6.Lyla

 あなたは壁を目指す間、あの日のことを思い返していたことでしょう。

 彼女からはじめてプレゼントをもらった日のことを。あるいは父があなたに初めてみせた怒りの目を。

 あなたがかつて壁の西側で暮らしていた頃、あなたには沢山の友人がいた。あなたの友人たちは、ごく一部のいじわるな級友をのぞけば、宗派や民族によってあなたを差別しなかった。

 その日、あなたは友達と一緒に校庭を走り回っている。空は青く晴れ渡り、太陽は明るく、爽やかな空気があなたの汗をすぐさま乾かしてくれた。あなたの肌はすっかり日に焼けて、黒く瑞々しい髪は陽光の中で輝いている。

 あなたが好きな遊びはボール遊びだった。なかでもサッカーがお気に入りだ。長い時間、ボールを追い回して駆けまわる遊びはあなたにとってなじみやすかった。あなたは誰よりも多くコートを動き、時に男の子よりも巧みにボールを操った。ボールを追いかけているあなたは誰よりも生き生きとしていた。

 日暮れの頃、あなたは、すっかり疲れはててオリーブの木の下に座っている。帰りはいつも父親が迎えに来るから、それまでの間はシャヴィトといっしょだ。


「ねえ、ライー」

「なに、シャヴィー」


 シャヴィトに話しかけて振り向くと、彼女は後ろ手に隠していたものをあなたに差し出した。包みに入ったそれ一抱えもあるほど大きくて、なんだろう、とあなたは首をかしげる。


「プレゼント! 今日はライーの誕生日でしょう……」


 そこであなたはようやく気付く。そう、今日はあなたの誕生日だ。今まであなたが住んでいた場所では、誕生日を祝うことは信仰に反する行為だといわれていた。聖典に根拠がないのだから祝うべきではないという布告ファトワが出されたためだ。だから、家族以外の誰かから誕生日を祝われるというのはこれが初めてだった。

「ありがとう」嬉しさに涙が出そうになるのをこらえながら、あなたは彼女に訊ねる。「開けてもいい……」

「もちろん」


 びりびりと包み紙を裂くと、あなたは箱の中に子供用のサッカーボールが入っていることに驚いたでしょう。それは女の子へのプレゼントというには少し奇抜で、けれどあなたがずっとほしかったものだから。


「ライラー、あなたにはきっと才能があるわ」


 彼女の目は真剣だった。決して嘲りやおちょくりのためにそんなことを言っているわけではないというのは、あなたにも理解できた。

 けれど、あなたは困惑している。あなたは、自分がこの国にとってよそ者であると感じている。だからサッカーも遊びにすぎなくて、これを今後続けていくことはできないと考えている。

 いつか自分は誰かの元に嫁いで。家で家事をこなし、子供を育てる。そんな生き方を選ばざるを得ない自分が、サッカーを続けても、きっと意味はないと。


「いいえ、いいえライー、それは違うわ。この国には女性のナショナルチームだってあるんだから」


 そういってシャヴィーが携帯端末モブに表示させたのは、とあるナショナルチームのオフィシャルサイトだ。赤と白をクラブカラーとするブネイ・サフニンFCは、代表者がアラブ人であり、そのチーム構成員も大半がアラブ系の女性プレイヤーだった。

 あなたは赤のユニフォームを着こなす選手たちの凛々しいスナップの数々に見惚れる。まるでこの地に沈む夕日のように美しい赤。

 あなたはすっかり画面に魅入っていて、そのあなたをみて、シャヴィーは優しく微笑んだでしょう。


「だからライー、あなたは自分がなりたいものをえらべるはずよ」


 あなたはシャヴィーを力一杯抱きしめたでしょう。

 彼女の友情に、心から感謝を捧げたでしょう。

 そしてあなたは彼女に約束したでしょう。

 彼女の誕生日に、きっと素敵なプレゼントを贈ると。

 これは絶対の約束だと。




 あなたたちはきっと遅くまで共に過ごしたでしょう。

 走り回り、ボールを追い、歌い、笑い、疲れたらナツメヤシの幹に背を預け、見果てぬ夢物語を語り合ったでしょう。それはあなただけの記憶。私には想像もできない、あなただけの宝物。

 けれどそんな楽しい思い出にも、やがて終わりが訪れる。日が傾き、西の丘へ日が沈みゆく。あなたは楽しい時間が終わりに近づいていることを知り、どうしようもなく悲しい気持ちになっていく。そんなことは、毎日のように繰り返していることなのに。

「ねえ、ライー」

「なに、シャヴィー」

 刻一刻と迫る夕刻。赤光は二人の影を切り抜いて、赤い砂地に影絵が踊る。東の空から迫る夜闇を、恨めしそうにあなたは睨む。

「あなたの名前は、どういう意味の言葉なの?」

 そう問われたあなたは、一体どのように答えたのでしょう。

 あなたの名前は、夜をあらわす言葉。漆黒を意味する言葉。陽光が死に絶え、死と眠りに向かう停滞の時間。月さえ浮かばない夜の帳。母譲りのあなたの黒髪に名付けられたもの。

 あなたはその名を誇ったのだろうか。

 あなたはその名を忌んだのだろうか。

 あなたの心はわからない。けれどあなたの友達は、きっとあなたにこういったでしょう。

「いい名前だね」

「どうして……」

「だって、星は夜にしか輝けないもの」

 そういって彼女は空をみあげる。夕闇の迫る東の空には一番星金星が光り輝いている。やがて空には数えきれないほどの星が散らばり、夜空を満たす。星と星が線を結び、数多の物語を紡ぐ。

「知ってた……あの空に浮かぶ星も、月も、惑星も、太陽も、すべて星なんだって。星はいつだって空にうかんでるの」

 天の光はすべて星。そうつぶやく彼女の横顔を、あなたはじっとみつめている。

「けれど昼間は、一番近くてまぶしい太陽にけされちゃう。星はこんなにもたくさんあるのに、昼間は一つだってみえやしない。

 わたしの名前はね、ライー。彗星って意味なんだ。ライーは彗星、みたことある……夜空にキレイな線を描いてとんでいくの」

「彗星……それは、流れ星とは違うの……」

 あなたは問い返す。あなたはおそらく、彗星をみたことがなかった筈だ。あなたが生きていた時代の中で最大級の彗星は2007年のマックノート彗星。けれどそれは、あなたの住むイスラエルでも殆ど観測できなかった。だからあなたは、その言葉を知らなかった筈だ。

 あなたの言葉に、シャヴィーはぜんぜん違うよ、と言葉を返す。

「流れ星は、地球に落ちる星のこと。ううん、星よりももっと小さな欠片のこと。

 彗星は、太陽に向かっておちるの。木星よりも遠い場所から、地球より近い場所まで、まるで虹のようにきれいな尾を引きながら流れていく。それは流れ星よりもずっと大きくて、きっと……」

「きっと……」

「きっと、すごくキレイ。何百万、何千万という人が、空に釘付けになるくらい」

「月よりも、星よりも、太陽よりも、ずっと」

「そう、ずっと」

 あなたは想像する。夜空を埋めるほうき星を。空に虹がかかるように、ほんのわずかな時間であっても、多くの人々がそれを見上げ、その美しさに見惚れるその瞬間を。それはあなたが想像したことのない夜の形。月夜のない漆黒の空にこそ、美しく輝く天空の一幕。

「いつか、二人で一緒にみられたらいいね」

 その笑顔を、あなたは一生忘れないでしょう。

 その笑顔は何よりも、彗星シャヴィトという名にふさわしかった。




 シャヴィーは父親に連れられて自宅に帰あなたは学校に最後まで残り、父の迎えを待っている。

 いつもなら暇を持て余していたけれど、今日は少しでも長く遊んでいたかった。少しでも長くボールに触っていたかった。

 あなたは器用にリフティングしながら、父の帰りを待っている。

 その日はあなたにとって、最高の誕生日になるはずだった。あなたの友人があなたを祝福してくれたように、あなたの家族もあなたを祝福してくれる筈だった。

 けれどその日、父の迎えは遅かった。日がすっかり暮れて肌寒くなり、父の帰りの遅さに不安を抱き始めた頃。ようやく、あなたの父が姿を現す。

「お父さんみて! シャヴィーに誕生日プレゼントをもらったの! ほら!」

 あなたは父のもとに駆け寄って、新しいサッカーボールをかかげてみせる。あなたの優しい父ならきっと、あなたを祝福してくれると信じて。

 けれどあなたは父の様子が普段と違うことに気が付いた。父の顔には、これまで決してみせることのなかった暗い感情が浮かんでいる。今までみたことのない父の表情に、あなたは戸惑う。

「お父さんどうしたの。なにかあったの……」

「会社をやめた」

 抑揚のない口調で、あなたの父は不吉な言葉をつぶやく。

 悪魔。

 IMI社は、悪魔に魂を売ったと。

 それは、あなたの父が初めて見せた怒りだった。

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