10.Lyla
あなたは12歳になった。
あなたは父と話した最後の日のことを思いだしている。
壁の東側に追いやられたあの日から、あなたの父は塞ぎがちになっていった。毎日、無効になってしまったIMI社の社員証を片手に、壁の西側へ向かう長蛇の列に並びながら、あなたの父は静かな怒りを蓄積していった。
壁の周りを飛ぶ、人工筋肉でできた不格好な鳥に。
衛門でセキュリティチェックを行う機械仕掛けの人形に。
国境沿いを走り回る四本足のサイのような奇妙な機械に。
そのすべてに刻まれたIMIの社章に注がれる視線を、あなたは知らない。
ある日、あなたの父は、分離壁によじ登ろうとした男が撃たれるのを目にした。
ある日、あなたの父は、衛門を突破しようとした男が撃たれるのを目にした。
ある日、あなたの父は、子供に会わせてとすがりつく女性がしゃがみこんだ瞬間、警備ドローンに撃たれるのを目にした。
世界各地では内戦の火が噴きあがっている。このパレスチナの地にも、その熱がふつふつとたまりつつある。けれどあなたたちが憎悪の炎を燃え上がらせるほど、あなたたちが怒りを向けるべき相手は、分離壁の向こう側へ閉じこもってしまう。街中では壁の向こうへの怒りの声に満ちている。テレビで、ラジオで、街中で、異教徒を殺せという声があちらこちらから響いてきて、嫌悪感すら次第にマヒしてくる。
ある日から、父は分離壁に向かわなくなった。ヨルダン川西岸地区のどこかで、
そしてその日から、あなたに対するいじめがぱたりと止んだ。いじめを目撃すると、どこかから大人がやってきて子供たちとの間に入ってくれるようになった。
それが父の変節によるものだとあなたは子供心に理解している。けれどあなたはそれを素直に喜べない。どのみちあなたは彼らにとってよそ者だったから。
あなたが唯一心から喜べたことは、母が帰ってきた瞬間だっただろう。けれど、玄関であなたが迎え入れた母はすっかりやつれて、あなたを一瞥するとすぐに家の奥に入っていってしまった。あなたはそのことに一抹の寂しさを覚えるけれど、親子水入らずの時間が増えることに歓喜する。
その日の夜、あなたの父と母は何かを話し合っている。ベッドに入っているあなたに聞き取れないぐらいの声で、あなたは扉の影に隠れて聞き耳を立てている。
――強制移住がはじまった。
――イスラエルはアラブ系住民を一か所に閉じ込めようとしている。
――いずれはこの東エルサレムからも追いだすだろう。
――あの壁は国境ではない。
――あの壁は、ゲットーだ。
言葉の全てを理解はできなかった。けれどあなたが不安を抱くには十分すぎた。母が泣いている。父は声を押し殺し、拳をにぎりしめ、震えている。あなたの心の支えは、どこにもない。あなたは机の片隅の小箱から便箋を取り出す。何度も書いては書き直した手紙。いつかあの壁が再び開いて、積み上げた手紙を届けることができると信じていた。
けれど、おそらく、きっと、もう。
あなたはサッカーボールを抱えて、硬いベッドにうずくまる。
翌日、シャヴィーがあなたに教えてくれたサッカーチームが政府令によって解散させられたことを、あなたは知った。
あなたの家にはあなたが触ってはならないものが増えた。
秘密の地下の入り口、機械工作用の工具、配線類や集積チップ、半透明の薬品に込められた何かの動物の筋肉、砲弾のようなもの。掘立小屋はさながら秘密基地だ。あなたの父は、家にいる間はほとんどの時間地下にこもっている。
自然と、料理や買い出しはあなたや母の仕事になる。
あなたは遊びにいこうとはしなかった。あなたはいい子であろうとした。父と、そして母のために。あなたをみている神があなたの家族に救いを与えてくれるようにと。そうすることで、物事が少しでもよくなると信じていた。
ある日、父はあなたを連れて北へ向かった。荒れ果てた農地の真ん中に分離壁が走り、そのすぐ向こう側にユダヤ人が建設した真新しい工場がみえる。
「ハイテク産業には大量の真水を使う。
父は頭上を飛ぶ
あなたの父は古びたタブレット端末を操作し始めた。変化はすぐに訪れた。頭上を飛んでいた鷲が、ゆっくりと旋回し、高度を下げ、やがて農地の片隅に生えたイチジクの木に舞い降りる。
「GPS妨害電波を飛ばせば、ドローンに異常を感知させることなく着陸命令をだすことができる。ハクトウワシの帰巣本能をGPS誘導方式に切り替えた際に生まれた弱点だ」
そういいながら、あなたの父は機械部品にまみれた奇っ怪な鷲に近づいていく。鷲は抵抗する様子をみせなかった。あっさりと両手で捕まえて、その頭に被せ物をすると、まるで本物の鷹のようにおとなしくなる。父はそれを布で包むと、荷車の上に放り投げた。そこであなたはようやく、父がその
あなたの父は言う。最悪なのは、彼らが戦争を外部化しはじめたことだと。
「昔はステルス爆撃機だった。F-117とかそういう機体だ。それはレーダーに映らないから警報も鳴らない。ある日突然、音もなく爆弾が落ちてきて、気づいたら人が死んでいる。日常の中で、ある日突然誰かが死ぬ。テロリストも、テロリストでない誰かも。そんなやり方じゃ、悲しみも怒りも蓄積していくだけだ。例えその攻撃がどれだけ正しく、どれだけ
あなたは父の言葉を聞きながら、よくわからない違和感に眉をひそめる。あなたの父は、これまで仕事の話をあなたにしたことはなかった。もししたとしても、戦争という言葉は絶対に避けてきた。あなたが怖がり、悲しむのを分かっていたからだ。
「IMIはより損害を抑制する手段として無人機を作った。その代わり私は、無人機をハト爆弾のように自動操縦にはしなかった。テロリストとは顔のない誰かではなく、生きて人々のうちで生活していることを理解させたかったからだ。
だが無駄だった。結局はパイロットの士気を削いだところで、殺人を命じるのはもっと別の人間なんだ。パイロットが病気になったら変えるだけ。パイロットが集まらないなら、薬漬けのハクトウワシを飛ばすだけだ」
父の言葉は続く。あなたは言いようのない不安を抱きながら父の後をついて歩く。父はあなたをみていない。その足取りはまるで熱に浮かされたように浮ついて、口から出る言葉は借り物の言葉を並び立てたようだった。空っぽになってしまった自分の心に、誰かの言葉を流し込んで固めたような。
「なぜなら彼らは安全を買っているだけだからだ。その過程で原材料がどうなっていようが知ったことじゃない。いくら民間人が巻き添えになったって、自分の家族や友達が死ななければどうでもいいと思っている」
あなたは父の言葉に聞き覚えがあることを思いだす。それは街中で流れてくるラジオや公共放送で、何度も繰り返し行われていた言説だった。アル・ジャジーラの衛星放送で、ハマスの電波ジャックで、レバノンから流れてくるヒズブッラーの短波放送で。ドローン攻撃を非難し、その奥に隠れる臆病者を糾弾するような声明が流されていた。
何度も、何度も、何度も。アラブ諸国の同胞全てに怨嗟の声を聞かせるように。
「無人化でパイロットが死ぬことはなくなり、自律化がパイロットをPTSDから解放して、社会負担の大削減も実現できた。戦争はどんどん無害で、安価で、健全なものになっていく。合衆国の首狩り部隊が濡れ仕事の全てを請け負って、一般人は殺人の苦しみも喪失の悲劇も知らないまま、幸福で、健全に生きられる。
そうやって戦争を外部化して、人の死に鈍感になっていく。殺し合いをしているということを忘れてしまうから、テロに怒りを抱く。テロを起こす側にしてみれば当然の結末でも、彼らにとっては唐突な悲劇だからだ」
あなたは学校での日々を思いだす。どこかでテロが起こっても遠い別の世界のことだと思い無邪気に遊んでいた友達たち。けれどある日、クラスメイトの誰かが、誰かの家族が死んで、そこでようやくそれが身近な悲劇であったことを知る。
そしてあなたは思いだす。あの学校の教師たちも、父と同じような言説でテロ組織を非難していたことを。ロケット砲やドローンで遠くから突然命を奪う卑怯者達と非難していたことを。
互いに憎悪をむき出しにして、その結果として今の私たちがいる。父はユダヤの元で働き、けれど結局、アラブに渦巻く憎悪に身をゆだねてしまった。
「目には目を。歯には歯を。ハムラビ法典は報復を止めるための律法だった。
いま俺たちは、目をつぶされてもつぶし返せない。歯を折られても折り返せない。彼らが閉じこもった
だから、安全な殻のなかに閉じこもってしまった彼らを、無理やり引きずりだしてやるしかないんだ」
夕日が東エルサレムの街を赤く焦がす。先を歩く父の顔は、陰になってみえなかった。あなたは父の言葉に答えることができなかった。どんな言葉も、父に届くとは思えなかった。
けれど、父さん。
あの時、シャヴィーは、泣いていたんだよ。
その翌日。あなたの家を訪れた叔父は、あなたの父は死んだと告げた。
あなたの父は英雄として立派に死んだ。我々はあなたの父の死を無駄にしないと。
あなたは理解している。父があの殻を破るために戦ったこと。そしてそれが父に死をもたらしたこと。
母はあなたの隣で泣き崩れる。あなたはどうすればいいかわからずに立ち尽くしている。
あなたは父の最後の言葉を思いだす。目には目を。歯には歯を。残酷な律法は、際限なき報復を止めるために存在した。あなたの父はいくばくかの命を奪って、その代わり誰かによって殺されたのだろう。
けれど生活は何も変わらなかった。あなたの周りも、壁の向こう側も。
それなら、父が奪った命に何の意味があったのだろう。
この戦いが、犠牲に似合う何かを得られたことなんて、一度もなかった。
今までも。そして、これからも。
これが、あなたの人生。
ただひたすら何かを奪われ続けた、あなたのこれまで。
この物語を語り終えるとともに、あなたの旅も終わる。
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