辛抱を伴う仕込みが出来るようになったのは、三十を幾つか越えた頃だった。昔は焦れて無理を犯し、江戸の八百八町を逃げ回ったのは一度や二度ではない。
「
今度は、はっきりと聞こえた。次郎八の中で暗い喜びが芽生えそうになったが、すぐに
(いや、歳は関係ないな)
と、次郎八は内心で自嘲した。
今、床板を挟んで自分の上で激しく動いている万吉が、そうなのだ。今年で五十になるが、十八の小娘に入れあげて、本所押上にまで足繁く通っている。
よほどに女房が怖いのか、護衛も伴っていない。暗殺を目論む次郎八にとっては幸いな事ではあるが、どうやら女房が家中を采配していて、奉公人に夫の行状を報告させているらしい。昔から女遊びが激しい男で、そのツケを払っているのだろう。それでも、浮気を止められない。万吉の女遊びは、もはや病としか次郎八には思えなかった。
女房の
ただこの万吉と共に、もう一人
「無理だとは承知しておりますが、この
と、粘ってきた。いつもは無理強いをしない男だけに、意外であり緊迫感もあった。結局は、次郎八が折れた。嘉穂屋には、色々と世話になっている。今回の
兎も角、旗本と薬種商を同時に
始末屋として、自分が得るのは報酬だけでいい。後はいらない。真実も正義も必要とはしていない。銭以上のものを求めれば、待っているのは死だった。
今回の報酬は、八十両。半金の四十両は既に受け取っている。しかし、その銭の大半が、嘉穂屋から買う
貰った銭の多くを、すぐに渡す。滑稽であるが、それほど阿芙蓉の毒に魅了されていた。
阿芙蓉を吸えば、心が休まる。悪い夢を見ないし、ゆっくり眠れて疲れも取れる。魂が解放される心地がするのだ。
しかし、阿芙蓉が過ぎれば稼業に支障が出る。
治郎八の額に、じわりと汗が浮かんだ。
長雨の季節である。幸いにして雨は降ってはいないが、床下はじめじめとしていて、息苦しさもひとしおだ。それに加え、これから人を
(もう少しの辛抱だ)
と、次郎八は首の御守り袋を引き出して、一度鼻に押し付けた。特有の甘い香り。それだけで、胸がすっとなった。この中に、油紙に包んだ阿芙蓉の欠片を入れている。死ぬ前に吸うと決めている、不純物の無い上物だ。
(よし、やれる)
埃と黴臭い床下で、
ひとつきの間、次郎八は万吉を見張っていた。そうする事で、習慣というものがわかってくる。万吉はお路を抱いた後、そそり立った魔羅もそのままに、外に出て夜風を浴びるのだ。時には庭の隅で放尿する事もある。
そうした行動をつぶさに観察し、時期を見て仕留める。それが次郎八の流儀だった。今回の
不意に、男女の声が獣の雄叫びのようになった。そして床板が激しく軋み、静寂が訪れた。
次郎八は
襖が開く。裸の万吉が出てきた。腹が出た、浅黒い肌を持つ男。顔にも体型にも下品さしかない。見たくもない怒張した
(なんという奴だ)
精を放ったというのに、まだそそり立っている。万吉の旺盛な性欲を象徴しているようで、何とも反吐が出そうだ。
万吉が周囲を見渡して、裸足で庭に降りた。いつもの壁際で放尿でもするつもりなのだろう。こちらに近付いてくる。次郎八は懐から吹矢を取り出して、息を殺した。
殺しの道具は、様々だ。これでなくてはいけないという、変なこだわりは無い。吹き矢を選んだのは、体躯の良い万吉の
顔が見えるまでになった。左頬の大きな黒子。嫌悪感しかない、旺盛な精力を感じさせる顔だ。
吹き矢を構える。万吉が目の前を通り過ぎる。完全に背を向けた時、次郎八は音も無く飛び出した。
ふっと、息を放つ。万吉の背中に刺さるや、片膝をついた。痺れ薬の毒。その隙に駆け寄り、首に手を回した。左手で髷を掴み、右手を顎に当てた。持ち上げるようにして、一息で捩じる。嫌な感触が、両手に伝わった。
息を確認するまでもなかった。次郎八は首筋に残った、吹き針を抜き取ると駆けだした。塀を一息で飛び越える。外に出ると、家屋より百姓地の方が多い。
江戸とはいえ郊外にもなると、この時分には人影すら無い。次郎八は、自宅がある深川に向かって歩き出した。
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