最終回 名前
次郎八は、息を殺して典礼の居室へと向かっていた。
屋根板を外し、天井裏の梁を進んでいく。埃と黴の臭いが、かつての自分を思い出させてくれる。
(
ついぞ人間にはなれなかった。しかし、多くの死によって生かされた身で、人間になるという事は、次郎八に残った僅かばかりの良心が許さなかった。
屋敷の構造は間取り図の通りだった。梁に仕込まれている罠も避けた。一か所だけ、新たに継ぎ接ぎされた箇所があった。
為松は此処で下手を打ったのだろうかと、何となく思った。確証は無いが、真新しさが為松の事を語っているような気がした。
典礼の部屋の真上に到着した。梁から身を乗り出し、天井板を少しだけずらした。
淡い灯りの中、まだ成熟していない娘の身体を貪る餓狼が視界を捉えた。
湧きたつ憤怒に、眩暈を覚えた。そして、激しい後悔に襲われた。こうなる事はわかっていたはずというのに、佐生らを始末する方を優先させてしまった。
次郎八は、気配も消さずに部屋に降り立った。
足音に気付いてか、典礼が理子から身体を起して振り向く。放心したような理子と、赤い花。目が合った典礼が
「死ね」
次郎八は、典礼の首を左手一本で刎ね飛ばし、更に宙で二つに断った。
血飛沫を、次郎八も理子も頭から浴びた。
「次郎八さん」
理子が胸に飛び込んできた。受け止める。細く小さな身体だった。こんな娘をと思うと、典礼への怒りは首を刎ねただけでは収まりそうにない。
「曲者だ」
遠くで聞こえた。表の骸か、或いは異音に気付いたのか、周囲が俄かに慌ただしくなった。
「助けに来た。お前は逃げろ」
「次郎八さん、その右腕は」
「
次郎八は敷かれた布団を退けると、鉤爪を使って畳を返した。床板を、勢いよく踏み抜く。見取り図の通りだと、床下から川へと抜けられるはずだ。
家人たちの声が激しさを増し、近付いてくる。曲者と叫んでいるようだ。
「この中に入れ。そして、西に向かって進むんだ。川に出る。これが間取り図だ。念の為に持っていけ」
懐から、ぐしゃぐしゃになった間取り図を取り出した。血に染まり、半分は真っ赤になっている。
「そこで伝左衛門が待っているはずだ」
「しかし」
「いいから早く」
次郎八は理子を抱えると、床下に押し込んだ。
「次郎八さんは?」
「後で行く。敵を引きつけねばならん。後で、伝左衛門の屋敷で落ち合おう」
そう言って、理子の頬に触れた。泣いている。初めて感じる、涙の温かさ。手ではなく、心で。
「必ず来てくださいますか?」
「ああ。必ずだ」
離れようとした次郎八の左手に、理子が掴んだ。
「次郎八さん、最後に教えてくださいませんか?」
「何を?」
「本当の名前。次郎八さんの本当の名前が知りたいのです」
確か、前にそんな話をしていた事を思い出した。全てが片付いたら、お互い本当の名前で呼び合おうと。
「
次郎八は短く答えた。
家人たちの声が近くなった。足音も聞こえる。
「ただ、親が付けた名前じゃない。俺を買った奴が勝手に名付けた。本当の名前は知らん」
「なら次郎八さんですね。無口な次郎八さんは、叫びませんから」
「そうだ、俺は次郎八だ。こんな男がいたと、名前ぐらいは覚えていてくれ」
理子が笑った。泣きながら笑っている。次郎八も微笑んで、抜け穴を畳で塞いだ。更に布団を上から掛ける。
その時、襖が勢いよく開いた。
武士が二人。転がった典礼の首に目をやり、次に次郎八を見据えた。
「貴様」
一人が踏み込んで、突きを繰り出した。上半身だけで躱し、伸び切った両腕を斬り上げ、返す刀でもう一人の首筋を斬り下ろす。振り返り、両腕を失った男に止めを刺した。
「俺はこっちだ、者ども来やがれ」
腹の底から叫び、屋敷の中を駆け回った。突然襖が開いたと思いきや、家人が手槍を突きだしてくる。脇腹を掠めたが、柄を斬り落とす。慌てて刀を抜こうとする隙に、斬り倒した。
次々に、家人か飛び込んでくる。幾つか細かい傷を受けたが、他愛も無い敵ばかりだ。数こそ多いが、佐生に比べれば動きは緩い。それでも避けられなかったのは、血を失ったせいだ。息もあがりつつある。
煙玉や撒菱はありったけを撒いた。離れている敵には、手裏剣や苦無を放った。武士や女中は関係なかった。立ちはだかる者は、全て排除した。暗い屋敷内は、家人の怒号と女たちの叫びで恐慌に陥っている。
しかし、違和感も覚えていた。典礼の背後には益屋がいて、その手下の佐生は待ち構えていた。数は多いが、腕は思ったよりは無い。妙だな? とは思う。嘉穂屋と対立し得る男にしては、手駒の質が悪いのだ。或いは、用意した用心棒は佐生だけだったのか。
雨戸を蹴り飛ばし、庭に飛び出した。そこには、武士の一団が待ってましたとばかりずらりと控えていた。
(やはり、簡単には終わらせてはくれんか)
ざっと数えただけでも、十名はいるだろう。奥にはもっといそうだ。
誰も彼も人相が悪い。着ている物もまちまちで、中には髭を蓄えている者もいる。到底、典礼の家人には見えない。これが、益屋の手駒という事か。
「どうやら俺も年貢の納め時か」
次郎八は忍刀を地面に突き刺すと、体中に縛って潜ませていた忍具を、左手だけで解いていった。それで身体は随分と軽くなる。惜しいという気もするが、血を多く失った次郎八には、これを解かなければならないほどの限界を迎えている。
「だが、易々とは死なんよ」
そうは言いつつも、次郎八は膝を突きたくなる衝動を必死で堪えた。これが人生の幕引きだ。あと少しぐらいは動けと、自分自身を叱咤した。
(これが涅槃の域ってものか)
あの世とこの世の狭間。そこが涅槃の域であり、人間が最も力を出すと言われている。忍びとして育った次郎八は、そうした者たちを何人か見てきた。そして、往々にして死んでいった。まさか、その一人に自分がなろうとは思いもしなかった。
地面に差した忍刀を引き抜くと、浪人団も一斉に抜刀した。
「さて、これが人生最後の
やや腰を落とした。
散々、人を殺した。三つで破久礼衆に引き取られ、忍びの修行に明け暮れた。下忍となってからは、人を殺した。抜け忍になってからも、選んだのは人殺しの稼業だった。そんな自分が、最後に踏んだ
「お待ちなさい」
踏み出そうとした刹那、母屋の方から声が飛んできた。
振り向くと、小太りの商人風が縁側に立っていた。護衛は四人。屈強な武士が、小太りを取り囲むようにして守っている。
「誰だ?」
「二度目ですよ、次郎八さん」
そう言って、大福のような顔に満面の笑みを浮かべた。
しかし、それは形だけだ。目の奥は、洞穴のように黒々としている。
「思い出しませんか? 権蔵の賭場で一緒に遊んだ、益屋ですよ」
「ほう、あんたが益屋だったのかい」
「あまり驚きませんね」
「賭場で馴れ馴れしく声を掛けてきたのが益屋だった事にか? それとも益屋がわざわざ修羅場に顔を出した事にか?」
「どちらもですよ」
「前者なら驚かんな。あの賭場は、あんたの領分だってのは知っていた。だが、後者は驚いてるよ。こういう時、黒幕は出て来ないのが相場だからねぇ」
「普段なら来やしませんよ。嘉穂屋さんも、あなたが
「礼なんざ言われる真似はしてないが」
「これですよ」
と、典礼の首を掲げた。首を刎ねた後に上下に断ったので、その首は鼻から上しかない。
「私が駆け出しの頃、典礼様のお母上に随分と可愛がられましてねぇ。お母上の今わの際に、典礼様に何かあれば力を貸して欲しいと頼まれたのですよ。仏さんになった人の頼みは無下にも出来ず、色々と力を貸してはいたんですが……」
「とんだ悪党だった?」
「よくご存じで」
典礼については、為松から聞いていた。野心家であり、冷酷無比。身の丈に合わない暮らしや野望成就の為の費用を捻出する為に、所領で苛政を布いているという。この屋敷も、そうした領民の血と涙で建てたものなのだろう。
「益屋さんの悪党嫌いは、裏の者なら知らん奴はいないよ」
「そうそう。それでほとほと困り果てたところに、あなた様を見つけたというわけですよ」
「俺に典礼を殺させたわけか」
「恩人の息子を、私が始末するわけにはいかんのでね」
そう言うと、益屋は典礼の首を庭に投げ捨てた。
「目的は果たしたので、私はこれで失礼します。ああ念の為に申し上げますが、姫君を追う事はいたしません。勿論、あなたに対して危害を加えるつもりもございません」
益屋が片手を挙げる。すると、庭にいる浪人たちが、一斉に刀を下ろした。
「いいのか? 俺も人殺しの悪党だぜ?」
「まぁ。しかし、その点に於いては私も同じでしてね。商売で殺している者を悪党にしては、私も同類になるではありませんか」
「ふふ。お前も悪党だな」
益屋が、声を挙げて笑った。よほどにツボに入ったのか、扇子を取り出して顔を隠した。
「益屋、最後に訊きたい事がある」
「なんなりと」
「為松を殺したのはお前か?」
「為松……。ああ、この屋敷に忍び込んだ鼠ですか? あれは佐生がやったものですよ」
「佐生の飼い主はお前だろう。お前が命令したのか?」
「左様。私もそれなりに働かなければ、益屋の名前に傷がつくのでねぇ。江戸の裏は、義理というものが大事にされておりますから、一応は」
「そうかい」
益屋の言葉を信じるならば、理子はこれで生き延びる事が出来る。そうなれば、後は俺自身の始末だ。
次郎八は、左手一本で忍刀を構えた。腰を低くして、刀を突きだす。昔からの、得意な構えだ。
「益屋、悪いが死んでもらう」
益屋は、次郎八を見据えたまま動じない。相変わらずの笑みを浮かべたままだ。
「為松の仇だ」
「ご勝手に」
益屋は踵を返す。
その瞬間、次郎八は腹の底から咆哮し、大きく一歩を踏み出した。
銃声。闇夜の静寂を引き裂いた。何か冷たいものが、身体を貫いた。更にもう一発。それでも前に踏み出す。浪人が遮る。忍刀で斬り上げ、斬り下げる。その度に血飛沫が上り、首が舞う。
一歩、また足を踏み出す。地を踏んでいる感触は無かった。柔らかい、雲の上でもいるようだ。それでも前に進んだ。
益屋の背中を追う。だんだんと大きなものになっていく。あともう少し。こんな時に苦無でもあれば、と思う。やはり捨てるべきではなかった。最後の最後で、
横から槍が来た。躱さずに受け、柄を切り落とした。刀を振り上げる。益屋の名を叫んだ。あとは、その背中に振り下ろすだけだ。それで、この
一瞬だけ、目の前が暗くなった。そして、すぐに明るくなった。
眩い光。真っ白な世界。そこに理子が待っていて、俺の本当の名前を呼んでくれた。
〔了〕
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
最後まで読んでいただきありがとうございました。
僕の好きを詰め込んだ、正真正銘のハードボイルド作品です。
何か感じ取っていただけたら嬉しいです。
また感想をお待ちしております。
また余談にはなりますが、その後の理子について書いておきます。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
<エピローグ>
典礼の屋敷を無事に逃げ出した理子は、計画通りに伝左衛門に保護された。
理子は次郎八の救出を懇願するが、伝左衛門は耳を貸さずに屋敷に連れ帰ると、信頼に足る藩士を集結させた。
夜明けを待たずに、伝左衛門は藩士を率いて典礼の屋敷に向かい、骸の山の中に次郎八の遺体を発見。密かに持ち帰り、永野家の菩提寺へ埋葬した。
事件は益屋と嘉穂屋の話し合いによって闇に葬られたが、典礼家は藩法に則り無嗣断絶となった。そして程なく理子は長昶の娘として藩邸に入り、高家旗本の
翌年、長昶が逝去。采女助が
そして天保四年。長顕が他界すると、理子は髪を下ろし仏門に入った。
理子が九十一歳という長寿で没したのは、安政七年の一月。幕府大老・
走狗(いぬ)の名は 筑前助広 @chikuzen
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