第十三回 矜持
典礼の屋敷の間取りは、全て頭に叩き込んだ。
あの図の出処が気になるところだが、それを調べる余裕も時間も無い。屋敷に忍び込めばわかる事なのだ。
忍び装束に身を包んだ次郎八は、
月も星も無い、静かで暗い夜だった。
夕暮れ間際に、多くの家臣に囲まれて典礼が屋敷に入った。そして程なく、屋敷の庭で宴が行われた。
その様子を、次郎八は遠眼鏡で眺めていた。
上座の典礼は、扇子を片手に得意の表情だった。理子を掌中に入れた。それで、この政争に勝利したと思っているのだろう。
一方の理子は白無垢を纏い、典礼の横に座らされていた。表情は角隠しで見えないが、この宴が婚礼だとわかった時、次郎八の殺意が弾けそうになった。
あと五歳若ければ、激情のまま斬り込んで無駄死にしていた事だろう。しかし、今の俺は違う。確実に典礼を殺す。その為に堪える事が出来る分別はある。
(それがお前の運の尽きだな)
次郎八は、心中で呟いていた。
武士の間の事はわからない。典礼は政争で勝利したかもしれないが、そこには俺という存在を忘れている。
粕川藩がどうなろうと、石滝家がどうなろうと、俺には関係のない事だ。俺は典礼を斬り、理子を救い出す。
婚礼の宴が、ようやく終わった。それから片付けが始まり、屋敷の灯りが消えるのを待って、次郎八は立ち上がった。
夜は既に深い。ここからは、忍びの時間だ。
次郎八は目を閉じると、両手を合わせて
心気を研ぎ澄ます。夜と闇と、そして自分自身とが一体化をするかのように、気配を殺していく。無になり切るのだ。
「臨兵闘者皆陣烈在……」
囁くような、それでいて腹に響く声。両手は
「前」
両手で
身体が羽毛のように軽い。破久礼衆にいた頃と、さほど変わりはない。これが九字の加護か。或いは、生きながら涅槃の域にあるのか。ならば、待っているのは死か。
典礼の塀に降り立つと、更に跳躍して屋根の上に飛び乗った。邸内には、歩哨が絶えず行き来をしている。
ちょうど、こちらに向かってくる武士が一人いる。蜘蛛のように身を伏せた次郎八は、懐から吹き矢を取り出した。いつもならやり過ごすところであるが、今日は違う。今日だけは、
歩哨が足元を通り過ぎた。次郎八は軒先から身を乗り出し、首筋に向かって吹き矢を放つ。
「うっ」
呻き声に合わせて屋根から飛び降り、駆け寄って背後から首を捻った。骸は抱えて、蘇鉄の陰に隠した。
「誰かいるのか?」
声が聞こえ、次郎八は息を殺した。
「
どうやら、
「いるなら返事しろよ」
声の主は、半信半疑のようだ。上ずった声色には、恐れの色が見て取れる。
足音が近付いてきた。次郎八は、苦無を手にして構えた。真横に来た瞬間に男に飛びつき、苦無を首筋に叩き込んだ。
どす黒い血が吹き上がる。慌てて傷口を抑えるが、男は目を見開いたまま、斃れた。
出だしは上々。しかし、問題は理子が何処にいるかだ。座敷牢か? あるいは、典礼の寝室か。二者択一。
(丁か半かってか)
身を起した時、屋根の上に黒い影を捉えた。
思ったより、見つかるのが早かった。だが構いはしない。遅かれ早かれというものだ。斬って斬って、理子を救うだけ。その手始めが、屋根の忍びというわけだ。
持っていた苦無を、屋根に向かって放つ。虚空で金属がぶつかる音がして、苦無が落ちてきた。
もう一度放つと、それも落とされたが、相手から放たれた苦無が足元に刺さった。
「面白いじゃないか」
次郎八は独り言ちに呟くと、駆け出し一息で屋根の上に飛び乗った。音を立てずに、瓦を駆け上がる。忍びは曲者の襲来を報せるわけでもなく、ただ
「仲間には見えんがな」
次郎八の言葉に、男が一つ頷いた。
表情は見えない。顔から爪先まで漆黒の忍び装束である。
「ならば、典礼の手下か」
それには首を横にした。
「あんた、
「否」
と、忍びは短く答えた。
「ある人の命令で此処にいるだけさ」
「益屋淡雲」
「ご名答。よくわかったな」
だからとて、嬉しくもなんともない。むしろ、最悪な気分だ。
「どうして仲間を呼ばない?」
「呼んで欲しいのか?」
「まさか。お前の魂胆が知りたいだけさ」
「そうさな」
忍びは言い放つと、自らの頭巾を剥ぎ取った。
「お前」
忍びは、佐生中馬だった。
この男は、ずっと武士とばかり思っていた。最初の襲撃では気配を消しきれておらず、使う剣も武士らしい道場剣法だった。二度目では、如何にも忍びを従える武士という雰囲気があった。
「驚いたかい?」
「ああ、してやられた」
「かつて〔口無し〕と呼ばれて恐れられたお前さんをして、そう言わしめているのなら気分が良いな」
「俺の事を調べたようだな」
「それなりに。随分と面白い経歴だったよ」
佐生が低い声で笑った。口調も表情も声色も、何もかも以前とは違う。中々の術達者だ。
「それで、お前が仲間を呼ばない事とどんな関係がある?」
「あんたも勘が鈍い男だね」
そう言うと、佐生は腰の一刀の柄を叩いた。
「これさ。俺はあんたを殺そうして斬撃を放った。しかし、お前さんは躱した。小指一本だけ刎ね飛ばしたが、あんたは
「つまり?」
「誇りの問題よ。
次郎八は鼻を鳴らした。誇りとか、そんなものは持ち合わせていない。むしろ、忍びであるというのに、誇りなど抱いている方が珍しい。こんな
「まぁ、俺も小指の仇があるな」
その言葉と共に、次郎八は手裏剣を三つ放った。
佐生は跳躍して躱す。追撃するように二つ放つが、今度はむこうから六つ飛んできた。
(どこまでも張り合うつもりか)
後方に跳び退く。瓦に直撃して、手裏剣が落ちていく。佐生が着地する瞬間に、次郎八は万力鎖を放った。それも躱されたが、次郎八は鎖を巧みに操り追撃を放つ。
「くっ」
佐生の呻き。確実に、万力が佐生の胸を捉えた。しかし、それは瓦だった。変わり身の術。すると、背後か。
振り向く。斬撃の光。刃の白が視界に入った。
躱すか? 鎖で防ぐか?
いや。左手を忍刀に伸ばす。逆手。構わずに、佐生の懐に飛び込んだ。
交錯する。手応えは確かだったが、こちらも無傷ではいられなかった。
「見事だ」
そう言った佐生の腹から、臓物がどろりと垂れ落ちた。だが、次郎八も右肘から下を失っていた。足元に、鎖を持ったままの腕が落ちている。
「言ってたはずだぞ、俺は左利きだと」
「剣では負けぬと思ったのだがな……」
「あんたも中々だ」
次郎八は自らの頭巾を剥ぎ取り、それで右腕をきつく縛った。痛みは不思議と感じない。ただ、無性に熱かった。
「次郎八……」
膝をついて蹲る佐生が、僅かに顔を上げた。
「お姫さんは、座敷牢にいるぜ」
「それを信じろと?」
「ふふ……忍びの言葉を信じる奴は阿呆さ」
その言葉を言い残し、佐生の身体がぐらりと揺れて屋根を転がり落ちていった。
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