4.Lyla
もう少し、昔話をしよう。
あなたが目指す場所はまだ遠く、砂嵐はあなたの歩みを遅くする。
あなたにはあなたの過去を振り返るだけの時間があったし、あなたもそれに思いを巡らせずにはいられなかった筈だ。なぜならそれは、あなたがこれから行うことに深く関係していたからだ。
それはあなたと、あなたの家族の物語だ。あなたが生まれた時、
父親の名はナジムといい、母親の名はシファーといった。
あなたの父は勤勉な男だった。国がベドウィンのために定めた教育プログラムを首席で卒業し、理工学――特に機械工学に関する知識と技術を身につけた。それらの知識や学問は、古くは白人たちのものとおもわれていたが、あなたの父はその偏見を克服し、やがて国が重視する国防産業の基幹技師の一人として採用された。その給与によってあなたの家は裕福となった。
しかし、あなたの同胞たちはあなたの一族を批判した。あなたの父親を西洋被れといい、異教徒に魂を売ったといって、あなたに向けて石を投げた。石を投げられて、あなたはどうしただろうか。泣いたかもしれないし、ある日を境に投げ返したかもしれない。いずれにせよ、あなたは関わらないことが一番であるというのを自ずから学んでいき、彼らが現れると、足早に逃げるようになった。
父親は自分たちの住むコミュニティが貧困から脱することを願っていた。そのためには、男が働き、女は家庭を守るという伝統的な生活を変える必要があると考えた。六芒星の民は男であれ女であれ徴兵され、子供であれ老人であれ一体となって戦う。そうでなければ国を守れないからだ。
誰もが国家を成す人民であること。
誰もが国家を守る衛兵であること。
それが彼らの強さだった。
けれど、アラブの民はそのような生き方を決して認めないだろう。
父親はあなたが学校に通い始めるとともに、その知識と技術を都市部のハイテク企業へ売り込み、都市の居住権を得て移住した。あなたの母は先祖の伝統と誇りを選び町に留まった。
幼いあなたはこの時の両親の気持ちを知る由もない。けれど、あなたにとって父親の決定はよき転機となった。あなたは伝統よりも新しいものを、女性らしさよりも活発であることを好んでいた。家の外で自由に遊ぶことが許されたのは、あなたにとって幸福だった。
あなたは街の中に二つの壁があることに気づく。
一つは街の広場にある乳白色の石材をつみあげた壁だ。そこには老若男女多数の人が訪れていて、その壁に手をおいて何か祈りをささげている。
「あれはなに」
「嘆きの壁だ」
あなたの父は答える。それが何を意味するのかあなたは知らない。ただ、急にぶっきらぼうになった父の態度を察して、あなたはそれ以上尋ねることをしなかった。
もう一つは街の真ん中にある無骨なコンクリートの壁だ。それは見上げるほど高く、そしてその周囲を人々は避けて暮らしているようだった。その門には銃をもった兵士が立っていて、その前には私や、父と同じ肌の人たちがずらりと並んでいた。
「あれはなに」
「分離壁だ。あそこに並んでいるのは、この地にずっと住んでいる
「なぜこんなところにかべがあるの」
「壁の向こうが怖いからだ」
あなたの父は答える。六芒星の民は壁にまつわる民なのだと。どこで生きるにも、彼らの運命には壁が付きまとった。彼らは壁に囚われ壁に分断されてきたのに、いまは壁にすがり、壁をつくることで安心を得ている。
あなたの父の言葉は的確だったけれど、あなたがそれを理解するのはもう少しあとのこと。あなたの目には、その壁に描かれた絵が気になっている。誰かが描いた緑と青空の絵。あの向こう側には何があるのだろうと、あなたは気になっている。
6歳になったあなたは初等学校へ通い始めた。そこにはあなたと同い年の様々な子供たちがいる。あなたはまず肌の色の違いに驚き、髪の色や目の色の違い、顔つきの違い、体つきの違いに驚く。そこに通う子供たちは、西洋人やアラブ人だけでなく、アフリカや南米、アジアの核国から移民としてやってきた人々の子供が多数生活していた。
やがてあなたは、彼らの親がみな同じ会社に勤めていることを知る。その企業は最先端技術をいち早く商業化し、それを国や民族の隔てなく売りさばくことで巨額の利益を輩出していた。企業の顧客はヨーロッパであり、アメリカであり、中国であり、インドであり、サウジアラビアであり、ロシアであり、国家であり、非国家武装勢力であり、世界の各地から多くの従業員が集まっていた。
「みんな、おとうさんやおかあさんがおなじ会社ではたらいてるんだね」
「何をいっているんだい。君だってそうじゃないか」
級友に指摘されて、彼女はようやく自分の父親がそうだったことを知った。そこは父の所属するIMI社の社員寮に近く、企業は子供たちの教育水準を高く保つため、その私学に多額の寄付を行い、また入校を奨励していた。そこは国中でもっとも開けた学び舎だった。誰もあなたに対して石を投げることはなかったし、あなたも投げ返す必要がなくなった。
学校は様々なことをあなたに教えてくれた。言葉を教わり、数学を教わり、理科や化学を教わった。電流によって物体が駆動する原理を学び、かつてこの世界にあったというゴーレムの製法を教わった。国家の在り方を教わり、この国を建てた人々のことを教わった。
そこであなたははじめてユダヤという言葉の意味を理解した。
それは民族であり、宗教であり、幻想の共同体だった。
民族というにはあまりにも血のつながりが薄く、宗教というにはあまりにも過去に執着しすぎていた。
彼らは神によって定められた約束の地へもう一度辿りつくためにこの地へ集まった。この地を支配していた帝国と交わした口約束に乗せられて、本当に国を作り上げてしまった。その中でたくさんの虐殺があり、悲劇があった。彼らに対する長い迫害の歴史が、彼らを虐殺へ駆り立てたことを、あなたは知った。
彼らが手を取り、平和と共存を呼びかけていることを。あなたの同胞たちが、かつての恨みを忘れていないことを。この国が砂上の楼閣にすぎないことを。
彼らはあなたに手をさしのべる。平和と共存を目指しましょうと。我々はあなたを見捨てないと。
そんな言葉が建前にすぎないことは、あなたももう理解している。
「ライラー」
あなたが彼女に出会ったのは、そんなある日のことだ。
「ライラー。あなたって、足がとてもはやいのね」
ある日の放課後のこと、彼女はあなたに話しかけた。真っ白な肌に金色の髪、まだ大人への道を踏み出す前の小柄な体躯。彼女はまるで天から遣わされるという天使のようだった。
あなたは少し緊張する。あなたのこれまでの経験が、同年代の子と話すことに防衛心理を働かせる。クラスメイト達があなたの故郷に住む彼らとは違うとわかっていても、あなたは他の友達と比べてとても臆病だった。
「そう、かな」
「そうだよ。だって今日のかけっこ、男の子にもまけなかったじゃない」
「たまたまかもしれないよ。ジャッキー、終わったあと足がいたいって」
「そんなのまけてくやしいからに決まってるじゃない。今日かったのはあんたよ、ライラー。
ええ、ほんっと、せいせいしたわ!」
ジャックはクラスの中でも鼻もちならない男の子だった。フランス出身で、この世のおよそ真理と呼べるものはすべてフランス語かラテン語で書かれているというでたらめを自信満々に語り、フランス語を喋れないあなたやその友達をいつも見下していた。あなたは彼のそういう強い言葉や態度が苦手だったから、できるだけ彼の傍には近寄らなかった。なのに、今日はたまたま、駆け足で並んで走ることになってしまって、気づいたらたまたま勝ってしまった。
「ねえ、ライラー、あなたってベドウィンの子だよね。だったら、タカはさわったことある……」
「う、うん」
あなたはうなずく。鷹は
「すごい! ねえライラー、あなたのおはなしをもっとききたい! ともだちになって!」
彼女は小さな掌を差しだしてあなたに向けてにっこりと笑った。きらきらと輝く笑顔。なのにあなたを嘲笑うことも、蔑むこともしない。とてもまっすぐで素敵な女の子。あなたはそこで、生まれて初めて友達を得た。
ここはかつてあなたたちの先祖のものだった土地。
よそ者によって征服され、いまもなお彼らとのわだかまりは消えていない。全ての人に教育を、という父親の願いは、まだ幼いあなたにはよくわからない。
けれど。
どんな場所でも子供は育ち、どんな相手にも友情は生まれる。
あなたはそんな単純な事実に救われながら大人になっていく。
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