第八回 真相
目が覚めると、見たくもない顔がそこにあった。
才之助と、相棒の為松である。二人は以前から知り合いだったかのように顔を見合わせると、喜色を浮かべて次郎八の名を呼んだ。
「うるさい奴らだ」
「そりゃないぜ、兄貴。一時はどうなるかと思ったんだぜ」
そう言う為松は、今にも泣きださんばかりだ。その隣りの才之助も目を潤ませている。
見知らぬ天井。外は眩い光。此処は何処かと聞く前に、次郎八は首を動かして自分の身体に目を向けた。
全身を包帯で巻かれていた。特に左肩と右の小指は、きつく巻かれていて、微かに血が滲んでいる。
「こんなに酷かったか?」
「二日、眠っていましたよ。刀傷は縫えば済む程度でしたが、背中の毒が中々」
「やはり、毒だったか」
「ですが、俺と才之助が吸い出して膏薬で何とか」
次郎八は、右手を挙げた。失った小指。このぐらいどうでもいい。今の今まで十本揃っていたのがおかしいくらいだ。
「ああ、そうか。俺はお前の所に逃げたんだな」
「そうですよ。兄貴が俺を信頼している証拠ですよ。俺がそれが本当に嬉しい」
というと、此処は深川猿江にある浄土宗・
「和尚が医者を呼んでくれましてね」
それで、庫裏の一間で寝かせるられているわけか。ならば、この件は嘉穂屋の耳にも入るに違いない。
(それはそれで面倒だが)
死ぬよりましか、と思うしかないだろう。
「少しずつ思い出してきた」
川に飛び込んだ次郎八は、才之助を抱えたまま飯田川から大川に入って泳ぎ切り、そして深川猿江に向かって駆けに駆けたのだ。途中から意識が曖昧だった。急に身体も軽くなり、雲の上を駆けているかのようでもあった。恐らく生死の境目である、
「寺の門扉が叩かれましてね。俺が出て行くと、才之助が兄貴を担いでおりましてねぇ」
「そうか。才之助、すまなかったな」
才之助が激しく首を振る。記憶は何処まであったわからない。途中で倒れて、才之助に担ぎ込まれたのだろうか。行先は、妙義寺とは伝えていた。
「それで、奴らは?」
「二日は姿を見せませんねぇ。それにこの寺は嘉穂屋さんと縁が深いですから、そう易々とは入って来れませんよ」
「ならいいが」
全身の疼きは、まだ幾分かある。そして熱い。喉も乾いた。色々と話したい事もあるが、そうするだけの気力がいまいち湧かないでいる。
「とりあえず、今は休んでくださいよ。兄貴の事は和尚に話しておりますし」
「すまないな、それと」
「ああ、酒なら駄目ですよ。それと、
才之助を憚ってか、為松が声を潜めて言った。
「違う」
「冗談、冗談。嘉穂屋さんには内緒にしますよ。和尚にも口止めしてますぜ。まぁ、時間の問題でしょうけど」
次郎八は小さく頷くと、目を閉じた。それでいい。とりあえず、今は傷を癒す事が先決だった。
次に目を覚ますと、外は曇天だった。雨が降りそうで、振り切れない重い空。遠くで和尚の読経が聞こえるが、今の刻限がどれほどかわからない。
視界に、才之助の顔があった。微笑んでいる。こうして見ると、お前はやっぱり女だ。なのに、どうして若衆髷なんぞ。
「今は
「七つの鐘が鳴ったばかりです。一日、眠られていました」
「そうか。お前は大丈夫か?」
「はい」
才之助が力強く縦に振った。見た所、何処にも傷は負っていないようだ。
次郎八は、身を起そうとした。慌てて、才之助が身体を支える。疼きも熱感も、だいぶ和らいではいる。
「おっ、お目覚めですか?」
為松が部屋に入ってきた。お茶でも煎れてきたのか、急須を手にしている。
「だいぶ良くなったような気がする」
「兄貴、顔色が以前とは違いますよ。毒が抜けたんでしょう」
運が良かった。一歩間違えれば、大川で沈んでいたのかもしれないのだ。
今思えば、他にやりようがあったのかもしれない。しかし、こうして生きているのではあれば、それが正解だったのだろう。
「為松、話は才之助から聞いたか?」
「ええ、此処に来るまでの事は。しかし、肝心な所は兄貴が目を覚ましてからと言うので」
「そうか」
「って、これ以上は関わるなってのは無しでお願いしますよ。俺は兄貴の弟分なんですから」
「わかっているよ。俺とお前の立場が逆だったら、同じ事を言うさ」
そう言うと、次郎八は才之助を見据えた。
「話してくれる気になったのだな?」
「はい……」
それから、才之助はぽつりぽつりと語ってくれた。
才之助の本名は、
生まれてすぐに、江戸留守居役の
そこでは持木を傅役に据え、厳しく育てられたようだ。伝左衛門は、一人で生きていける術を仕込もうと考えていたらしい。料理もその一つで、今思えばこうなる事を見越していたのかもしれないと、才之助は付け加えた。
状況が一変したのは半年前。国元にいた長昶が、狩りの最中に倒れて病床に就いたのだ。長昶は齢三十と若いが、未だ後継ぎになるべき男子に恵まれていない。また娘は二人生まれていたが、両者とも三歳を待たずに早世したという。
このまま後継ぎがいないのでは、
その計画は、長昶の信任を受けた首席家老・
長昶とは年の離れた弟である典礼は、今年で二十歳。切れ者であり、質実剛健。その上に野心家だった。粕川藩内の
「下賤の母を持つ理子が、石滝家の姫として婿を迎えるなどあってはならぬ」
と、猛烈に反対した。しかも、長昶が口が利けぬ事をいい事に、佐々原が藩政を壟断していると、反対派を糾合。その勢力は日増しに強まり、佐々原も婿養子の選定を進めるどころではなくなってしまった。
そして事件が起きたのは、二か月前。手習いからの帰りに、何者かに襲われたのだ。相手は浪人で、それは家人が駆けつけて間一髪難を逃れたが、伝左衛門はこのまま江戸にいては危ういと、国元へ移そうと画策した。
そこで呼ばれたのが、傅役であった持木だった。二人は親子として江戸を出る予定だったが、典礼派もその動きを察知してか、粕川に入る街道に人を放った。
そうした動きを伝左衛門からの使者から聞いた九兵衛は、すぐさま江戸に立ち返り、市中に潜伏する事で欺こうとしたらしい。才之助を名乗り男装になったのも攪乱する為で、言い出したのは理子自身だったという。それからの事は、次郎八も知っている。
思った以上に闇が深い話ではあったが、次郎八も為松も別段驚きはなかった。忍びとして、人間の暗部を見過ぎたからかもしれない。しかし、為松は才之助が十一歳の娘である事には驚いていた。
「それで、目下の敵は典礼という奴か」
「はい。典礼は、わたしを殺すか、或いはわたしを妻にして藩主になると公言しているというのです」
「とんだ悪党だな」
聞いていた為松が唾棄するように言い捨てた。
「兎も角、俺はお前を粕川に送り届ければいいわけか」
「ご迷惑かとは思いますが、何卒」
手をつき、頭を下げようとした才之助を次郎八は止めた。
「無愛想だった才之助のままでいろよ。俺はそっちの方が気が楽だ」
そう言うと、才之助が頬を微かに赤らめた。
「しかし、お前が姫だったとはな。これからは、理子様と呼ぶべきだろうか」
「いえ、才之助でお願いいたします。国元に戻るまでは、理子でいる事をやめましたから」
「わかった。ならば、お前が理子である事は忘れよう。お前は才之助だ」
全てを聞き終えると、為松が密偵として協力すると志願した。もとより、そのつもりではあったが、無理はするなとだけ言った。
その夜は、布団を並べて床に就いた。
眠るまで、次郎八は自分の過去を語って聞かせた。
足軽の家に生まれた事。破久礼衆の忍びとして育てられた事。そして、忍びとして生きる事を止めた時の事。
「怖くなってしまったんだ、俺は」
次郎八は、その言葉から最後の
三蔵の命令で、ある男を斬れと言われた。
その男は、
廃嫡された自分に代わって藩主となった、弟の
忠豫は気性が荒く、一度頭に血が上れば感情を制御出来ないところがあった。父の忠宜とも折り合いが悪く、忠豫が継いでは大岡家は危ういとの危惧から廃嫡されたのだが、忠宜が死ぬと忠豫がすぐに陰謀を企てたという。
屋敷に忍び込み、手筈通りに忠豫を斬った。が、その姿を偶然現れた妻と娘に見られてしまったのだ。
次郎八は、咄嗟に二人の首を刎ねた。そうするしかなかった。しかし、あの時の宙に舞った娘の顔が忘れられず、三日三晩悪夢に苛まれた。そしてある夜、次郎八は里を抜けた。そうすれば。娘の顔を忘れられるかもしれないという、衝動的な行動だった。
江戸に来てからの事は言わなかった。それは話したくないというより、言わない方がいいという気がした。ただ、名前を次郎八と変えたとだけ伝えた。
「それ以来、俺は阿芙蓉と酒に溺れてしまった。あの娘の顔から逃れようとな」
「……」
「あの娘が生きていたら、ちょうどお前ぐらいかもしれないな。だからというわけではないが、お前を助けたら俺はあの時の顔を忘れられる。そして阿芙蓉や酒ともおさらば出来る。そんな気がするんだ」
返事がない。もう眠ったのか。次郎八も目を閉じようとした時、不意に名前を呼ばれた。
「どうした?」
「次郎八さんの、本当の名前が知りとうございます……」
「俺の名前を知ってどうする?」
「いつかは、本当のわたし……、理子として次郎八さんとお話がしとうございます。そして、その時は次郎八さんも本当の名前で呼びたいのです」
「ふふ、そうか」
思えば、お互い仮名で呼び合っているのだ。何の因果か、不思議な糸で呼び合ってしまったのかもしれない。
「いつか。そうさな、全てが終わったら教えてやるよ」
そうは言っても、次郎八は本当の名前を知らない。両親が俺に付けてくれた名前と、破久礼衆で呼ばれた名前は違う。さて、どうしたものか。次郎八は、少しだけ考え込んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます