第九回 訪問

 雨が続いていた。長雨の季節だから仕方がないが、ここ数日はだらだらと雨が降り止まないでいる。

 粥と梅干だけの昼餉を終えた日の午後。次郎八は寺の濡れ縁に腰かけて、鎖樋を伝って滴る雨に目を向けていた。

 特に、やる事が無いのだ。寝て、起きて、飯を食って、また寝る。そうして、傷を癒すだけの日々なのだ。

 おかげで、随分と身体は動くようになった気がする。右手の疼きはあるが、我慢できないほどではない。

 元々治りは早い方ではあったが、才之助が甲斐甲斐しく介抱をしてくれたからかもしれない。これほど他人に身体を触らせたのは、破久礼衆の里で世話をしてくれた女たち以来だろう。

 もし自分に娘がいれば、こんな感情を抱いたのかもしれない。次郎八は三十五で、才之助は十一。親子であっても不思議ではないのだ。そんな事を考えながら、才之助の世話を受けていた。

 しかし、次郎八は女とは縁が無かった。女を知らないわけではないし、惚れた女がいなかったわけでもない。しかし、生涯妻帯はしないとは決めていた。人殺しの自分に、幸せになる資格が無いのだと、心に蓋をしたのだ。

 介抱の礼とばかりに、次郎八は才之助に剣を教えた。まだ十分に動けないので、傍で見るだけである。

 才之助には、脇差を使わせた。時に厳しく叱る事もあったが、才之助の筋は悪くなかった。相手役になった為松ですら、その成長に驚いたほどだ。

 最低限、自分の身を守れる程度には扱わせたい。ここで学んだ事は、これからの人生にも役立つはず。走狗いぬに過ぎない自分の存在が、少なくとも才之助には

無駄にはならない。

「随分とお加減が良いようじゃな」

 そう声を掛けたのは、この寺の住持である似正じしょうだった。

 五十路を過ぎたであろう、小太りの住持には、喜捨きしゃとして数枚の小判を渡している。口止め料と、暫くは庫裏くりに置いて欲しいという意味があったが、住持はほくほく顔で受け取ってくれた。あの嘉穂屋と繋がりがある坊主だ。銭が利くとは思っていた。


「お陰様で」

「顔色もいい。生気が戻ったようじゃ」


 阿芙蓉と酒を抜いたせいかもしれない。最近では、阿芙蓉や酒への渇望は薄くなっている。為松が酒を勧めてきたが、断ったぐらいだ。


「小僧との稽古も力が入っていおるし、そろそろ本復かのう」


 最初は居室で見ていた稽古も、今では才之助を庭に立たせている。自分でも傷がいえている事は実感していた。


「それで如何でしたか?」

「ふむ、その話じゃが」


 似正は、才之助を伴って永野伝左衛門の使者と本堂で会っていたのだ。

 三日前に、為松を伝左衛門に遣わしていた。こちらの窮状と、持木が死んだ事を伝える為だった。永野邸の周囲には典礼の手の者がいて、警戒が厳しかったようだが、何とか伝左衛門と会う事が出来た。そして今日、永野家の家老が妙義寺に来てくれたのだった。


「厳しいのう」


 似正が、次郎八の横に腰を下ろした。


「まず、屋敷に戻る事は無理じゃ。典礼とやらの手の者が、絶えず屋敷の周りをうろちょろしているようでの。藩邸に移そうにも、あそこは典礼派の巣窟なのだそうだ」

「やはり国元に送り届けるしかないのか」


 すると、似正はゆっくりと首を振った。


「それがのう、暫く江戸にいてくれと言いおったわ」

「おいおい、ずっとそこらを逃げ回れと言うのか。ふざけるな」


 思わず小指を失った右手で、床を叩いた。その痛みを堪えていると、似正が苦笑いを浮かべる。


「国元に戻る道中、そして国元でも危険だと判断したそうでのう。それで、どこぞの大名家の屋敷に移せないかと、永野様が色々と交渉しているようじゃ」

「そうしているうちに、才之助がされて終わりだ」

「そうだろうの」


 このまま、江戸にいるのは危険だ。今は典礼派の身辺を探っている為松の報告では、典礼という男には江戸の裏でも中々の顔役がついているそうだ。それが誰なのかまでは探り切れていないようだが、嘉穂屋のような首領おかしらと呼ばれる大物だろう。その力があれば、大抵の情報が入ってくるはずだ。

 いっそのこと、才之助と共に何処か遠くに行くのもいいかもしれない。奥羽でもいい。九州でもいい。銭なら今まで貯め込んだものがあるし、生きていく術は身に付けている。勿論、才之助が大名家の正室という立場を捨てる事を望んでいるならばであるが。


「銭を渡されたよ。人は出せんが、銭は出せるようじゃ。まったく、近頃の武士という奴は銭で人が斬れると思っているのかのう」

「糞ったれ……」


 次郎八は呟き、庭に目を向けた。

 桜の巨木が、雨に濡らされている。今は葉桜だが、見頃には見事な花を咲かせるのでしょう、と才之助が言っていたのを思い出した。


「それで、才之助は?」

「おぬしの部屋じゃよ」


 次郎八は、似正に黙礼をして立ち上がった。

 まだ疼きが無いわけではないが、普通には歩く事が出来る。後は、斬撃を受けた左肩が上がるようになれば、本格的に動こうと思っている。

 部屋に戻ると、才之助が一人で俯いていた。顔を挙げたその顔が涙で濡れている。


「泣いていたのか?」

「何でもございません」


 と、慌てて手の甲で涙を拭う。それを見ない振りをして、次郎八は布団の上にごろりと身を横たえた。


「和尚に話は聞いた」

「そうですか」

「落ち込んでいるのか? 或いは、見捨てられたとでも思ったか?」

「そんなことは」


 思わず声が大きくなった才之助は、かぶりを小さく振って、


「……ございません」


 と、続けた。


「利口なお前ならわかるだろう。武士の世界には色々あるという事は」

「ええ、それはわかっています」

「典礼派の勢いは凄まじいものがあるようだ。容易には動けんのだろう。だからせめてと、銭を渡したのだ。お前の事を想っての事だ」

「わかっています。でも」


 そう簡単に割り切れるものではないとは、次郎八もわかっている。血が繋がらぬとはいえ親子。救いの手を求めたのに、渡されたのは銭だったのだ。勿論、銭は重要な武器になる。それが頭で理解出来る利口さを持ち合わせているが、だからとて受け止められるほど、才之助は大人ではない。故に、悲しいのだ。


「いいさ。お前は子供なのだ」


 俯いた才之助から、涙がぽつりと落ちるのが目に入った。


「泣いていい」


 すると、才之助が堰を切ったように嗚咽を挙げて泣き出した。初めて聞く、才之助の心からの叫びだった。


「お前は、俺が守る」


 柄にもない事を告げ、次郎八は目を閉じた。

 そして才之助の、いや理子の心からの叫びに耳を傾けていた。


◆◇◆◇◆◇◆◇


 探索に出かけていた為松が、顔色を変えて戻って来た。


「すまねぇ兄貴。俺がドジ踏んじまった」


 その時、次郎八は境内を才之助と散歩をしていた。身体を動かしても、もう痛くはない。それに、この寺に駆けこんで十日余り。そろそろ、何処かへ移ろうかと思案していた頃だった。

 二人の前で手をついた為松が、しきりに頭を下げる。


「どうしたんだ?」


 と、聞く前に二人の男が、寺門を潜って境内に足を踏み入れた。それは、嘉穂屋宗右衛門と滑蔵だった。

 嘉穂屋は杖をつく事もあるが、今日は持っていない。膝と腰の具合では杖を必要とするらしいのだが、今日の調子は良いのだろう。


「まぁ、いずれはこうなる運命だったさ」


 次郎八は為松を立たせると、才之助を庫裏に連れて行くように命じた。

 さて、何というべきか。こいつは味方なのか、敵なのか。次郎八は考えを巡らせたが、答えが出るよりも先に、嘉穂屋たちが声を掛けてきた。


「おやまぁ」


 未だ包帯を巻いた次郎八を見て、嘉穂屋は目を丸くした。

 老人特有のゆったりとしながらも、大袈裟な表情。そんな驚かなくても、お前は知っているだろうと、悪態を吐きたくもなる。


「次郎八さんほどのお人でも、手傷を負う事があるのですねぇ」

「多勢に無勢というものですよ」

「しかし、死にはしなかった。やはり、あなたは凄腕と呼ばれるお人ですよ」


 嘉穂屋が、莞爾として笑った。しかし、目の奥は笑っていない。江戸の暗い世界で生きる者の、特有のものだ。そして、自分も似たようなものなのだろうとも思う。


「和尚ならいませんよ。檀家の法事に行っています」

「いえいえ、お前さんに会いに来たんですよ」

「私に?」


 今度は、次郎八が大袈裟に驚く番だった。そんな事をしても、嘉穂屋には通じないのはわかってはいるが、俎板の鯉でも一矢報いたいという気持ちはある。

 それから、境内を見渡せる濡れ縁に腰かけた。小坊主が茶と茶菓を運んでくる。その小坊主へ、離れて控える滑蔵が小遣い銭を渡した。


「ここ数日、江戸の市中が騒がしいと感じておりましてね。両国一帯の縄張シマを預かる身としては、一応は知っておかねばと、滑蔵に命じて調べさせたのです」

「それで?」

「為松が、何やらちょろちょろと……」

「あいつは、独楽のように動き回りますからね」

「ええ、ですが動き方が気になったのですよ。それで、呼び出して聞き出そうとしたのですが、中々口を割らない」

「嘉穂屋さん、まさか?」


 次郎八は、思わず嘉穂屋を睨み返していた。

 すると嘉穂屋は肩を竦めて、


「早とちりはいけませんよ。為松も次郎八さんも、私の大事な友人なのですから」


 と、続けた。


「手荒な真似も出来ませぬし、このままでは何が何でも白状しないようなので、直接次郎八さんに訊こうと伺った次第なのですよ」


 為松が口を割ったとしても、何も思わなかった。相手は嘉穂屋なのである。しかし割らなかった事は思った以上に嬉しかった。


「それじゃ、俺が此処にいる事は和尚から?」


 それも首を振った。そして、勘とだけ答えた。


「それで本題なのですがね。その傷と今回の騒動が無関係じゃないと、私は睨んでいるのです」

「ただの喧嘩ですよ。相手は貧乏浪人だったかな」

「その喧嘩の相手が誰なのかと伺っているのです」


 嘉穂屋が、小坊主の茶に手を伸ばした。

 朝からよく晴れている。葉桜の緑も、陽の光を浴びて美しく輝いているが、次郎八の気分は最悪だった。


「何も叱ろうと言うわけではございません。心配なのです。江戸を騒がせている問題に、次郎八さんが関わっている。私はね、こう見えても次郎八さんを我が子のように思っているのですよ」

子供ガキの喧嘩に親が口出すものじゃないと思いますが」

「口は出しませんよ。しかし、目を離さずに見守るというのも親の務めというもの。場合によっては、相手の親御さんに頭を下げに行かなくてはなりません」


 ふと、嘉穂屋が典礼と話をつけてくれるのでは? と、次郎八の胸に僅かな期待の芽が顔を出した。

 抜け忍として熊本藩に追われていた為松を救う為に、交渉してくれたのも嘉穂屋だった。代償に多額の借金を背負う羽目になったが、死ぬよりは安いものだ。


(為松は、典礼の背後には裏の人間がいると言っていたな……)


 ならば、嘉穂屋が味方になってくれるのは心強い。蛇の道は蛇。嘉穂屋ほどの男だ。一言で決するかもしれない。

 本当の事を言うべきか。嘉穂屋は悪党に違いないが、目は掛けてもらっている。江戸の裏に絶大な影響力を持ち、阿芙蓉の密売で巨万の富を築いている。しかし、信じきれない。不利になるとわかれば、平気で裏切る。その片棒を、始末屋として次郎八が担いできたのだ。


「粕川藩主・石滝長昶様のご落胤である姫君が、江戸から忽然と消えた」


 何の前触れもなく、嘉穂屋が口を開いた。


「ご生母は卑しい身分故に側室にもなれず、姫君は重臣の屋敷で養育されていたようでしてね」

「……」

「長昶様は浮腫ふしゅを患って病床にあり、後継ぎとなる男子はいない。そこで、長昶様の血をひく唯一のお子である姫君に、然るべき婿養子を迎えようという計画が持ち上がったのですが……。次郎八さん、その先も話した方がいいですかねぇ?」


 次郎八は首を横にした。この調子では、全てを知っているようだ。


「為松が白状したわけではないので悪しからず」

「ええ」


 嘉穂屋には、独自の張り巡らされた情報網がある。日本橋で掏摸に遭い、嘉穂屋に相談しただけで、翌日には財布が戻ってくるほどだ。これほどの事は、調べたらすぐにわかるのだろう。


「私は嬉しいんですよ」


 嘉穂屋が、目の前の葉桜を見つめたまま言った。


「嬉しい?」

「だってそうじゃございませんか。人殺しと阿芙蓉、そして酒だけの次郎八さんが、悪党に追われた姫君を命を賭して守っている。阿芙蓉を断ったのも、その為なのでしょう? 私はね、放蕩息子が立ち直ってくれたような心地がしますねぇ」


 次郎八は、思わず苦笑していた。この男はどこまでも狸だ。真意がどこにあるのか、読めない。この件に一口噛みたいのかどうかさえ、次郎八にはわからなかった。


「暫くは、この寺でゆっくりと養生してくださいな」


 話を切り上げるように言うと、嘉穂屋はゆっくりと腰を上げた。


「石滝典礼とかいう男が、江戸に向かっているそうでございますよ」

「典礼が?」

「姫君が江戸にいるとわかった今、全ての決着をつけようという腹なのでしょうねぇ。確か、牛込辺りに屋敷を構えていたような……」


 江戸にいるとなれば、れる機会もある。嘉穂屋は暗にそれを伝えようとしているのか。


「次郎八さん、この嘉穂屋を味方だと思っていただいて結構ですよ。色々と調べてはみますが、くれぐれも〔今〕は無茶な真似はしてはいけませぬよ」


 そう言い残し、嘉穂屋は去っていった。

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